音を辿って、わたしは歩き出した。

 * * *



「失礼しました」

 保健室を出る。

 はやく戻らないと、クラスメイトに迷惑をかけてしまうから。

 運動は苦手だからただでさえ足を引っ張っているのに、捻挫のせいで見学することになってしまって、とても気が重いけれど。


 右足を庇いながら、昇降口までの道のりを歩く。

 黒板の上を走るチョークの音や、説明する先生の声が、空っぽな廊下に反射して、木漏れ日のようにきらきらと光って聞こえた。

 あと数ヶ月もすればもう、この廊下を歩くこともないんだ。

 そう思うと、もう少しだけこの空間にいたくなって、歩く速度もゆっくりになる。


 茜は大丈夫だったのかな。

 それに、あんな薫、初めて見た。

 あんな、感情をすべて抑え込んだような、すべて落っことしてしまったような、そんな無表情。

 もしかしたら、薫がわたしよりも茜を優先したのは、初めてだったかもしれない。

 いつだって薫は、わたしが怪我をしかけると、こちらが申し訳なくなってしまうくらい、わたしのことを心配してくれた。

 それこそ、二人と初めて会話したあの夜みたいに、背負われることだって珍しくはなかった。

 別に、だから拗ねているとか、そういうわけではなくて。


 茜が、うずくまっていたのだ。


 最近、やたらと調子が悪そうだった茜が、とうとう。

 そんなの、わたしが薫の立場でも茜を優先する、たぶん。

 わかってる、でも、そうじゃなくて。


 なにか、イヤなことが起きている。

 そんな予感が、胸をざわつかせている。

「まだ、一緒にいれるよね……」

 当たり前でしょ。

 当然だよ。

 笑顔で言う二人を必死で想像する。

 うん、大丈夫。少なくとも、卒業するまでは一緒にいられるはずなのだから。

 小学校でも、中学校でも、友達と呼べる人はいた。

 だけど、なんとなく、一枚壁がある気がしていた。

 透明だから忘れてしまえるけれど、ふとしたときに感じてしまえるような分厚い壁。

 昔はそれを越えようとしたこともあったけれど、それをしたら人が離れていくことを知った。

 不思議と、二人からはそういった壁を感じなかった。

 おいで、と手招きされているような気さえしてくるくらい、自然と中に入れてくれていた。

 クロくんの言葉もあって、なにか隠していることがあるような気はずっとしているけれど。

 でも、誰だってそういうものはあるし、わたしだって、クロくんとのことは二人には言ってないし。

 そんなことを考えていたら、あっと言う間に下駄箱の前。

 ゆっくり歩いてたのになあ、と思いながらスニーカーを取ろうとして、下の段にもスニーカーが入っていることに気づく。

 下駄箱は出席番号順で並んでいるから、下は茜の場所だ。

 茜は、体調を崩していたし、薫はその茜に駆け寄っていた。

 だから、そこにスニーカーが入っていることは、おかしくない。

 そう、入っていること自体は、当たり前なのだ。


 問題は、一度も彼らとすれ違わなかったこと。

 

 グラウンドから保健室に行くには、同じ道を辿らないといけないはずなのに。

 結局、茜はあのまんまだったのかな。それか、すぐに調子がよくなったのか、逆にあまりにも酷かったから、早退することになったのか。

 でも、そうだとしても、男子更衣室まで行くには保健室の前を通らなければならない。

 わたしが保健室にいるうちに通ったとしても、これだけ静かなら足音が聞こえるはずだ。

 つまり、わたしが彼らに気づかない、なんてことは、ありえないわけで。

「……」

 ざわざわとした違和感が、胸を撫でる。

 イヤな予感が、スニーカーを取ろうとしていたわたしの手を下ろさせる。


 チラッと、チラッとだけ、男子更衣室の前を通ろう。

 電気がついていたら、彼はやっぱり早退することになったのがわかるし、そうじゃなかったとしても、保健室の前を通るから、二人か、どちらかに会えるかもしれない。いや、そうじゃなきゃ、おかしい。

 ドッドッドッとなにかを叫ぶように、心臓がうるさい。

 それを無視して歩こうとして、わたしは足を止めた。

 なにか、音がする。

 大きくはないけれど、あまり学校では聞かない音。


 確信があったわけじゃない。

 完全なる勘だ。

 わたしはくるりと方向転換をして、保健室とは反対側に歩き出した。

 目指すのは、音のするほう。

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