第38話 俺の話
暗い。
喰らい。
真っ暗な世界。僕は俺になってなお何も見えてはいなかった。
声が聞こえる。
啜り泣き。
掠れた声。
僕の名前。
目を開ける。
真っ赤な双眸。
大嫌いな血液と同じ赤なのに、僕を見つめるそれが驚嘆したように見開き、安堵したように細められると溜め息が出る。
リッカに対する
何か一つ間違えば立場は逆だったかもしれない。
僕は君が――。
俺はお前が、傍で生きていてくれるだけで――。
「久遠」
二人して同じような笑みを浮かべているのを瞳の中に確かめて、雨なんかより誰よりも重い意味を持つ雫を拭おうと手を差し出す。
久遠は俺の胸に縋る。
届かない。
縋ることは許されない。
そこは私の場所だと言わんばかりに彼女が迫る。
二人分の影の中で瑞々しく痙攣するモノクロがあった。太陽の高さは大して動いていない。大して時間は経っていないはずだが、戦局は大きく動いていた。表から裏に向けて大穴の空いた九頭龍の屋敷は台風の後大火事に見舞われている。焦げ臭さだけではない、火薬と燃料の匂いがする。
すでに執事が現代兵器満載のヘリで救援に来て、敗北しているらしい。
汗ばんだ腹筋は弱々しく、心臓と短剣のタトゥーと一緒にてらてらと点滅しているように見える。モノクロの白は大部分が赤く染まり、点々と灰のような黒ずみがある。仰向けになって僕らを見上げる彼女は父さんのように、父さんと違って強がった笑みを浮かべていた。
義手も義足も焼け焦げているどころか、内部の鉄が溶けてしまっている。だとすれば、みこっちゃんの全身を覆う変身も同じように対策を打たれてしまっただろう。凡そ、触れる体液に強い酸性の性質でも与えたのだろう。
燃え盛る大穴の向こう側は死屍累々といった様子。遠く、表の門は今なお黒煙を上げるヘリだったものに塞がれている。土蔵の壁には白と赤の入り混じったみこっちゃんらしき物体から亀裂が広がり、地面に向けて赤色を広げている。
「リッ、カ。起きて、早く、みーちゃんが」
リッカを呼ぶ四分の一の姦しさも姦しいというには力がない。大穴の中を裏門に向けて這いずる千鳥はツインテールを解き、毛先と一緒に身体も衣服もジュージュー焼いているが、バーベキューだのなんだのと馬鹿を言っている余裕はないらしい。磁力をフルに使えば傷も移動も関係ないのではないかと疑問が脳裏を過ったが、そうではない。
千鳥に引きずられるミアもみこっちゃん同様に、息があるかが怪しい。両目を一閃する大きな切り傷のおかげで、血の涙でも流しているように見える。彼女らしい落ち着き払った顔が状況と似つかわしくない。
二人の向こう側から迫るものがなければ久遠に〈修復〉を願っていたところだ。
「待雪君、みぃつけた」
うふふふふ、と妖しい笑みを張り付けて千鳥とミアを追う浴衣の女、九頭龍迦楼羅。
藍色の浴衣は至る所に切り込みが入り、着付けが崩れて露出した脚や豊かな胸元が炎で陰りつつ艶めかしく輝いている。心なしか傾いて見えるのは、だらりとぶら下げたまま動かない左腕のせいだろう。指先から一定の間隔を保って雫が落ち続けている。炎を受けて輝く瞳には、今や這う這うの体の千鳥もミアも映っていない。舞い上がる髪に怒髪天の鬼を空目した。
炎のトンネルを潜り、迦楼羅が迫ってきている。陽炎のようにゆらりゆらりと千鳥とミアを追い詰めて、しかし俺を見つけるなり二人を踏みつけ追い越し、迫る。
久遠の肩を抱き、立ち上がる。迦楼羅に笑いかけたまま、小さな声で伝える。
轟々と華やぐ炎の中では迦楼羅には聞こえようもない。
「リッカ」
呼びかけると地面を削る音がした。
「よく見ておけよ。これがお前の復讐だ」
パキリ、と爪の剥がれる音がした。想像の外にある痛みは血生臭い咳に代わり、てらてら光る腹筋が笑っている。
「久遠」
呼びかけると胸に縋る手にシャツが引かれた。
「もし俺が何もかも失って、生きているのか死んでいるのかさえわからなくなってしまったら、どうかもう一度こりずに、永遠に尽くせと命じてくれ」
久遠の視線は感じない。きっと迦楼羅を見ている。縋りつく手が胸板を撫でた。
「当然じゃない。何度でもあなたをわたしの永遠にする。死んでもあなたを取り戻す」
「了解、死んでも帰ってくるよ」
手を放す。
首筋の歯型に手をあてがう。
すると久遠は舌を伸ばし、歯型を覆い隠した。
「その代わり、わたしからもお願いがあるの」
恐ろしく小さい声。俺でなければ聞き逃していた。
命令ではなく、お願い。強制力はなく、俺は俺の意思で聞き届けるかどうかを決められる。多くの場合、それが久遠のためになるのなら聞き入れる。これは俺が聞くからこそ効果があり、俺が決断することに意味のあるお願いだった。
すでに迦楼羅はミアと千鳥を踏み越えている。彼女を囲む炎は翼を彷彿させた。
「私を無視してお喋り? 気に入らないわね」
俺も朝日と久遠を背にして、リッカよりも前に出る。
首筋の歯型は存在しない。
「まさか。今まさに貴女の美しさに釘付けになっていたところですよ」
