その血は毒になる
* * *
茜が来てから一週間が経った。
薫の血を飲んでいないからだいぶ辛いかと思ったけれど、今のところはまだどこか変わった様子はない。
夕方六時くらいにモゾモゾと起きてきた茜と、今日はおでかけだ。
十二月二十四日。
わたしたちは恋人でもなんでもない、ただの友人で、言葉を選ばなければ捕食者と餌の関係だけど。
茜から、一緒におでかけしようか、と誘われたのだ。
夜は、怖い。
今は特に、なにがあってもクロくんも薫も助けてはくれないとわかっているから。
でも、拒否をすれば茜が悲しむだろうことは、想像できたから。
露骨に悲しむことはないだろうし、理由を言えば、わかった、と受け入れてくれることもわかっているけれど。
少しだけ街のほうを歩いて、予約してあるチキンとケーキを受け取って帰ってくる。
言ってしまえば、おでかけ、なんて言っていいレベルなのかわからないけれど、でも、おでかけはおでかけだ。
「イルミネーション、賑やかだね」
「今日のために気合い入れてただろうからね」
やってきた広場は、夜なのに昼間みたいに明るい。
黄色や白、赤にオレンジ、緑に青。
人工的な光が、点滅して、揺らめいて、まるでカラフルな雪が舞い踊っているみたいだ。
「雪は降らなかったんだね」
「ホワイトクリスマスって珍しいらしいよ」
「ああ、だから話題になるのかな。そういえば、雪といえばさ」
茜がこちらを振り向く気配に、わたしもそちらを見上げる。
少し迷うような間を置いたあと、茜はまた口を開いた。
「狗狼さんに雪って名前をつけられてたよね」
「ああ、うん、そうだね」
白が舞う、といえば雪。
そんなかなり安直な名付けだったのを思い出して、苦笑する。
「舞白自身の名前の由来って、雪関係なの?」
深い意味なんて、なかったんだと思う。
わかってはいても、それをきかれるのは、辛かった。
特に、吸血鬼にたずねられるのは。
「わたしも、ずっとそう思ってた」
へらっと笑ってみせれば、茜の表情が訝しげなものになる。
「思ってたって?」
言おうか、どうしようか。
迷えたのは、一瞬だった。
視線を感じたのだ。
興味があるとか、たまたまこちらを見ていたとか、そういったものではない、静かに獲物を伺うような、そんな視線。
隣にいる茜の服の裾を掴む。
「舞白?」
「吸血鬼が、こっちを見てる」
「……帰ろうか」
冷たいけど、我慢してね。
そんなつぶやきと共に、ぎゅっと手を握られた。
わたしがその手を強く握り返す。
どんな温かい手よりも、この冷たい手が、一番安心できるから。
早歩きで人混みをすいすいと泳ぐように避けて進む。
変わらず視線は、ねっとりとこちらを追いかけてくる。
徐々に近づいてくるそれに、ドッドッドッと心臓が痛いくらいにわたしを急かしてくる。
茜は、数日間血を飲んでいない。
まだ、飢えた様子はない。
だからといって、大丈夫、というわけではない。
今、わたしが血を流せば。
茜がそれに狂っても、狂わなくても、終わる。
人混みを抜けて、角を曲がれば、一気に人気がなくなる。
「ごめん」
「っ!」
手を離されたと思えば、抱き上げられた。
驚いてわたしが首に手を回せば、それを確認した茜が走り出す。
足音が二つ。
喧騒を背景に、街灯に照らされた闇の中で響く。
景色がぐんぐんうしろへ下がっていく。
わたしの全速力とは比べ物にならないくらいの速さ。
それでも、うしろの足音は遠くなるどころか、ドンドン近づいてくる。
ダメだと思った。
このままだと、茜を巻き込んでしまう、と。
頭の中に浮かんだのは、薫だった。
傷ついた茜を前にしたときの、薫。
もしも茜を失ったら、きっと、あの子は。
薫を、独りにはできない。
「降ろして」
「駄目だ」
「巻き込めない」
「黙って」
「お願いだから」
「黙れってば!」
珍しく声を荒げた茜に、体が震えた。
気配は、迫ってくる。
無理だ、逃げきれない。
