第28話 愛して痛い

 んっんっ、と上品な咳払いがあった。

 細く、深く息を吸い込むのが背の膨らみでわかる。


「待雪さん、ひとつうかがいたいことがあるのですが、よろしいですか?」


 それぞれの能力を把握し、治療をして、俺はスーツ一枚剥けば全身包帯でミイラ男同然の姿となり、簡単に作戦を立て、九頭龍本家殴り込みもといお姫様救出作戦の準備を整え、屋上のヘリポートまで移動している最中。八叉のみこっちゃんと千鳥はどちらが先陣を切るかで揉めている為に置いてきて、執事は先んじてヘリの準備をしているらしい。


 少なくとも五年以上ほったらかしにしていた許嫁と図らずとも二人きりになってしまい、声をかけられると俺自身心の整理がついていないことを見透かされたような気がした。


「何かな?」


 ロマン満載の第四霊安室ではない、地下一階から通常のエレベーターに背中から乗り込んで屋上に向かう。俺の不手際で久遠が身体をぶつけないように気をかけるのと同じ要領でミアの安全を確保する。両開きのドアが閉まり、動き始めた。


「わたしのことも、助けてくださいますか?」

「もちろん、必要となれば壁にはなれる。でも今まではみこっちゃんが守ってくれていて、今日もみこっちゃんか千鳥が守ってくれるって話なんだろう?」


 どちらの方が前に出るべきか、どうすれば守れるか。ではなく、彼女が如何に可愛いかで議論をヒートアップさせていた二人を思うと頭を抱えたくなる。

 俺も単純なパワーにはそこそこ自信があるけど、あの二人の出力には到底及ばない。


 俺の役目はミアの警護ではなく対迦楼羅キング用のジョーカー役と久遠クイーンの救出。後者はともかく、前者については役に立つかわからない、何故なら迦楼羅の能力は、という説明も済ませていた。

 四と八の強者曰く、〈体液交じりの霧〉については『動き続ければ問題ない』とのこと。あの二人は既に人類かどうか怪しくもある。力量を考えれば人間よりゴリラだろう。しかしミアはそうではないのだと語る。


「待雪さんはわたしではなく、久遠さんが、お好きなのでしょう?」


 一階に着いたことをオレンジ色の電光で確かめ、見下ろす。後頭部を半周するように丁寧に結われた白金色の髪は大仰なアクセサリーの鎖のようだ。ドアの鏡面は歪んでいて、表情はうかがえない。

 そういえば覚えている風なことを言ってはみせたが、その実、何も覚えていない。執事との戦いを観戦する傍らで会話が聞こえていたとしたら、許嫁がいたことなど覚えていないと露見していても不思議じゃない。そうでなくても迷うまでもない。


「ああ、好きだよ。俺は久遠が好きだ。愛していると言ってもいい」


 記憶になかったとはいえ、堂々と許嫁に向けるべき台詞じゃないな。平手打ちか目つぶしか、車いすで轢かれるくらいの覚悟はしてくべきかもしれない。杞憂だった。


「わたしと、久遠さん、どちらかひとりを選ぶなら、やはり久遠さんになりますか?」

「うん、ごめん」

「そう、ですか」


 表情は読み取れない。だが、頭を前に突き出して自分の膝を見つめていると主張する後頭部を見て、ハンドルを握り直して上を見た。三階を過ぎる。


「どうしても、わたしではいけませんか?」

「ごめん」


「わたし、待雪さんのことがすきです。あいしています」

「俺も、お前みたいなタイプは嫌いじゃない。愛していると言えなくもない」


「わたし、実は料理が得意なんです」

「奇遇だね。俺もだよ」


「ずっとずっと、待雪さんのことだけを考えて、待雪さんのお嫁さんとしてふさわしい女性になれるよう、努力してきました」

「ありがとう、嬉しいよ。俺も毎日久遠のことばかり考えて、久遠に相応しい男になりたいと思っているから、気持ちはわかる」


「わたしも、久遠さんと同じように待雪さんに温もりを与えられます」

「俺は久遠が好きなんだ」


「あなたは、わたしのすべてです」

「俺の全ては久遠のものだ」


 ぽーん、と。

 間の抜けた電子音。


 屋上に着いたと二人だけのためにアナウンスが入り、ドアが開く。ようやくへらへら笑った嘘っぽい笑顔の残骸が消える。間違っても途中で閉まらないように開くボタンを押しながら、車椅子を押して屋上に出る。

