第39話 ぼくのこころをうちぬいて
炎は炎としての形を維持したまま時を止めていた。激しい炎の煌めきは失せ、朝日を受けて煌めく静かな氷の様相。炎は炎を模した氷像としてそこにある。まるでここだけ冬になってしまったようだとか俺の知る物理法則が通用しない異世界に来てしまっただとか、そういう次元ではない。
迦楼羅は押しつぶされる瞬間に時を止めたとでもいうように、内巻きのセミロングを大きく広げたまま静かな瞳で俺たちを射抜いていた。
「水には元から熱を奪う性質がある。私は私の血が持つ冷却効果を高めただけ。新しい特性を与えてすらいない」
水さえあれば現世のどこでも観測可能な千里眼。霧状に散布した体液による内臓内容物の逆流。体温の急上昇。組成物の変化に密度の変化。凍る炎。はじめから、彼女にとって物理法則などあってないようなものだったのだ。
思わずハッとしない。
いつものように嘘っぽい笑みが湧出する。
迦楼羅が油断も慢心も物ともしない真の強者であると忘れていたわけではない。正面からぶつかっても何一つ問題がない。そう考えてくれるからこそ、俺は最初の一手でミアと千鳥を助けることができた。勝利条件が真っ向から戦って勝利することでなければ、勝機がないわけではない。
傷は負っている。顔にはもちろん空気に晒された太股も、何より左腕は正常に機能していない。
炎と屋根の重みで止めをさせなかったことでむしろ不安が拭えず、時間を稼ぐように会話を試みる。ありがたいことに、迦楼羅も凍り付いた左腕の調子をパキパキたしかめている。頭も冷えたということだろう。彼女の目的は、久遠の話に依らずとも俺を手に入れることにある。千鳥率いる四月朔日側の戦力は再起不能、残るは昨日すでに一度勝敗の決した俺と久遠のみ。
「――雪女がノンフィクションだとしたら、今の貴女のような感じかもしれませんね」
迦楼羅が焦る理由はない。俺は久遠の修復を願いつつ、奥の手を切るタイミングを伺う。
じりじりと、しかし着実に、一歩どころか半歩ずつ、利き腕ではない左腕の調子をたしかめるようにしながら距離を詰める。迦楼羅は正常な右手を自らの頬に当てたきり、動かない。
紫陽花に似つかわしくない、艶めかしい白い吐息が立ち昇り、朝日に煌めく。
「異性の父親を殺してしまった胸の痛みを愛と勘違いした挙句、罪が露見し嫌われることを罰として、愛した人から自ら離れていってしまう、愛した人の中で自分の存在が永遠に冷凍保存されることを望んだ悲劇のヒロインぶった痛々しくて悲しい女の話ね」
「……斬新な解釈ですね」
「でも、どうかしら。雪女は本当に私? 貴方は主人公のつもり?」
「どうでしょう。俺は真実を知ろうが知るまいが、愛した人は愛した人のままで愛し続けると思いますが。迦楼羅お嬢様はどのようにお考えですか?」
「私も同じよ。貴方が私のことを忘れてしまっていても、私は決して忘れない。貴方が他の女を愛そうと私は貴方を愛し続ける。いつか愛してもらえると信じているから、諦めない」
「離れていった思い人を思い続ける貴女が主人公で、健気に相手を愛し続ける俺が雪女役。というより、どちらがどちらでも物語は成立する。どちらが男で女かも関係ない。力の強さも立場も関係ない。タイトル通り、主人公は雪女であると」
凍り付いた残骸の中、拳を叩きつけることも、抱擁もキスも思いのままな距離で立ち止まる。
迦楼羅の右手が俺の頬に触れた。きっと冷たいだろう、ミアと同じように、ミアよりも。それとも久遠と同じように温かいだろうか。俺の身長は一九〇センチに迫り、久遠と並ぶと久遠は小さく、俺は大きく見られがちだが、迦楼羅との身長差は十五センチ前後。抱擁もキスも手を繋ぐのも、久遠よりもやりやすい身長差だった。
唇が触れてしまいそうな距離に迦楼羅の顔が迫る。
俺はそれを拒否することなく、ただ目を細めた。
全体的にシャープで俺の手のひらより小さい顔。二重瞼に大きな涙袋。筋の通った鼻筋。久遠よりも睫毛は短く、久遠と違って左目の下に泣き黒子がある。火傷痕と切り傷には薄っすらと霜が付いている。見れば見るほど顔の造りが久遠に似ていて、だからこそ違う場所が目立つ。
背後の久遠に見せつけるような、あるいは俺や久遠の勘違いやすれ違い、破局を目論んでいるような。
「ねえ、待雪。どうして雪女は彼から離れて行ってしまったのかしら? やっぱり悲劇のヒロインごっこだと思う?」
――もう、充分だろう。
充分、久遠に危険は及ばない。
本領発揮だ。
「さあ、別に好きな男でもいたんじゃないですかね?」
外連味たっぷりに笑って見せる。
迦楼羅の眉根がぴくりと動いた。
「なら、そいつがいなければ二人は幸せに暮らしていけたと思う?」
「初めからいなかったなら、どうでしょう。でもきっと、いなくなってしまったなら死後も想い続けたでしょうね。あるいは、自らも後を追うかもしれません。喪失とは永遠です」
「素敵な解釈ね。だとしたら、やっぱり私は久遠よりも貴方を殺すべきなのかしら?」
「まあ、俺としてはその方が助かりますがね。物言わぬ死体や代用品を愛するというのは何か違う気がしますが」
「どうして? 私の永遠になるのは嫌?」
パキパキと、凍り付いた左手も俺の頬を覆う。
俺の頬も凍り付いていく。
指先に滴る血液が白く、白く。
「――ああ。俺の
雪女になどならない。
雪女になどしない。
頬に伝う赤い血が白く冷たく、俺を永遠にすべく広がっていく。
急速に全身を薄氷が多い、凍り付いていく。
こんな薄氷、冷たくない。
血は温かくない。
久遠のいない永遠などいらない。
身体に力を入れると易々と氷の膜は砕け散る。
構える。
腰は落とさない。
拳の握り方、指を握り込む順番、それだけに注意して最後、左手首を反り返らせる。
着想はリッカの義手から得た。神経に通じて医学に通ずるミアに施術を任せた。戦争屋の異名を持つ渡貫家の長女千鳥がいなければ成し得ない、痛みのない俺だけの武器。
使い方は、僕と久遠が教えてくれた。
左手のひらは胸に当てた。
左手首がL時に曲がると、噛み合う。
かちり。
ギミックの作動した音がした。
内部の火薬が炸裂し、撃ち出される。
銃弾では跳ね返してしまう恐れがあった。ナイフではまた力が入らない恐れがあった。だから俺が四月朔日の武器庫でこれを選び、麻酔もせずにこれを仕込んだ。
パイルバンカー。
爆薬や磁力によって勢いよく鉄杭を打ち出す兵器。
本来は堅牢な装甲を打ち砕くのに使用するそれで、自分の心臓を穿つ。
今回は何をどれだけ失えば、真の強者を倒せるか。
わかりきったことを自嘲気味に、驚愕に見開いた目に向けて、やはり外連味たっぷりに笑って見せる。黄金色の瞳は見開かれ、飄々とした笑みを映し出していた。
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