出会いたくなんてなかった
* * *
話を戻すけど、と茜は口を開く。
「舞白のほうでなにか決めておきたいこと、ある?」
「わたしは特には」
「そっか。じゃあ、俺からだけど」
じっと、澄んだ瞳がわたしを見つめてくる。
静かな視線に、ごくりと思わずつばを飲み込んだ。
「俺は吸血鬼で、舞白は人間だ」
「うん」
「吸血鬼と人間は、捕食者と餌の関係だよ。そこに、俺たちがどんな関係だろうと、友人だろうと、知らない人だろうと、意味はない。わかってるよね」
「もちろん」
即座にうなずけば、本当かな、と不安そうな微笑みが返ってくる。
わかっている、本当に。
茜がわたしのことを、人間だからとかそういうことを抜きにして、一人の存在として大切に思ってくれているのを、きちんとわかっているつもりだ。
だけどわたしが血を流せば、きっと、襲ってしまうのだろう。
この間の夜はちゃんと薫が血を与えてくれていたから、茜は我慢できた。
それでも、辛そうだったけれど。
高校生の頃。
茜が薫の血を飲んでいるところを見たとき。
その少し前に、彼はうずくまって苦しんでいた。
きっと、あれと同じかそれ以上の渇きを与えてしまうのは、確実だ。
そのときに、わたしが血を流してしまえば……茜は、本当に、化物になってしまう。
茜が飢えるのが先か。
薫が戻ってきてくれるのが先か。
そんなの、予想するまでもない。
クロくんは今頃、笑っているのだろうか。
すべてが、自分の思い通りに動いている、と。
「まあそんなわけだから、舞白は極力、怪我をしそうなことはしないで」
「例えば……?」
問いかければ、うーんと茜は考え込む。
「料理、とか」
「料理」
「あ、あとは紙の本も我慢して」
「紙の本……」
料理は好きというわけでもなければ、得意というわけでもない。
読書だって、好きではあるけれど、常に読んでいないと落ち着かない、というわけでもない・
むしろ、積読が多いくらいだ。
それでも、改めて禁止だと言われると、まあ、嬉しい、とはならないわけで。
思わず唇を尖らせれば、苦笑が返ってきた。
「料理は俺がやるよ。本は、電子書籍で我慢して」
「……それは、そうするけど。料理全部やってもらうのは申し訳なさすぎるよ」
「万が一舞白が指を切って、俺がその血を飲んだらって考えたら、それくらいのほうがいいよ」
そういえば、と茜が険しい表情をする。
「舞白の部屋って、鍵かかる?」
「かかるよ」
どうして、とききかけて、理解する。
「一応、なにかあったときの為にこの家はどの部屋も鍵がかかるようになってるよ」
狩人であるクロくんが、吸血鬼の餌であるわたしを住まわせるために選んだ家だ。
もしも吸血鬼が家にまで来てしまったとき用に、どの部屋にも鍵がかかるようになっている。
しかも狩人特製の、吸血鬼には開けられない鍵だ。
それを伝えれば、よかった、と茜がほほえんだ。
「念のため、舞白がいる部屋は鍵をかけておいてほしいな。逆に、俺といるときはいつでも逃げられるように鍵を開けておいて」
「わかった」
そのあとも細々とした決まり事をどんどんと決めていった。
日付が変わって数時間。
段々と上下の瞼がくっつく感覚が狭まってきた頃。
一度、ガクン、と思いっきり首を落としてしまってようやく、自分が船を漕いでいたことに気づいた。
「もう寝ようか」
クスクスと軽やかな笑い声。
思いのほか近くで聞こえたそれに、ひゃっと小さく悲鳴を上げて慌てて振り向けば、茜がいた。
柔らかな微笑みに、わたしはうなずくと、立ち上がる。
そこで初めて、肩に温かい物がかかっていることに気づいた。
視線を向ければそれは、リビングに置きっぱなしにしていたブランケットだった。
「ありがとう」
「どういたしまして。よくここで寝ちゃうの?」
「そんなことはないけど、どうして?」
「ブランケット、そこに置いてあったからさ」
