第41話 傷んだ赤色の悪魔、五体有する竜巻。
傷んだ赤色の悪魔と、白雪の天使。
五体有する竜巻と、龍遣う天女。
上空数千メートル。乱反射する光の中で二体の超常が衝突した。
赤黒い渦を振り下ろすと迦楼羅は翼をはためかせ、渦を受け止めた。ギャリギャリギャリギャリギャリ、水と血と黒煙と稲妻が鳴り火花が散る。刀どころか鉄すら介在する余地のない鍔迫り合い。
勝ったのは悪魔だった。迦楼羅は自ら地上へと羽ばたく。いっそはばたいて加速したようにも見える。事実、見えただけだったのだろう。はばたきの本懐は悪魔を止めることにあった。
あくまでも迦楼羅は俺を殺す気だけはなかったらしい。自分の意思で永遠になることを望まず、喪失によって永遠となることも否定された彼女は、たとえ悪魔の姿であろうと愛されることがなかろうと俺を氷漬けにして永遠にすることを選んだのかもしれない。
纏っていた光の正体は微細な氷の粒子。上空に回避した段階で準備は済んでいたのだ。凍てつく風に煽られて霜が付き、あっという間に竜巻の奥にある本体、俺の身体は凍り付く。
迦楼羅は妖しく微笑んでいた。
悪魔に縋るように手を伸ばし、こういった。
「痛みを感じず、何を受けても満たされず、だからこそ何もかも誰であっても受け入れる、錆びてしまって決して釣り合わない天秤。なら私も、もっと壊れていれば良かったのかしら」
止まらない。
赤黒く捉えどころのない悪魔ではなく、後付けの無痛症によって鍛え上げられた身体が時を止めることを許さない。
もしも十六夜待雪を救ったのが九頭龍迦楼羅だったら、もしも彼女がカテゴリーゼロだったなら。もしも血脈や九頭龍分家なんてものが存在しなかったとしたら。もしも黄昏時の砂浜で出会っていなかったとしたら、結末は変わっていただろうか。
救いを求めながら逆さまに堕ちる迦楼羅に、悪魔は手を伸ばさない。すでに迦楼羅自身によって巻き起こされた爆発で救うための手は存在しない。繋ぐことも抱き締めることも放棄した両腕代わりの二つの渦は空に向けられ、悪魔は射出される。
敵意も悪意も好意も善意もなく、ただ処罰すべき対象であると判断したのだろう。悪魔自身が迦楼羅に向けて加速する。
一瞬、接近に伴って表出した既視感は、鏡。
何かも失って、そこで笑わなければ一生笑えないような錯覚を起こしている不自然でヘタクソな笑顔。きっと彼女にとって、十六夜待雪という男は人生の全てだったのだろう。
それもそうだ。彼女の話を聞いただけの別の少女の唯一の生き甲斐が、会ったこともないその男になるくらいなのだから。
――この期に及んで、俺がその男であり騎士であり王子であるところの十六夜待雪と呼ばれる悪魔である自覚は乏しかった。痛みがないということはそういうことだ。自分が生きているのか死んでいるのかさえわからないのなら、自分が自分であるということだってわからない。
迦楼羅を叩き落とさんと迫る足は手と違い渦巻くことなく、放出も吸収もしない。切り裂く意思も朝日にギラつくこともない、役割も含め、さながらギロチンの如く定められた道筋を通るだけの必殺の刃。迦楼羅を包む透き通った翼は鍔迫り合うことさえ許されず、あっさりと切断された。
悪魔は、敵意も悪意も好意も善意もなく、天秤を壊した罪人を断つ。
二人は一つの紅い稲妻となり、堕ちる。
永久凍土の廃墟と化した九頭龍の屋敷に激震が走った。
暴風が去った後、濛々と上がる砂埃と氷の欠片が朝日に煌めく。家も家族も翼も失くしてしまった迦楼羅は未だ、生きていた。身体は二つに断たれていない。正面から止めることが叶わないのなら横からという発想は間違っていない。
迦楼羅自身は抱擁を待つように力なく手を広げ、諦観を込めた笑みを浮かべていた。地面と接触した衝撃を逃がしきれなかったのか、連戦での能力使用の限界か定かではないが咳き込み、口の両端から人間らしい鮮やかな赤色を零した。
