第9話 嘔吐、白濁、体液操作。

 この国の主要な機能の全てを担うことさえ可能であると言われる、九つの血脈。その筆頭である九頭龍の本家は都心郊外の山奥にある。同じ都市の中とは思えない緑の中、しかし登山道よりもずっと整備された私有地を、手を繋いで歩いた。

 竹林の中を吹き抜ける風が緑を揺らす。たしか九頭龍の屋敷の手前には滝があったはずだから、涼しげなのはそのせいかもしれない。心地良くも張り詰めた空気が満ち満ちている。そんな気がする。

 というのも、俺は熱も風も感じられず、この場所の雰囲気と言うか趣が、実家であるところの十六夜の屋敷に似ているためだろう。

 懐かしさと緊張感がないまぜになって、繋いだ手がよく滑る。

 久遠はしきりにハンカチで汗を拭いていた。血脈の反動を除けば代謝の低い久遠が竹林に入ってからそんな有様なのだから、雰囲気が涼しいだけでその実、暑いのだろう。俺も足は止めずにタオルを取り出し、自らの汗を拭いた。

 後から思えばそれは汗ではなく、湿度が高いだけだった。

 感覚の鈍い俺が迷わないように、久遠が先を歩く。かと思えば、足取りが危なっかしく思えて、久遠が躓いても転ばないように、支えられるように、俺が先を歩く。

 既に午後六時を回り、竹林の闇が刻一刻と濃密になってきた頃だった。

「のど渇いた」

 と三本目の飲み物を強請られた。立ち止まり、登山用のバックパックから乳酸飲料の五〇〇ミリのペットボトルを取り出す。封を開けて渡すと、久遠はペットボトルを静かに傾けてこくこくと飲み始めた。まったく、不便な身体だ。面倒の見甲斐がある。

 どこかにカラスの巣でもあるのだろうか、見上げた夕焼けの空にはいくつも黒い影が飛び交い、鳴き声が止まない。夕焼けはピンク色だった。

 歩き出して少しすると木製の立て札があった。手入れが行き届いており、苔の一つも見当たらない。内容は『100メートル先、九頭龍社』。たしかに水を叩く音が大きくなっている。

 九頭龍というのはその名の通り、9つの頭を持つ龍である。九頭龍社というのもその名の通り、九頭龍を祀る神社を差す。伝承にもよるが元は悪鬼で封印によって雨と水と歯痛治療を司る神に転じたといわれたりもする。滝の前にはその祠とちょっとした休憩所があったはずだ。

「少し休もうか?」

「大丈夫」

「お腹は空いてない?」

「大丈夫。ギリギリまで持たせる」

「そうか」

 何となく、俺も足の動きが鈍くなってきているような気がする。

 九頭龍家の屋敷は目と鼻の先。疲労が出るのも無理はない。

「それにしても、まさかここに戻ってくることになるなんてね。こんな機会じゃなければ想像すらしなかっただろう。だから、用を済ませてさっさと帰ろう。俺たちの家に」

 気休めとはいえ本心だった。俺がいうと途端に胡散臭くなるような気がして、苦笑が零れる。久遠の表情も心なしか柔らかくなったような気がした。どれだけ嘘に塗れていても、それが他人の為になる優しい嘘であるならば、悪くない。

 ちょうど九頭龍の滝に繋がる脇道の前を通った時だった。

 俺は俯いたままの久遠を慮って視線を投げたはずだった。

 俺の眼は既に、久遠の向こう側にあるものに気を取られていた。

 大質量の水が滝壺の水面を散らし、薄霧が風に吹かれて蛇のように足元を揺らめいていた。ピンクの夕焼けに照らされて透明の水はピンクに、穿たれる岩は燃えるような紅に染まり、竹林の影は針のムシロのようだった。今が秋なら地獄と見紛うような美しさがあっただろう。

 滝を背に、祠の前に、着物の女が立っていた。俺たちに向けて、薄っすらと口元を歪めている。どこか荘厳な佇まいと裏腹に、寒気のするような薄ら笑いを浮かべ、こちらを見ている。

 久遠よりも明るい、朝焼けの黄金色の太陽にも似た瞳が真っ直ぐ、俺たちを射抜いている。以前と変わらない毛先に向けて内側に巻かれたセミロングは日差しを受けて黄金色に輝いて見えた。黒く見える着物は恐らく藍色で、描かれる曼殊沙華の淵も黄金色で彩られている。

 モデル並みの背の高さも相俟っていっそ神々しささえ覚える彼女こそ、九頭龍迦楼羅くずりゅうかるら

 九頭龍分家次期頭領候補の一人にして、久遠の姉。久遠がこの世で最も好きなものが十六夜待雪だとするなら、九頭龍迦楼羅は久遠がこの世で最も嫌いなものである。間違いなく最強の敵。それこそが、俺たちの最初の敵だった。

 迦楼羅はこの戦いに乗じて久遠を殺すと言っていた。

 久遠は最初に迦楼羅を殺すと言っていた。

 久遠は俺の視線に気づかない。俺の能力では迦楼羅を倒せない。久遠の能力でも迦楼羅は倒せない。後手に回る他ない。俺の能力で久遠を守れるか。久遠が生きてさえいれば、俺の身体はどうにでもなる。いや、そうでなくても、迦楼羅は俺を好いている。血脈では久遠を守れないが、俺が十六夜待雪であるならば、俺は迦楼羅にとって最大の壁になりえる。

 久遠の手を引いて俺が前に出る。俺が前衛で久遠が後衛。セオリー通りで作戦通り。不意打ちを決めるはずが不意打ちを受けて驚いたが、問題ない。

 そう思っていた。

 手を引かれた段階で久遠は驚いた顔をしながらも俺の意図に気付いたようだった。遅かった。

 久遠の頬が膨らむ。目が血走るほどにかっと見開かれて、繋いでいない左手で自らの口を押えていた。勢いよくふらつく身体と一緒に右手も離れてしまった。放してしまった。

「う、げぼっ、げッ、ェえええッ!」

 音がした。久遠の口から、胃も食道も肺も口腔も舌の根も、通った器官の全てを傷めるような。俯いた先の地面にびちゃびちゃと吐き出されたのは、どろりとした液体と固体の中間のような物体と、毛髪に似た黒い物体が複数。抑えた手と口の周りも同様に、外出用のゴスロリの黒も滴った白濁液で汚れてしまった。久遠の顔をすっぽりと覆い隠しかけていたマスクも落ちる。

「あら、いつの間にか、ひじきも食べられるようになったのね。偉い偉い。良く出来ました」

 声がした。甘ったるい囁きに向き直ると、目と鼻の先に黄金色があった。夕焼けに陰った瞳は獲物を逃すまいと炯々けいけいと輝いていた。迦楼羅が背伸びをするか、俺が退いた身体を元に戻せば届く。キスの距離で、笑っている。辛うじて、笑って見せた。

 迦楼羅は音もなく、足を使った挙動もなく、俺の間合いに入っていた。俺の能力は元より、久遠の能力はもちろん、十六夜待雪という存在さえ障害にはなりえないと判断したのだ。俺がこの戦いのジョーカーであるなど、思い上がりも甚だしい。

 遭遇と同時に、俺と久遠は勝機を失った。

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