第2話 心臓に短剣、四人分のデシベル。
――ジョキリ、ジョキリと、遠雷が鳴る。
「お兄さん。起きてください、お兄さん」
心地の良い響きに目を開ける。顔を上げると俺がいた。不健康な白い肌、眠たげな目の下には濃い隈が広がっていて、首から下は大きな布で覆われその生気のなさは生首さながらの様相。そうするとむしろ、短くセットされた頭髪が目立つ。散髪が終わったのだ。
「こんな感じで如何でしょうか?」
美容師の手にした鏡に俺の後頭部が映し出されていた。美容師はモノクロ服装も相俟ってか、遺影を持っているように見えた。後頭部は注文通りの短さで、襟足は無に等しい。ついでに美容師の服の腹部の布もない。丈の短いシャツとベストが組み合わさり、綺麗に割れた腹筋と臍の下のハート形――
「ええ、大丈夫です」
正面の鏡には精一杯に愛想をふりまく顔、虚構に満ちた笑顔が二人分、映し出されている。モノクロの美容師は遺影代わりの鏡を上機嫌そうに頷きながらしまい、フェイスタオルを左腕に、どこからか取り出したカミソリを右手に取って弄んだ。くるくるくるくる、気づけば二本、三本と増えている。
「洗髪は済んでいます。顔剃りはボクのサービスです」
「どうもありがとう」
マントにも似た布が取り払われて、鏡の中の自分自身と睨み合う。もみあげのあったはずの場所を見ると、野暮ったく感じられた部分が綺麗に削ぎ落とされていた。いつもはもう少し、根気よく毛根が残っていた気がする。
数ミリ単位の長さ調節。毛髪の一本さえ切り損ねず、毛根ごと消し去ってしまったかのような肌の質感に、触れられているという感覚のなさ。まるで俺の毛穴の数まで熟知しているかのような手際の良さは雷鳴の如し。これは例えるなら、そう。五年前のあの日の傷跡にさえ適う刃物捌きの痕跡。
というのは言い過ぎか。そもそも感覚と呼べるものは俺にとって無に等しい。
そうはいっても見たことのない美容師に不思議と興味が湧き、嘘っぽい笑顔を鏡の中の虚構に向けた。
「良い腕だ。新人さん?」
「やだなあお兄さん。ボクのこと、覚えてないんですか?」
「あれ、もしかして前来た時に顔剃りだけして貰ったかな?」
「あっはは、傷つくなあ」
「ごめんよ。人の顔と名前を覚えるのは得意じゃないんだ」
そういうとモノクロの美容師は目を見開いてすぐに俯いて、あっははと笑い声らしき渇いた音を零した。
「嫌いじゃないですよ、そういう茶目っ気」
レジに向かったその顔が、どんな風に笑っていたかはわからない。
とにかく重要なのは久遠の男の好みの一つが短髪であるという現実だ。
六月十日、午前十一時前。久遠の好みとこの場所と知って以来、月一で通うこの場所で、未だに顔と名前が一致しないどころかどちらも覚えていないなんて、もはや得意や不得意ではなく頭の出来を疑わざるを得ない。などというのは美容室のドアの上のベルの音が切れた時には忘れてしまっていた。
記憶を覆い尽くすのはやはり、久遠。
美容室から出て真っ先に目に入った行列。そこに同性の姿が見受けられずとも久遠のためであれば躊躇いなく行列の最後尾に並ぶことができた。久遠が低気圧の偏頭痛にダウンしておらず一緒に歩いていれば間違いなく、躊躇いながらも俺の袖を引いたはずだ。何より昨日、買ってくると約束したのだ。味覚がない俺なんぞの舌のためにはしなくていい気苦労をする気にはなれないが、久遠のためなら辱めを受けることさえ喜べる。
行列の先は知らずの内に目を痛めていそうな色合いの店に続いている。生クリームにも似た白っぽいような黄色っぽいような色に鮮やかなマーブル模様が広がっていて、頭上の看板には可愛らしい書体で〈
列が一組進んだ頃。背を叩く姦しさがあった。
「あれ? あれあれあれ? あっれれー? ゆっきーじゃん! どしたんこんなとこ並んじゃってえ。インスタとかやるタイプだっけ? つか甘いもん嫌いじゃなかった? もしかして彼女? いやないない! ゆっきーモテなそうだし。むしろモテたいならもっと身体動かしていっぱいたべなきゃダメじゃね。ああ! そっかそっか、ふうんそっかぁ! ウチわかっちゃった! いっぱい食べれて女の子がいっぱいいて話のネタにもできるからリモニウムか! なるほど完全に理解したー!」
一人で女四人分ほどのデシベルを発する姦しさに向け、精一杯に愛想よく他人行儀に笑って振り返る。
「どちら様ですか?」
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