第一章※白蛇は怒り、黒姫は許しを請う。

第5話 チェリーの茎が環を描く

 血脈クオンタム。ある遺伝子の塩基配列上において、身体の一部に宿る異能の総称である。

 ある遺伝子というのは九頭龍家を筆頭に一から九の数字を含む姓――諸外国にも血脈が存在することを踏まえるとファミリーネームと言った方が適切か――の中でも特定の家系が持つものを指す。

 たとえば九頭龍家は代々体液に異能を宿す一族である。久遠は自らの体液に触れた物体を治癒する能力を有し、代償として喉が渇きやすく貧血気味で外見年齢の不安定な身体で生きている。家系によって異能の宿る箇所こそ同じだが、その種類は大抵、違うものとなる。久遠が治癒能力であるのに対して、彼女の姉は体液を介した念能力なのがいい例だ。

 俺が痛みを感じないのもまた血脈クオンタムの作用によるものである。


 十六夜血脈クオンタムネットワーク・錆びた天秤・スカーレットスケール


 それが俺の無痛症の原因であり、異能。血脈クオンタムというより病名のような認識をしている。

 九頭龍分家ナンバーズは各家に役割が与えられている。たとえば九頭龍家ならば地震や台風、核ミサイルまで。甚大な被害が想定される天災級の危機に対抗するための最終手段。

 要は、国防における最終防衛ラインとして存在するのが九頭龍分家ナンバーズである。

 そして、同じ血脈の中でどれだけその役割を成すのに適した異能であるか、0から5までの六段階で評価される。病気のような認識、というのは何の比喩でもない。俺の血脈はカテゴリーゼロ。無痛ゆえに無能の烙印を押された異能なのだから。


 六月十日、昼過ぎ。八重歯を見せて天真爛漫に俺を父親呼ばわりする薄着の少女は普段と変わらない、およそ十四歳程度の姿の久遠である。断じて久遠との間に出来た子どもや襲撃者ではない。

「ねえ、おかえりっていったらただいまでしょ! パパ!」

 後ろ手を組んでいっそ十四歳よりずっと子供らしい笑みを浮かべて首を傾げて見せた。

「……ただいま」

 不承不承、リクエストに応える。これが久遠でなければ頭の一つでも抱えていたところだが、久遠であるならば何も問題はない。こういった気紛れに付き合うのも俺の仕事で、こんな仕事は嫌じゃない。

 が、しかし、

「で、何があったのか聞かせてもらおうか?」

 胸の痛みと付随する安心感はさておいたとしても、この惨状の真意を聞かねばならない。凡その検討はついているが、こういうときに叱るのもまた九頭龍家側近としての役目である。

「ねえパパ、お土産はー?」

 久遠もまたさておくことにしたらしい。必死に俺が手にした紙袋に視線が泳いでいる。部屋の惨状について聞かれたくないのだろう。あくまでシラを切るというのであれば、こちらにも考えがある。薄暗いリビングの明かりを目指し歩くと、久遠はしきりに紙袋に目を泳がせたままで後ろに続いた。

「ああ、昨日飲みたがってた奴を買ってきたよ」

 そういって紙袋を手渡すと久遠は一層、目を輝かせた。

「わーい! ありがとうマツユキ~!」

 すでに興味は紙袋の中身に移り、娘の振りも忘れかけている。

「いいんだよ。ちゃんとお手伝い出来る子にはご褒美が必要だ」

 そして、隠し事をする悪い子にはお仕置きが必要だ。

「で?」

「んう?」

 久遠はストローにむしゃぶりつき、口をすぼめてタピオカを吸い上げつつ、首を傾げた。

 久遠の目が泳ぐ。その先の床には散乱した皿の破片(泡付き)。微笑む。久遠の目が泳ぐ。その先の洗面所には轟音と共に泡の波を作る洗濯機。微笑む。久遠の目が泳ぐ。その先には血糊の付いた包丁が転がっていた。

 久遠の身体に傷はない。久遠の身体に返り血はない。そして久遠は高度な治癒能力を有している。即ち、これは他者の血液である。

 キッチン上のまな板には、既に生気を失った死体が転がっていた。

 無残に切り付けられた、鱗を散らすことさえままならない可哀想な生魚。

「家事は二度とやるなって言わなかったっけ?」

 吸い上げられたタピオカが逆流した。ぶくぶくと久遠由来の泡と一緒に容器の底を叩く。

「ケーキは夕飯までお預けだ」

 久遠は咽て咳き込むと、大きな瞳に涙を溜め、叫んだ。

「ええっ!? そんなぁ!」

「手伝おうとしてくれてありがとう。でもね、これじゃあ結局仕事が増えただけだ」

立ち上がり、片付けを始める。それでもなお手伝うべく立ち上がろうとする久遠を制した。

「何より、俺がやるべき仕事でお前に怪我をさせたくない」

 容器内を自らの呼吸で泡立てながら、久遠は内またで床に座して俺を見上げていた。それを肯定と受け取って背を向けると、背を引かれた。ジャケットの背を引っ張られていると察してどうしたものかと振り返ると、俺の手のひらと大差ない小さな顔が目と鼻の先に迫っていた。

 思い知られる。俺は今まで、どうやって生きていたのか。呼吸とは、どれほど難しいものだったのか。覗いた深淵の奥から蛇のように、長い舌が這って出た。久遠の舌は綺麗なピンク色をしていて、舌の先端が顎を隠した頃にはあっという間に呼気の甘さが鼻孔に広がる。吐いた息に含まれる体液で、俺の痛みが還ったのだ。精一杯に背伸びをして、届かせたのは俺の首筋だった。

 べろり、と首筋を舐められると、いくらか身体が軽くなったような気がした。ざらざらしていてぬめりが後を引く、優しくて強かな温かさ。久遠の体液と触れることでのみ理解できる他人の感触。

「怪我してるのはそっちでしょうが」

「……怪我、してたか」

 舐められた箇所を撫で、首をひねる。手のひらは久遠の唾液で湿っていた。

「たぶん首の骨、ひび割れてたわ。……何かあった?」

「ああ、そういえば」

 上目遣いから目を逸らし、片付けを再開する。

「路地裏にブランコの残っている公園があってね。懐かしくって遊んできたんだ。調子に乗って飛び降りたら頭から落ちちゃってさ。ははっ、参った参った」

「ふうん、戦闘したってわけじゃないのね」

「ああ、まだ、そんなことにはなってない」

「ならいいけど。あなたはただでさえ鈍いんだから、こと怪我に関しては特に隠しごとはしないこと。あなたもわたしも一人のときは戦わないって約束、忘れちゃった?」

「もちろん承知しておりますよ。お嬢様」

「……もう、茶化さない!」

 そういって、久遠は再びストローを口に含んだ。


「なら真面目な話をしよう。例の件について本家から続報は?」

「ないわ。追加のルールもなし」


 濁った液体の代わりに、虚無を吸って憎々し気に容器の底を睨んだ。タピオカが未だに氷の下に残っている。久遠は噛み癖で潰れたストローとタピオカをしばらく格闘させたのち諦めて、容器を開けた。

 そうして残していたチェリーを摘まみ、チェリーは伸ばした舌の上に載ると口腔内に消える。

「あれが始まりで、あれで終わり。次期頭領を決める戦いはもう始まっているのよ」

 間もなく舌の上に載せて戻されたチェリーは無残にも種と茎の姿になっていた。茎に至っては結ばれて環を描いている。

 ――昨日のあれによって、俺たちの平穏無事な逃亡生活は終わったも同然なのである。

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