この暴風で辺りの水蒸気も吹き飛んでしまった。だが、屋敷の残骸は残っている。
はじめに迦楼羅の血を多分に含んだ木材が、悪魔のギロチンを止めていた。受け止めるのではなく、刃は側面から圧力を与えられたことで迦楼羅を両断することなく動きを止める。自分の体液が含まれた液体を操作する迦楼羅ならではの真剣白刃取り。
その拮抗も長くは続かない。
悪魔の足は形を変えた。ギロチンの刃から、刃の渦、赤黒い竜巻となって屋敷跡地の床下ごと脚を留めていた木材を破砕する。一足早く、迦楼羅は悪魔の足場を辞めていた。
吐き出した血液が拡散していた。自分の顔を焼くことも構わず、爆発を推進力にして後ろに抜けだしたのだ。とはいえ、そこまでだった。
久遠よりも妖しい美貌は半分が焼け、瞬く間に霜が化粧をした。たとえ相手が悪魔の姿をしていても、自分に好意が向かないとわかっていても、譲れないものがあったのだろう。露出した脚も豊かな胸も辛うじて浴衣に覆われていた腹部も、朱色に染まっていく。首の大動脈からも気の早い秋が花開いた。
迦楼羅自身が操り真剣白刃取りを成していた木材の破片があちこちに突き刺さっている。
悪魔は動体を認識した機械のように、首から上を傾けて迦楼羅の姿を眺めている。神経と血管に似た赤い稲妻の駆ける暗雲は、竜巻もギロチンも消失して五体満足の人間の形をしていた。
迦楼羅の全身を覆う秋の趣もあっという間に真冬に突入した。時を同じくして、迦楼羅は両の膝を着いた。左腕のみならず両腕をだらりとぶら下げて、真っ白な冬の上に真っ新な秋が止めどなく溢れてくる。黄金色に反射していた栗色の髪は最早、竜巻に荒らされ秋と冬の絶頂に至って、赤く、白く、硬質で、見る影もない。
両脚はがくがく震え、両肩が白い息と呼応して上下している。あとは真っ赤な川がうぞうぞと滴るのみで、嘘っぽい笑みを除けば生きているのか死んでいるのかもわからない状態だった。
「ねえ、待雪君――最後に、私に、愛してるって、言ってくれる?」
二の腕と肩が生きようと必死に蠢いているのだと思った。その必死さは生きるためではなく、いつも久遠にしていたように抱擁されるのを待っているのだと、悪魔たる俺は気づく余地もなかった。もう肘から先は微動だにしない。
翼と角と色と質感と材質とその他諸々を除いて人間のような形をした悪魔が迦楼羅に迫る。
今や死に損ないの非力な少女のような迦楼羅が悪魔に倒れ込む。逃げも隠れもせず、悪魔と同じく敵意なく、いっそ相手が悪魔ではなく十六夜待雪だと認めて、求められるように求める。パイルバンカーで穿たれたはずの悪魔の胸に当る部分に損壊した顔を埋め、腰に腕を巻いた。
悪魔も抱擁に応えるように、迦楼羅の背に手を回す。
紅い稲妻の駆ける暗雲から、砂利を噛み砕くような音がした。
「
直後、形容し難い暴力的な音がした。氷が砕け、肉を裂き、骨が折れ、体液が撒き散らされる音。機械を通してなお劣化しない透き通るような声は嬌声にも似た悲鳴となる。
限りなく抱擁に近い形で行われた、限りなく抱擁から遠い行為は、食虫植物が甘い香りを放出して得物を捕食する様に似ていた。
俺が悪魔から十六夜待雪の姿を取り戻したとき、迦楼羅の姿は跡形もなかった。かつて日本の裏社会で栄華を極めた九頭龍という家の残骸、初夏にして凍り付いた木材、荒れ果てた紫陽花の花畑。蔓延した血の海と据えた香りは突如降り出した雨にすべて洗い流されてしまった。
こうして俺は迦楼羅との戦いで辛くも勝利を収めた。
〈
改め、
〈
によって。
代償は大切なもの。
命と同等か、それ以上の価値を持つもの。
俺は久遠と過ごした幸福な
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