第4話 「おかえりなさい、パパ!」
今どき、こんな文句を口にする奴がいるとは思わなかった。宗教の勧誘にせよマルチ商法の導入にせよ現状の否定はお約束の一つだが、俺に言わせれば、いや、俺にとってその否定はあまりにも現実味がない。
あまりに下手なフィクションに驚きを隠せず、これが現実のことかどうか考えてしまった。聞き間違いにしては、千鳥の眼差しは真剣そのもので、大きく丸い瞳を細めて俺を射抜いている。
思わず笑ってしまった。
お前がそれをいうのかと恐らくは自嘲気味に、嘘っぽい笑みを浮かべているに違いない。
「嫌だね。久遠が俺を不幸にするのなら、それは俺の幸福だ」
そういうと千鳥は悔しげに下唇を噛んだ。
今にも泣き出しそうな目で確かに俺を睨みつけている。
「でも、アイツはアンタの」
「話は終わりだ。君と話すことはもう無いよ」
そのとき、俺はやはり俺の嫌いな笑みを浮かべていたのだと思う。虚ろなそれを残して立ち上がり、千鳥に背を向けた。伸ばされた手は取らない。振り返らずに帰路に就く。振り返れば興味を持ってしまうだろうから。好奇心に理性を揺るがされるより先に、拒絶したのだ。彼女は力任せに俺を抑えることも出来たはずだが、そんな追い打ちもない。
騒がしいが馬鹿ではない。常識に欠けるが倫理観は有している。他人と接するのに躊躇いなどないくせに必要以上に人の顔色を伺う。
だから俺は、誰に何と言われても千鳥を突き放すことができなかったのだ。
立ち止まって空を見上げる。空は鈍色の雲に覆われて、遠くに薄明光線が見えた。隠れた太陽に手をかざし、目を細めて、しかし、先を急ぐ。
――そもそも俺に、俺の身を思いやるような幼馴染などいないのだから。いるのはいつだって出会い頭に暴力か暴言を浴びせてくる幼馴染だけだ。
いつだって俺の世界は他の誰かの視点を通して観ているようだった。さながら実感のないフィクションであり、いわば俺は、十六夜待雪という男の人生の、その多くは他人事に感じられることばかりであった。
遠く、声が聞こえる。
「……嘘吐き」
聞こえなかったフリをした。
念のため、遠回りをして久遠の待つ部屋に帰った。ショッピングセンターの男子トイレの窓から外に出て、屋上まで這い上がり、ビルとビルの間を飛び越えて、路地裏の公園を抜けて、見慣れたマンションのオートロックの前に立っていた。嘘みたいな話だが、現実だ。
千鳥の身体能力はさておき、状態的には難しいはずだ。
ワイシャツの下の下着(サイズが無かったのか、こちらは随分と背伸びしたデザインだった)と一緒に透けて見えた包帯は、滲んだ血の痕からして大きな切り傷を隠すためのものだろう。両脚の太ももにも同様のものあり。さっきのアクロバティックで血が噴き出さなかったのが不思議なくらいだ。
部屋番号を入力し、チャイムを鳴らす。可憐な声に代わって、マイクに荒い吐息をかけ続けるようなノイズと、ガチャリと硬質的な解錠音が応答した。声も言葉もない不穏さに心臓が引き締められるような痛みがあった。胸の痛み。
エレベーターを待つよりも階段を駆け上がった方が早い。玄関を潜って正面にある階段とエレベーターの内、エレベーターの階数表示が一階を示していなかった時点で迷いはなかった。途中で一人二人、住人とすれ違ったような、もしかしたら突き飛ばしてしまったかもしれない。自分の罪が嘘か誠かわからないのであれば、嘘にしておくのが精神衛生上よい。
体感としては胸が痛んだ一瞬の後、俺と彼女が住まう2LDKのドアノブに手をかけた。捻ると、何の引っ掛かりもなくドアは開く。出掛ける時にした施錠が解かれていた。胸が痛む。ドアを開け放し、部屋の中を睨みつけた。
部屋の中は荒れ果てていた。
脱衣所の奥には衣類が散乱し、キッチンの床には割れた皿の破片が見える。考えられる可能性は三つ。一つめは大方昨日の電話関係。二つめは強盗。三つめは――。
「おかえりなさい、パパ!」
――俺に、娘などいない。
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