「あら、嬉しいことをいってくれるじゃない。でもさっきのは何かしら? 抱き合っていたわよね? 幸せそうな顔をして。貴方は私のものになるのでしょう? どうして貴方と私の幸せを見せつけられるはずの久遠を抱いているの? どうしてまた私が見せつけられているの? 貴方の為に、貴方と同じように、私はみんな殺したのに。どうしてまだ私を愛してくれないの? やっぱり久遠が生きているのがいけないんじゃないかしら? 生き返るなら生かさず殺さず殺し続けないと駄目じゃない? ねえ、貴方もそう思うでしょう? 待雪君」
「そうですね。久遠を殺し続けないと駄目、という点を除けば、俺は貴女を否定できない。俺も貴女も殺戮者で、久遠を生かす代わりに貴女と共に生きる約束をしたのも事実。なぜ貴女ではなく久遠を抱いたかと言えば、まあ」
拳を握り込み、駆け出す。
「美しい貴女より可愛い久遠を守りたいから、ですかね」
迦楼羅は動かない左腕を薙ぐように振るった。
獅子の怒りを買った甲斐があったというものだ。
庇うように添えられた右腕と腰から上の回転を利用して、自らの血液を振りまいた。赤い雫の一つ一つが伸縮、柔軟かつ鋭利な刃物として迫る。それぞれは急所に向かわない。殺意は感じない。この一振りで行動不能にするのが最適とでも言わんばかりに、的確に手足の根元や関節に向いている。
四と八の強者曰く、迦楼羅産毒霧は動き続ければ問題ないはずだった。それに今日の天気は生憎の火事だ。
「二人を頼む、久遠」
脇目も振らずに駆け抜けた。
一瞬で右足を踏み込み、右足で蹴り出す。血の刃が肉を裂くのも構わず、空気が身を裂くにも拘わらず、ミアと千鳥を抱え、リッカと久遠の元まで下がる。
音速の運足。
これから先も久遠と生きていくために、後腐れも同情も後悔もなく生きるために、見捨てることは出来なかった。
二人を降ろすと自ずと首を鳴らしていた。
見ると、今しがた付いた傷も予想より浅い。やはり炎が味方をしてくれているらしい。
「さて、それじゃあ望み通り殺し愛をしましょうか、俺と。ね、迦楼羅お義姉様」
お願いを完遂し、腰を落として構える。再び駆け出すのも拳を打ち出すのも思いのままに。
迦楼羅は炎の中で呆気に取られたように立ち止まってしまった。
「……あはっ、悪くない響きね。でもムカついたわ。そこは私の場所でしょう? 私が、私が彼に愛されるべきなのに……久遠。やっぱり貴女を殺すわ。死ぬまで殺す。何度だって殺す。死んでも殺す。ね、それでいいでしょう? 待雪君」
「お断りします」
空気を穿つ。迦楼羅からわずかにずらし、振り抜いた。
リッカにぶつけたのと同じ衝撃波が駆ける。
炎が揺らぎ、逆立った迦楼羅の髪が天を衝いた。
当然、迦楼羅を倒すには至らない。
せいぜい熱気を煽り、迦楼羅自身が黄金色の目を細め、覆った手で目隠しをする程度。
それで充分だった。
できることなら奥の手など使わずに勝つのが望ましい。
屋敷の大穴、揺れる炎の中に再び飛び込み、駆け抜ける。
肉薄し、改めて拳を振るう。
迦楼羅に向けてではなく、屋敷を支える大黒柱に向けて。
大炎上した屋敷の柱を折ってやれば自然、屋敷は崩れる。そうして再び久遠の元へと転がり出て、下敷きになるのを避けた。熱されて乾いた空気の中なら、体液を自在に操る迦楼羅より俺の方が早い。
「悲劇のヒロインごっこは一人でお願いします」
迦楼羅の能力によってガタが来ていた屋敷は易々と崩れ、迦楼羅は屋根と炎の下敷きとなった。
名家の一家惨殺。
ヘリの墜落。
屋敷の炎上。
果たしてこの大惨事は世間に向けてなんて公表されるのか。大規模な火災、山火事、事故。いずれにせよ、血脈のことが表沙汰にされないことだけはたしかだ。
まずは久遠に無理を言って皆を治療もとい〈修復〉してもらって、話はそれからか。いやしかし、これから敵になることを考えればこのまま放っておくのが一番賢いか。後悔のない生き方が望ましいようなことを言っておいて、まさかこんなにも早く俺自身が選択を迫られることになるなんて思いもしなかった。
刹那、背後の炎の勢いが弱まった。
弱まった、というより消えたとしか思えない。
燃え盛っていた轟々と言う音が消えていた。
炎を映し出しているはずの鮮血めいた双眸は俺を見ていない。俺を透かして背後の炎を、あるいは炎に包まれているはずの別の何かを、存在するはずのないものを見ている。
振り返る。
屋根が落ちて視界が開けたことで表の門が見えている。土蔵にめり込んだみこっちゃんは相変わらずだし、ここで別の血脈が参戦なんてこともない。どれだけ嘘みたいでも悲しいかな、現実として起こってしまっている。
武家屋根の下敷きから抜け出した、それだけでも人間ではない。そうでなくても屋根が焼け落ちるほどの火災(大黒柱をへし折ったことは考慮しないものとする)を、こんな――。
「……これは驚いた。何をどうしたら、体液が混ざった液体を操る能力をどう応用したら、こんなことができるんです?」
瓦礫の山と化した屋敷の中央に浴衣の女が立っている。
翼にも似た真っ赤な炎、舞い散る羽の代わりに柔肌を汚した黒い灰、屋敷に頭を打たれて流れ出た赤黒い血液、左手首の切り傷。そのすべてが真っ白に凍り付いていた。
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