第10話 撫ぜられて、胸に抱かれて五里霧中。
「流石は待雪君。ぜんぶぜんぶぜえんぶ、待雪君のお陰ねぇ? いつも出来の悪い妹の面倒を見てくれて、ありがとう」
久遠と近い造詣の顔に胸が痛む。それさえも裏切りに思えて胸が痛む。
勘違いを起こしてしまいそうな顔に妖しい笑顔が浮かんでいた。
目を合わせたまま、退く。
「まさか、面倒なんてことはありません。実益を兼ねた趣味のようなものです。何よりひじきを克服したのは久遠の努力があってこそ。お褒めの言葉は光栄ですが、まずは久遠お嬢様に向けられてはどうでしょう?」
しゃがみ、ぜいぜいと呼吸を荒げる久遠の背を擦る。繋いだ手を放し、肩を抱く。久遠は自らの腹部を労るように汚れた手を添え。顔は白より青く、汗も酷い。
「ええ、そうね。そうかもしれない。だからご褒美に最初に殺してあげましょう。私が最後に勝ち残っていればお父様も文句はないでしょうし。それに何より、ようやく待雪君が私のものになる」
「お姉様!」
しゃがれた声で久遠が叫んだ。久遠の瞳は憎々し気に、迦楼羅の瞳は嘲るように、歪んでいた。それだけで人を殺せそうな視線が交差する。けほけほと咳き込み、歯を食いしばる音がした。
「……ごめんなさい。わたしが悪かったです。だから、それだけは取らないでください。許してください。他のものは何もいらないから、それ以外なら何でもするから、マツユキだけは取らないでください。お願いします。お願いします!」
繰り返しになるが、九頭龍久遠がこの世界で最も嫌いなものは、姉であるところの九頭龍迦楼羅である。久遠は今、自らの胃の内容物のシチューとひじきに埋もれるように、頭を下げていた。精一杯の懇願、土下座。自分の為にそれをされていると思うと、何も出来ない自分が恥ずかしい。痛まないはずの胸が痛む。
うふふ、と耳障りな声が聞こえた。久遠と似ていて久遠が出し得ない声。それを耳障りだと思ってしまうことに胸が痛む。敵対者であっても久遠に似ていて胸を痛ませてしまった事実に胸が痛む。
いっそ優雅とも言える所作で迦楼羅は自らの口を押えた。
「まあ、意地汚い」
ミシミシ、と背筋が凍るような音がした。
願いというのは叶わないものだ。必死に願えば願うほど、現実の空虚さを思い知る。
俺は、弾けるような勢いで手を出した。拳を振り被らなかっただけ、褒められたものだと思う。反面、久遠のために我を忘れられなかったことになお胸が痛む。今度こそ、久遠の前に立ち塞がっていた。
「迦楼羅お嬢様。俺からも一つだけ、お願いがあります」
「なあに、待雪君。そのお願いはどうしても今じゃなければイケないこと? 久遠を殺した後でゆっくり聞くんじゃ駄目かしら?」
「どうしても、今でなければ駄目です」
「そう。なら、聞くだけ聞くわ。言って御覧なさい」
湿った空気を精一杯に吸い込む。胸が痛む。
「俺は貴方のものになります。だから、久遠の命は見逃してくれませんか?」
不安げな囁きが背を叩く。
「マツ……ユキ……?」
――胸が痛い。
迦楼羅は呆気に取られたような顔をして、悩むように自らの両手で自らの頬を包んだ。
「あ、はっ、あははははっ! 待雪君、わかっているの? それは久遠のお願いを待雪君自身が断ることになるのよ? ねえ、待雪君、待雪君、本当に本当に本当に、わかって言っているの?」
「もちろんです。迦楼羅お嬢様は、久遠の願いなんて聞く気はないでしょう? なら、俺は嘘なんか吐きません」
「いや、それだけはいや、ダメ。マツユキっ」
縋るような声は背中から心臓に杭を打ち込むようだ。
――こんなときに、使えない能力だ。
「ええ、ダメね。私は待雪君の言う通り、久遠のお願いなんて聞く気はない。待雪君を五年も独り占めしたんだもの。命一つで済むのだから、良心的でしょう?」
嘲笑うような笑顔は揺るがない。
嘘っぽくてもいい、俺も必死に不敵な笑みを浮かべる。
「いいえ、それは違います。命一つで済ませるなんて、そんな良心は必要ありません。あえて生かしておいて見せつけてやるんですよ。俺と貴女の幸せな日々を。貴女が経験した地獄を久遠にも味合わせてやるんです。それはきっと良い意趣返しになるでしょう。だから、俺からのお願いです。俺は貴女が望む限り、貴女のものになります。だから、久遠の命だけは見逃してください」
「なるほど」
得心した様子で迦楼羅は自らの下唇に自らの人差し指を押し当てた。そして、同じように同じ指を俺の唇に押し当て、嗤った。
