プラスいちの存在

 * * *



 しばらく進むと、音ははっきりとしてきた。

 かすかな水音と、息が混ざった小さな、小さなうめき声。

 どこかで聞いたことのある音。

 だけど思いだそうとすると、頭がツキンと痛むのでやめた。


 まっすぐ、まっすぐ。


 音を立てないように足音を極力忍ばせながら歩いて辿りついたのは、空き教室だった。

 その前に、見知った姿を見つけて、足を止める。

 クロくんはわたしに気がつくと、三白眼をにんまりと細めて、しーっと人差し指を立てて笑った。

 こくこくと首を縦に振れば、彼は少し考えるように宙を睨む。少しして、彼はこちらに手招きをした。

 物音を立てないように気をつけながら、クロくんの隣に行く。

 そして促されるまま、少しだけ開かれた窓から中を見た。


 最初、茜が薫を抱きしめているのかと思った。もしくは、具合が悪くてすがりついているとか、そういう。

 鈍く光る物が視界に入った瞬間、違うのだと気づいた。

 茜の右手には、カッターナイフが握られている。

 左手は薫の体操服の襟を掴んで、まるで首元を晒すように下に引っ張っている。

 足下には薫のジャージと、彼女がいつもつけていた真っ赤なチョーカー。

 茜の持ったカッターナイフが、薫の首筋に赤い線を引く。その赤を、茜の唇から伸びた舌が追うようにして舐め取っていく。

 何回も何回も繰り返されるそれ。

 カッターの刃が肌の上を滑る度に、薫の肩が小さく跳ねて、茜の舌が這う度に、吐息混じりのうめき声が上がる。

 どこか色っぽいそれに、恋人同士がやるような行為を連想してしまう。

 反射的に目をそらそうとして、ふと気づいた。

 薫の肌は、綺麗な白で、そこには傷一つない。

 そう、今まで何度もカッターナイフで切られているにも関わらず、だ。

 あんなに切っていたら、今頃傷跡ですごいことになっていそうなのに。

 そもそもとして、どうして茜は薫の肌を切って、血を舐めているのだろう。どうして薫はおとなしくしているのだろう。

 茜の眉間にはしわが寄っていて、伏せたまつげが色っぽくて。

 いつだって優しくて、困っているとすぐに助け船を出してくれる。

 そんな茜が、余裕なさげに薫を抱きしめて、傷つけている。

 どうしてだろう。

 綺麗だと思った。同時に、ギュッと締め付けられたように、胸が痛んだ。


 どうして、わたしじゃないんだろう。


 浮かんだ気持ちに、え、と固まる。

 血が止まったはずの右膝がうずく。


 薫が、うらやましい。

 ああやって、茜に求められる薫が。


 気づきたくない気持ちがあるのだと、初めて気がついた。

 やめて欲しい、それ以上見たくない。

 そう思うのに、わたしはどんどん深くまで潜っていく。


 茜は、いつだって薫と一緒にいる。

 薫は、茜のことをたくさん知っているし、家だって近くだから、わたしとは比べ物にならないくらいの時間を、わたしとは比べ物にならないくらいの濃さで茜と過ごしている。


 薫は、会ったばかりの頃にわたしを助けてくれた。

 いつだって一緒にいてくれたし、なんだかんだこの三年間、たくさん面倒を見てくれた。

 優しい、大切な友人だ。羨むなんて、そんな。


 なんで、薫ばっかり、ずるい。

 わたしだって。


 わたしだって、茜に必要とされたい。

 そばにいたい。


 必死に、それを消そうとしたのに。

 交互に浮かんで、積もっていく。

 暗い色が、ぽつりと胸に一滴落ちて、あ、と思う間もなくもやのように線を描きながら広がっていく。


 気づいていた、薫がたまに、わたしから茜を遠ざけようとしていたことを。いつだって優しいけれど、極希にすごく冷たい視線を投げてきていたことを。

 だけど、気のせいだと思っていた。思うようにしていた。

 わたしには、二人しかいないから。

 たぶん、高嶺の花のような、そんな存在の二人。

 その二人と一緒にいるからか、今ではもう、必要な会話以外で他の子と話すことはなくなっていた。


 暗転した世界で、スポットライトがわたしと、二人とをわけるような形で照らしているような、そんなポツンとした孤独感。

 他の人たちから感じることがある、壁。

 それとはまた違う、これ。

 近くにいたと思っていた。

 実際、近くにはいたんだと思う。物理的には。

 仲良くしてくれるし、助けてくれた。

 だけど、踏み込ませてはくれなかった。


 舞白には、太陽が似合う。


 いつだったか、公園で遊んでいたときに言われた言葉。

 なんで言われたんだっけ。

 ああ、そうだ、茜が、いつか太陽を見れなくなってしまうのだと言っていたときだ。

 それでも友達でいたいと言ったわたしに、薫が投げたんだ。

 太陽が似合う、と。

 つまりは、あんたとは、ずっとは一緒にいられない、と。


 二人との間に、猛烈な距離を感じた。

 手を伸ばしても、どれだけ名前を呼んでも、気づいてくれないだろう、距離。

 違う。

 今まで見ないようにしていただけで、そこにはずっとあったんだ。

 ただ、二人が意識してこちらを見ていてくれたから、気づいてくれていただけで。

 だって、こんなにも見ているのに、二人は気づく様子さえない。

 ひたすらに求めて、求められて、貪り、貪られている。

 そこにわたしは、必要とされていない。


 元々、余分な存在だったんだ、わたしは。

 優しい二人に、割り込んだだけの、そんな存在。


 ぐいっと腕を引かれる。その力に抗うことなく、わたしは二人から目をそらした。

 さっきまで鮮明だった視界が、どんどんぼやけていく。

 頬を濡らしていく涙が、膨れては溢れ、溢れてはこぼれていく。

 立ち止まった足に、わたしも止まる。

 気づけば、下駄箱のすぐ近くまで戻ってきていた。

「まだ、僕の連絡先は持ってる?」

 頭上から落ちてくる声に、わたしはうなずく。

 温かな手が、わたしの髪を撫でて、そこから伝うようにして顎を包み込み、くいっと顔を上げさせられる。

 茜と違って堅い親指が、溢れる涙を拭っていく。

 三白眼が、笑っている。

「ねえ」

 囁くような吐息が、頬に落ちる。

「杜矢サン、いらなくない?」

 その笑顔は、今まで見てきたどんな笑顔よりも、薫や、茜の笑顔よりも、遙かに綺麗で、優しくて、そして、楽しげだった。

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