終章※俺は死なない。あなたがいれば痛くない。
第42話 永久に
十六夜待雪。
できそこないの満月と希望の花を由来とする彼と出会ったのは五年前。彼がまだ十四歳で、わたしが十九歳の夏。朝焼けが降りしきる霧雨に虹を映し出していた。
見渡す限り、見慣れた地獄。
吐き気を催す血生臭さは霧雨が洗い流してくれた。わたしが少女だったころから憧れ続けた騎士はわたしが大嫌いなものに塗れて、虹の根元に倒れていた。四肢も皮膚も眼球も両耳も失くして今にも死んでしまいそうなのに、彼は笑っていた。
今もそうだ。マツユキは両腕と意識を失くして、横殴りの天気雨に打たれている。何度も転びそうになりながら駆け寄って服を剥ぐ。ワイシャツのあちこちから血が滲み、その下の包帯も元の色がわからないほどに赤黒く、ぼろぼろになっている。
両腕は肩から先が損壊し、胴体は擦過傷と火傷痕に蝕まれ、両脚は太ももから先が捻じれて今にも千切れそうになっている。不思議なことに、致命傷だったはずの胸の傷だけが跡形もない。
全身を舐めるのに今さら恥じらいはない。苦手なものでもそれがマツユキのものなら躊躇いはない。マツユキとのこれからのために臆するべき他の怪我人の致命傷に限りすでに〈修復〉を終えていた。左腕、右腕、両脚、胴体。傷の酷い順に、舌を使って確実に唾液を塗り込んでいく。
あっという間にわたしの知らない間に付いた傷は塞がった。まるで戦いそのものがなかったように見えるのは〈修復〉であって修復にあらず。時間を巻き戻したからである。マツユキは目を覚ましていた。
呆然とわたしを見る表情に、わたしはどうすればいいかわからない。身体はこんなにもいつも通りなのに、すでに頭の中からはわたしのことなんて消えてしまっていると思うと涙が溢れそうになる。
『もし俺が何もかも失って、生きているのか死んでいるのかさえわからなくなってしまったら、どうかもう一度こりずに、永遠に尽くせと命じてくれ』
マツユキはいっていた。妹のことも許嫁のことも忘れていたって。
あの力は、あの悪魔は、きっとわたしとの五年間も奪っていっただろう。
何もわからないから何も言えずに、いつもみたいに強がって、わかったようなふりをする。
痛みを感じない癖に、誰よりも痛みを想像して、胸を痛めているような顔をする。
「ねえ、君」
マツユキが、わたしのことを君と呼んだ。
「幾つか尋ねたいんだけど、いいかな? まず君はどうして、僕の上に馬乗りになっているのか。だいたい君は誰なのか。僕は今、生きているのか、死んでいるのか」
マツユキが自分のことを僕といった。
「それと、これは僕の勘違いかもしれないんだけど、もしかして僕がこうして君と話せているのは君のおかげなんじゃないかな。だとしたら、どうして君は僕を助けてくれたのか。正直、そこに凄く興味がある」
最初から利用してやるだけのつもりだったのに。
現にマツユキのおかげでクソ姉はいなくなったのに。
マツユキはわたしのことを忘れてしまった。代償に選ばれるほど大切に思ってくれていた。わたしと一緒に生きた五年間は義務感や消去法で塗り固められた偽物ではなかったのだ。
結局、すべてを失くしてしまったのだと思うとやりきれない。
マツユキの大きな手が恐る恐る、わたしの頬に伸びる。
「っていうか。君が泣いていると痛むはずのない胸が痛むんだ。もしかして、これが一目惚れって奴なのかな?」
そういって、わたしの涙を拭ってくれた。
立ち上がれない。立ち上がらない。馬乗りになったまま、一心不乱に〈修復〉している内に還ってしまった二十四歳の姿のまま、マツユキの両手に指を絡めた。
あの日と違う彼がわたしの申し出を断るかもしれない。もし断られたなら、わたしは彼に執着し続けるだろう。重かろうが鬱陶しかろうが醜くも気高く、今は亡きクソ姉のように。
もう、死にたいなんて思わない。
「……マツユキ」
「え?」
「あなたは、五年前に失われたはずだった九頭龍分家6番目の血脈の末裔、十六夜待雪。だから――だから! 九頭龍本家の末裔としてわたし、九頭龍久遠が命じるわ!」
緊張して喉が渇く。貧血気味で頭が痛い。声が上手く張れない。でも、これだけは伝えなくてはならない。命令しなくてはならない。
「わたしと一緒に、永遠を生きてほしいの」
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