「いいわ、いいわよ、最高ね。何がいいって貴方が自分からそれを言い出したのがいい。久遠は殺さず閉じ込めておく。そして貴方は私のものになる」
録音しておけばよかったわ、この、すまーとほんで! と、妖しい笑みの下で点灯した画面にはデフォルト設定のロック画面と現在時刻が表示されていた。
うふふふふ、と迦楼羅は久遠の前でしゃがみ、頭を撫でた。
「さて、お帰り、久遠。こちらは貴方の義理の兄になる、待雪君よ。ご挨拶なさい」
迦楼羅は俺を手のひらで指し示し、久遠は悲しそうな目で俺を見た。
俺は笑って手を振った。
「では、迦楼羅お嬢様」
「ううん、違う。違うわよ、待雪君。私のことは迦楼羅って呼ぶの。久遠を呼んでいたのと同じように、恋人みたいに、私と生きて?」
「……迦楼羅、久遠は俺が運んでいくよ。君に重いものは持たせられない」
跪くようにしゃがむ。自らの吐瀉物で汚れた久遠の顔を手のひらで拭う。顔を上げてなお水気マシマシなのは彼女が泣いているからだ。八重歯で切れた唇から血を流して、血は涙と混ざって吐瀉物に落ちる。俺の手の平の血液も零れた。
「ええ、よろしくね。待雪君」
そうして迦楼羅は俺に背を向けた。
胸の痛みに従い、微笑む。吐瀉物に塗れた小石を握り込む。久遠曰く、人を殴るときは何か握っていた方がパンチ力が増すらしい。
俺が失っている痛覚というものは通常、一般的に身体の危険信号の役割を果たしている。それが存在しないということは、身体が自らを守る為のセーフティロックでさえ、存在しないことになる。つまり痛みを知らない俺の身体は、身体能力の限界も知らない、ということだ。
我を失って拳を振り抜けば、ヒトの首は元より頭蓋でさえ、ひとたまりもないだろう。
たとえ相手が九頭龍迦楼羅であろうとも、拳が当たれば勝てるのだ。
曲げた脚に力を入れる。最大の力を込めて飛び上がり、拳を叩き込む。
そのはずだった。
俺は今日も大切なことを失念していた。
相手は、最強の血脈を持つ一族、九頭龍の末裔。普通の人間は元より、痛みを失った代償に手に入れた超身体能力など安物の玩具のようなものだろう。六が九より低いなど数が数えられるならば誰にでもわかる理屈のはずだった。
結論から言おう。
俺は迦楼羅に勝てなかった。
拳は、届かなかった。
圧倒的な差を覆すために、弱者は工夫し強者に立ち向かう。そこに強者の油断や慢心という要素が混ざり、初めて勝機が生まれる。そう思っていた時期が俺にもあった。だが、そんなのは嘘だ。背中を見せるということは油断や慢心ではなく、背中を見せてなお絶対の自信を誇る何かがあるということ。真の強者というのは強者であるから強者なのだ。
目と鼻の先にある後ろ姿に――後頭部でも背中でも、当たれば勝てる――打ち込むだけなのに、触れることさえ叶わなかった。キスすることを避けていたはずなのに、言うことを聞かない身体はただ、ゆらりと振り向いた彼女の胸に飛び込むに終わる。
視界が揺れていた。飛んだはずの身体は身体能力の限界を迎え、脚の力ほとんど立ち上がっただけで使い切っていた。世界が回り始める。
遠くから久遠が俺を呼んでいる。
天高くから、迦楼羅の声が聞こえる。
「あらあら、案外甘えんぼさんなのね。待雪君。いいのよ、幾ら甘えても。貴方が私のものになるなら、どんな形でも構わない。愛ってそういうものでしょう? どれだけ壊れてしまっていても、どんな欠点だって可愛らしい。好きってそういうことでしょう? 全部、貴方が教えてくれたことよ?」
頭を撫でつける手を見上げると、迦楼羅の恍惚とした笑みが見えた。
黄金色の瞳に久遠の姿は映らない。
「不思議そうね。心配しないで? 貴方も久遠も、少し体液の質を弄られただけよ」
人体の六〇パーセントから七〇パーセントは水分で構成されている。久遠は胃の中身を逆流させられ、俺は血液の流れを妨げられているのだろう。或いは、血液の温度を大幅に上げられている。だが、なぜ。
なぜ、迦楼羅は自らの体液を介さずに俺たちを攻撃できたのか。
九頭龍家は、自らの体液に異能を宿す血脈だ。
「ここが何処か忘れたわけじゃないでしょう? 今、私たちが何をしているか、忘れたわけじゃないでしょう? 私が誰か、忘れたわけじゃないでしょう?」
――ああ、そうか。この女、最初から。
答えるように、吐息じみた囁きがあった。
「この霧には、私の体液が混ざっているの」
せめて、気を失う前に一言だけ、言っておかねばならないことがあった。
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