「……まあ、肌寒いなあと思って被ってたら寝ちゃうことはあるかな」
そう答えれば、やっぱり、と茜が軽やかに笑う。
クロくんもよく、軽やかに笑う。
でも、それとはまた違う笑い声。
クロくんのそれは、冬の夜風のような、冷たさをまとった軽やかさ。
だけど茜のそれはまるで、太陽に温められた初夏間近のそよ風みたいだ。
「茜」
「うん?」
「茜はさ、高校生の頃、自分の名前を夕焼けからとったんだって言ったの、覚えてる?」
「え、あ、ああ、うん、覚えてるよ」
よく覚えてるね、と笑ってくれる茜に、わたしは小さく微笑み返す。
きっとあの頃のわたしなら、えへへ、と笑っていただろう。
子供だった。
今だってそうかもしれないけれど、でも、あの頃は特に。
無邪気に笑っていることが、できたのだから。
「あんまり知られてないけど、茜空ってね、朝焼けのこともさすんだって」
それだけだ。
たった、それだけ。
深い意味なんてない。
ただ、あのときに夕焼けのことをさすのだと悲しそうに茜は言っていたから。
別の意味もあるんだよ、と。
「舞白はさ、変わらないね」
「そんなことっ」
唇に、冷たい指が触れる。
ふっと思い出すのは、真っ暗な中で初めて対面した、あの夜。
「変わらないよ。優しくて、無防備で、……温かい、人間だ」
冷たい指がつぅっと線をなぞるようにして肌の上を撫でていく。
息がかかるほどに、距離を縮められる。
わたしは、そっとその手の上に、自分の左手を重ねる。
「それ以上は、ダメだよ」
心に浮かんだ感情すべてに蓋をして、わたしはじっと黒く澄んだ瞳を見つめる。
しばらくその状態のままで睨み合った後、茜は息を吐き出して微笑んだ。
「狙うなら、首じゃなくて心臓にしないと」
そう言って、わたしの右手に触れる。
わたしは無言でカッターナイフの刃を納めた。
距離を縮められた瞬間に、すぐに彼の首元に刃をあてていたのだ。
刃物とはいえ、所詮はわたしが使う物だ。
致命傷にはならないし、足止めになればかなり運がいい。そんなレベル。
「よかった」
「なにが?」
「警戒してくれてることは、わかったから。これでそのまま流されるようだったら、流石にここにはいられないかな」
はは、と声を上げて笑う茜に、胸が嫌な音を立てて軋む。
手を伸ばしかけて、すぐにその手を掴んだ。
「わたし、もう、寝るね。おやすみ」
返事を聞く余裕もなく、わたしは急いで自分の部屋に入った。
すぐにドアを閉めて施錠する。
そのまま壁伝いにその場にうずくまる。
胸が、痛いほど苦しかった。
薫は、狩人だから。
茜に自分の血を与えることができた。
でも、わたしは人間だから。
自分の血を与えることはできないし、茜だってそれを望んではいない。
赤い瞳に、鋭い牙。
月明かりに、不気味なほど爛々と輝くそれらは、ちらっとでも視界に入れば、足がすくんでしまうほどの恐怖に見舞われる。
茜に、化け物になってほしくない。
狩人に、始末されてほしくない。
だけどそれと同じくらい、自分の血を欲してほしいとも思ってしまう。
あのまま流されてしまいたかった。
きっと、気づかれていた。
だからこそ、茜は試したのだ。
ちゃんとわたしに、彼を止めるだけの意思があるかどうかを。
胸の前で手を握りしめる。
最悪の場合、わたしは茜を、傷つけないといけない。
茜と、自分を守るために。
わかっている。
あの電話が来たときから、それを覚悟している。
いつだって全部信じられる、温かいぬくもりは、今はもうなくて。
あるのは、いつだって警戒していなければならない冷たいぬくもりだけなのだから。
だけど、だからこそ。
こんな気持ちに知ってしまうくらいなら。
二人に、出会いたくなんて、なかった。
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