 待合室には背もたれのない三人用のベンチが六つ、川の字を描いて並んでいた。壁際には四台の自動販売機が並び、硝子製の自動扉の向こうにはヘリコプター。操縦席で執事が計器類を弄っているようだ。


「――痛いですね、わたし」

「痛い?」


 どこかぶつけてしまっただろうか、みこっちゃんと千鳥に殺される。


「はい。ずっと、ずっと、かんちがいをしていたわけですから。親のつごうで定められただけなのに、十六夜の血がとだえたと聞いて、ほんとうに存在しない血脈になってしまったとかんちがいをして、それでもあなたがいつか帰ってくるような気がして、わたしは幼い日の恋に恋する少女のまま、来年には成人してしまいます。夢見がちで痛々しい、かんちがい女です」


 目映く、目が渇く。自動ドアが開くと東の空から太陽のフレアが直接網膜を焼き、屋上の風が舞い込んできたのだ。ミアの入院着が激しくはためいているのを見て、俺は後ろ向きで進む。

 喪服と揶揄されがちなスーツも翻ることこそないけれど、風を切り開くことは叶わない。後ろ向きで、車椅子を支えながら風に立ち向かうのは想像よりもきつい。あの執事、これみよがしにプロペラの回転数上げてないか?

「……だいじょうぶ、ですか?」


「大丈夫だ。いいんだよ、痛々しくて。痛みがなければ、傷ついていることにも気づかないで死ぬ。痛みがあるから、傷ついても死なずにいられる」


――間違ったことは言っていない。だが、俺がいうのは違うような気もした。彼女が痛々しいと自虐する原因を作ったのは他ならない、俺なのだから。


 そもそも世の中に謝って済むことなど一つもないのだ。謝ったところで失敗が成功に変わるわけではないし、失われた血脈は取り戻されないし、死んだ人間は生き返らないし、俺は久遠を見捨てたくない。常識も道徳も信条も関係ない、自己満足にしかならないお為ごかしなど初めから必要ない。嘘か本当かも明らかにできない言い訳に意味などない。


「――ごめんよ」

 それでも俺は、嗚咽を耐えて背中を震わせるミアに対して謝ることしかできない。

 このあと、目を腫らしてはなじるを啜るミアを見た千鳥にグーで殴られ、みこっちゃんに仲裁して貰った。彼女も密かに睨んだのは見逃さない。執事はざまあみろとでも言いたげな笑みを浮かべていた。


 痛々しく愛していると語ってしまうほどの相手に拒否されるのは、どれほど痛いだろう。痛みを想像して痛めている俺の胸よりはずっと、痛いはずだ。俺が久遠に否定されたらと思うと吐き気さえ湧いてくる。


 ところで。

 敵対者であるところの迦楼羅も同様どころか重症のような気がするが、彼女の痛みに関してはすっかり忘れていた。久遠以外の大切なものは全て忘れる鶏のお友達は伊達じゃない。

 執事が操縦席に乗り込んだ後、ミアの車椅子を押して後部の空間に続く。

「わたしのこと、嫌いではないのですよね?」

「ああ」


「あいしていると、いえなくもないのですよね?」

「ああ」


「痛くて、いいのですよね?」

「ああ」


「なら」

 視線を感じて見下ろすと、逆さまの薄い唇が頬に触れた。歯の硬い感触、雨のような冷たさ。緑色の左目の下は赤く腫れて、右目の眼帯下部でも涙の痕跡が笑顔を寂し気に彩っている。強がっている笑顔は既視感に溢れているが、悪くない。前振りの深呼吸はなかった。

「わたし、あきらめません。いつかあなたを、ふり向かせてみせます」


 強い人だ。彼女のような人を魔性というのだろう。俺は、彼女のことを嫌いになれそうにない。罪悪感いたみを胸に、朝雲の流れる空へ。


 垂直移動が平行移動に変わったときには、久遠のことが心配で仕方なくなっていた。俺にとって一番の痛みは、久遠を失ってしまうことなんだ。

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