第43話 くぱあ、口移し。
十六夜待雪の朝は早い。
六月十二日、相変わらず俺は生きているのか死んでいるのかもわからない痛みのなさに苛まれている。五年前まではいつだってそうだった。五年前からは彼女が傍にいてくれる限り、その限りではなくなった。
まるで他人事のように幸福な5年間の延長線上、今日も今日とて暗いうちから起きて側近として日課のトレーニングを終え、一通り情報収集を済ませると七時を過ぎていた。洗濯、掃除、ゴミ出し、日によっては買い出し、朝食の支度。執事としての日課も済ませる頃には八時近くなっているのが常。そうして自堕落な生活を送りがちな彼女を呼ぶ。
しかし、反応はない。
嬉しい溜息と一緒に冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを二本取り出し、片方を飲みながら彼女の待つ――今朝まで俺自身も眠っていた――寝室に赴く。
ドアノブに手をかけて思いとどまる。十六夜待雪なら、ここでノックはしないだろう。震える手を押してドアを開けた。
「久遠、朝食できたよ。起きて」
あらためて声をかけても反応はない。どうやって眠れば頭の下にあった枕を抱いてベッドの脇に頭を放り出せるのか、皆目見当もつかない。今朝は大人しく人に抱き着いてベッドに身を委ねていたはずなのだが。
逆さまに向けられた顔を覗き込みながら肩を揺すり、薄っすらと開いた瞳に笑いかける。
「おはよう、久遠」
「んう……あと5分」
しかし久遠は意に介さず、枕をきつく抱き締めて、瞳の紅も長い睫毛と一緒に隠してしまった。ついでにタオルケットを被る徹底抗戦の姿勢を見せつけてくれる。頭隠して尻と髪は隠せず。
身体を起こし、ベッドの上に座り込んだ。億劫そうに向き治るとうつらうつらとした眼を擦りつつ、タオルケットを被ったまま小動物めいた動きで鼻の穴をひくつかせていた。サイズの合わない下着が今にも役目を放棄しそうだ。
「……なんの匂い?」
「本日の朝食はフレンチトーストで御座います。お嬢様。昨晩食べたがっていたでしょう?」
姉には敵わないと嘆く胸いっぱいに香ばしさを吸い込み、それだけで満足してしまったらしい。
「……うん」
再び横になってしまった。枕はベッドの下に蹴りだされたほか、さっきと違うのはいっそ野暮ったいほどの髪を巻き込んでタオルケット抱いているくらいか。
「それより、のど渇いた」
「そういうと思って持ってきてる」
小動物がタオルケットの中から顔を出す。半開きの眼。効果音があればひょこっとか付きそう。そのまますっと目を細め、くぱあと口を開けてきた。流し込めということだろうか。
「いや、咽るし。床も汚れるだろ」
「当たり前じゃない。なにいってるの?」
怒られてしまった。何故なのか。奥に隠されたものと裏腹に、しかし表側と同じく小ぶりで薄い唇が真一文字に閉じられて俺を叱っている。
「だから、――くち……よ」
「え?」
ルビーのような瞳は俺を見ていない。物欲しそうな視線は俺の手にある水に向いていた。
「だから、口移しよ! く・ち・う・つ・し! わからない?」
言い切るより早く、下僕もとい執事ないし側近である俺が肯定するより先に、目を閉じて口を開いていた。いずれにせよシーツまで汚れてしまいそうだが。
目の前に、俺にとって何より意味のある深淵が覗いている。頬よりピンクで、桃より甘い。その主たる彼女もまた、俺を覗いていた。五年前に出会うより、ずっと前から。俺は久遠が十九歳で人生を始めたように、十九歳で全てを失った。昨日のことだ。
昨日、僕は――俺は、僕が俺たる全てを失った。
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