ごめんなさい。
そう、心の中でつぶやいたときだった。
一匹のコウモリとすれ違う。
ハッとその姿を視線で追えば、それはすぐにスラリとした男性に変わる。
茜もそれに気付いたようで足を止めた。
男性は素早く自分の腕を手に持ったナイフで切ると、その傷口を吸血鬼の大きく開いた口に腕ごと突っ込んだ。
吸血鬼が苦しげに暴れているが、男性はその体を抱きしめて、動きを封じてしまう。
ごくりと、吸血鬼の喉仏が上下に動いたときだった。
濁った悲鳴が上がる。
先程の比じゃないほどに吸血鬼の体が暴れる。
男性はパッと彼を解放した。
茜がうしろに足を引くけれど、吸血鬼はこちらに来ることはなく、苦しげに天を仰ぎ、そして白い灰になり、消えてしまった。
木の杭で打たれる以外で吸血鬼が灰になるところを、初めて見た。
なにが起こったのか分からなくて、ただ茜に縋りつくことしかできない。
立ち止まっていた茜は、わたしを抱える手に力を込めながら、じっと男性を睨んでいる。
男性は傷跡の消えた腕を軽く振るったあと、ゆっくりとこちらを振り返った。
静かな瞳が、わたしたちを映す。
死んだように光ひとつないその瞳に、鳥肌が立った。
「そちらの方は、吸血鬼ですか?」
穏やかな声だった。
その顔からすとんと表情が抜け落ちているのを除けば。
「茜……」
逃げよう、そう言おうとしたけれど、その前に茜がうなずいた。
「そうです」
「……だいぶ、お辛そうだ。いつから血を絶っているのですか」
「一週間ほど」
「それでは、そちらの人間の命が危ない。こちらにお渡しいただくことは?」
「彼女は狗狼さんのものです。俺の判断であなたにお渡しすることはできません」
「なんと。あなたが、狗狼さんのところの人間ですか。最近特に気に入られているという」
男性が軽やかな足取りで近づいてくる。
そして、胸元に手を置くと、ひらりと優雅にお辞儀をしてみせた。
「狗狼さんの資料には、いつもお世話になっております。この血も、彼の資料を元に吸血鬼にとっての毒に改良したものなんです。もしも連絡がつくのなら、ぜひお会いしたいのですが」
「……申し訳ございませんが、今、狗狼は依頼を遂行しているところでして、しばらく連絡はできないと事前に言われています」
「そうですか。それは残念」
変わらずの無表情での返事。
まったく残念そうではないのに、声だけは悲しそうで。
それがただただ嘘っぽい。
どこかピエロのような人だと思った。
「資料、というのは……?」
茜がぽつりと男性にたずねる。
男性は静かに視線を茜に戻す。
「狗狼さんは、狩人や吸血鬼について、さまざまな実験をされているのです。特に……」
なにも映さない無感動な瞳が、突然ギラリと光った。
「吸血鬼を、より効率よく殺す方法と、より効率よく彼らの存在を記憶から消す方法について」
「茜っ!」
彼の腕の中で、無理矢理体を動かしたのと、茜がうしろに飛び退いたのが同時だった。
わたしの目の前に突き出された鈍い銀色が、ぼやける。
嫌な汗がぶわっと背筋を流れていく。
飛びそうになる意識を、なんとか繋ぎ止めた。
茜が下がってくれていなかったら、きっと今頃私の命はなかっただろう。
「吸血鬼は、どんな人でもいつかは人間の血を求めてしまう。そんなにその人間を愛しているのなら、なおさら辛いでしょう。いっそ死んでしまえば楽ですよ」
だいたい、と男性の言葉は続く。
「その愛ですら、食欲を誤解しているだけの可能性もありますけどね」
男性は静かにそうつぶやくと、再びわたしを見た。
「狗狼さんのお嬢さん。もしもなにかあれば、わたくしをお探しくださいませ。いつでも、あの広場の近くでお待ちしておりますから」
もう一度男性はひらりとお辞儀をすると、地面をトンッと蹴り、コウモリになって宙を飛んでいった。
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