九頭龍久遠は届かない―You`re never die.and,Painless of me―

七咲リンドウ

序章※無痛の騎士と悪魔の夜明け

第1話 彼女の口腔と唾液に痛みを知る。

 九頭龍久遠くずりゅうくおん

 水神とながい時を由来とする仰々しくも凛々しい名前の少女と出会ったのは五年前。久遠は十九歳で、俺はまだ十四歳の夏。梅雨のまっただ中で、くすんだ茜色の朝だった。

 それが冷たいということだと、そのときの俺にはわからなかった。その冷たさが雨のものであると知るのに、目を開く必要があった。目の前には何も映らない。俺の瞳はそのとき、きっと何も映し出してはいなかった。

 それが温かいということだと、そのときの俺にはわからなかった。その温もりの正体さえ。

 まず初めにざらりとしていてぬるりと湿った温もりがあった。それに身体の表面をなぞられると喉から空気が漏れた。喉は叫ぶための機能を残していなかった。こそばゆさは太股の辺りから下腹部に登り、胸に至って首筋を這う。雨の冷たさが尾を引いて、肩から二の腕、指先、太ももからふくらはぎ、指先。身体の内側から温もりが溢れるようだった。


 ――これが、痛みか。

 遠雷が聞える。ジョキリジョキリと。

 久遠が嫌う耳障りな音だ。


 そう。気が付いたとき耳だけは聞こえていた。両耳とも差し支えなく聞こえていた。冷たい雨の音、遠雷、そこに嬌声じみた吐息が混ざる。温もりの正体は少女の舌。不思議な甘さが鼻孔の奥に広がり、温もりが頬から瞼、額まで滑り、世界に光が還る。

 曇天は広がっていなかった。広がっていたのは俺の知る限り最も深く、意味のある深淵。生き物のように蠢く薄暗いピンク色の中、小さく真っ白な歯が行儀よく整列する少女の口腔。俺は激しい雨の中仰向けで、馬乗りになった久遠に身体を舐られていた。

 雨に濡れた黒髪は頬を伝って俺に落ち、毛先は砕けたアスファルトの上を這っていた。幽霊と見紛う白い肌に上気した頬がよく映える。切れ長の大きな瞳は周囲一帯に広がっているのと同じ血のような赤色で、泣いているようにも笑っているようにも見えた。

 しばらくの間、俺たちは見つめ合っていた。

 先に口を開いたのは久遠の方だった。

十六夜いざよい待雪まつゆき……ごめんなさい。わたしには、あなただけしか」

 歯切れ悪くそういって、久遠は俺から離れた。

 温もりが雨の冷たさに流れる。瞬く間に虚構じみた現実感が還る。

 俺の視線は久遠から離れない。ローファーの先から頭のてっぺんまでずぶ濡れで――新月の夜にも似た黒地に瞳と同じ赤いラインの入ったセーラー服の――薄い生地がべったりと張り付いて女性的な起伏が露わになっている。濡れたタイツに包まれたすらっと長い脚は限りなく白に近い肌の色が透けていて、無機質に見えた。異性を綺麗だと感じて見入ったのもまた、生まれて初めての経験だった。

 見下ろす彼女はやはり泣いているようにも笑っているようにも見えた。唇の端から形の良い顎の先へ、瞳と同じ赤色が滴る。錆びて欠け落ちた雫は地球に引かれて血溜まりに加わる。

 はずだった。

 赤く粘ついた雫は弧を描き、俺の中、唇へと還ったのだ。


 九頭龍血脈・劫刻クオンタムウォーター・クォータークォーツ


 俺の命を救い、無痛症さえ一時的に治してくれる絶対的な治癒能力。

 齢十四にして初めて、雨の冷たさを知った。

 人間の身体がこんなにも温かいなんて、知らなかった。

 生きている、という実感があった。


 ――ジョキリジョキリと遠雷が鳴る。


 久遠曰く、出会った瞬間の俺は人の形をしていなかったらしい。

 四肢は根元からもぎ取られていた。ねじられた様子はなく、力任せに引き千切られたように、断面からは密度の高い骨が露出していたらしい。全身の皮膚は歪に削り取られていた。料理下手であるところの彼女が包丁で不器用に皮を剥いた林檎とよく似ていたらしい。耳と鼻も同様に削り取られていて、左目は潰れ、右目は抉り取られていたらしい。首は的確に動脈と気道を避け、しかし確実に大量出血を誘うように切りつけられて辛うじて繋がっているような状態。

 そんな物体に、久遠は舌を這わせて唾液を塗り込んだのだ。

 刃物が苦手で血が嫌いなグロ耐性ゼロの癖に。

 結果、俺は人の形を取り戻し、人間として生まれ直した。

 そうして久遠は水と血の混ざる歪んだ鏡面に横たわる俺に、恐る恐る手を差し出した。つい先ほどまでの粘膜接触が嘘のように、思いやり一杯にしゃがむこともない。直立したままでぶっきらぼうに、息を飲んで一息で、こう告げた。

「あなたは、神経に異能を宿す血脈、存在しないとされた六番目、八つの血脈の代替品、十六夜の血脈を継ぐ最後の一人。だから、九頭龍分家ナンバーズ次期頭領候補の一人として、わたし、九頭龍久遠が命じるわ」

 俺はすでに起き上がり手を伸ばしていた。人の温もりはわからない。芸術に明るいわけでもない。でも彼女を見て温もりに触れ、確信した。芸術というものはきっとこういう姿をしたもので、誰かのために生きるのも悪くない、と。


「わたしと一緒に来なさい。そして、永遠に尽くしなさい」


 一緒に、の辺りで俺はこう言いながら立ち上がっていた。

「カテゴリーゼロの僕なんかが君の役に立てるのなら、喜んで」

 同じ目線の高さになって、繋いだ手の感触を少しでも強く感じられるように、同じ高さの目線を分断するかのように、傷つけてしまわないように、交わした手を揺すった。

「『僕なんか』なんて言わないで。わたしは誰かを救いたかったわけじゃない。わたしはあなたを救いたかったのだから。あなたを救えるのなら、あなたの家族だって、どうでも良かった」

 そういって浮かべられたのはやはり、泣いているようにも笑っているようにも見える顔。

 建前で笑う大人のようにも、心底から泣く子供のようにも、今にも泣き出してしまいそうな。目と口の内包する感情が噛み合っていないというか、口元がお留守になっているような印象。そんな顔をするのは、決まって素直に喜べないような事情があるときだ。

 久遠には、俺と一緒にいる上で知られたくない何かがあった。

 彼女の温もりはわからない。雨の冷たさもわからない。

 ただ、どうしてか痛むはずのない胸が痛かった。

 でもきっと、久遠はもっと痛かった。

 俺一人を残して途絶えた家族だったものの痕跡など、既に目に入ってはいなかった。

 俺を殺し損ねた襲撃者には所詮、俺を殺せない程度の力しかないのだ。

 だから、既に興味すら失っていたはずだったのだが。


 ――ジョキリジョキリと遠雷が鳴る。

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