苦しめるだけの存在

 * * *



「――しろっ……舞白……っ」


 切羽詰まったような声に引きずりあげられる意識。

 同時に、お腹の上にあった重みが消えていることに気づいた。

 かすむ視界をさまよわせれば、うずくまっている男性が一人。

 わたしの記憶の中と同じ、夜の湖面を写したような瞳が、苦し気に歪んでいる。

 ただでさえ青い肌から、血の気が失われて、顔や体は傷だらけだった。


 わたしがここにいるからだ。


 今、ここに、吸血鬼に噛まれたことのある人間が、血を流して転がっているからだ。


 ただでさえわたしの血は、吸血鬼に狙われやすい。

 ゆっくりとしか動かない手を、首の傷口にあてる。

 生温かくてぬるっとした感触。

 見なくてもわかる。それなりの量が流れている。

 普通の吸血鬼なら、本能のままに、貪るだろう。


 たぶんだけど、茜は普通の吸血鬼の何倍もそれに耐えられるのだと思う。

 それはきっと、薫がちゃんと血を与えているからだ。

 でなければ、わたしは茜にも襲われていただろうから。


 恐らく、茜は近くにいたんだと思う。

 わたしの血のにおいに気づいて、助けに来てくれたのだ。

 吸血鬼は、吸血の邪魔をされることを嫌う。

 特に飢えて理性がない状態の者は、邪魔をした相手の息の根をとめようとするほど。


 今にも意識を失いそうな茜が、必死に目で、逃げろと訴えてくる。

 だけど、できそうもない。

 手を動かすのだって、やっとだった。

 起き上がることさえできないのに。


 ごめん、と目で謝ろうとして、茜の瞼が降りきっていることに気づく。

 意識を失ってぐったりとした様子の彼にかまうことなく、吸血鬼の男性は、彼の体を殴り、蹴り続ける。


 名前を呼びたかった。

 呼びかければ、意識だけでもかろうじてつなげたかもしれないと思ったから。

 だけど、呼べなかった。

 他の人間を、巻き込むかもしれないから。


 スマホやカッターナイフが入っている鞄まで、腕を伸ばせない。

 せめて足さえ動けば、走って、無理矢理傷口を吸血鬼の口元に押し付けて、食事に集中させることができるのに。


 泣きたくなんかないのに、涙が溢れて止まらない。

 その温かさに、なにより自分の無力さに、腹が立って仕方がない。


 結局わたしは、茜を苦しませるだけの存在に、他ならない。

 そう、自覚したときだった。


 空から差す月の光を背に、薫が現われたのは。

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