油断大敵
* * *
それは突然だった。
ドン、と衝撃が体に走る。
よろめいた拍子に腰に手を回されて、ぐいっとうしろに引っ張られた。
「舞白!」
わたしたちが手に力を入れるよりも早く、そしてより強い力で、人波が二人を押し流していく。呆気なく、わたしたちは引き離されてしまった。
「薫! 茜!」
もがこうとしても、人が多すぎて他の人に怪我をさせてしまいそうでできない。どうしようと考えている間にも、どこにそんな力があるのか、人ごみを強引にかき分けて進んでいく。
どこに行くのだろう、とか、どうなってしまうのだろう、とか。そんな恐怖が頭の中でぐるぐると回っている。
気づけば静かな空間に出ていた。
喧噪が、遠い。
いつかのあの夜と同じように、路地裏へと引きずり込まれる。
鈍い音と共に、後頭部を思い切り壁に打ち付けた。そのまま体を壁に押しつけられ、わたしをここまでつれてきた男性とやっと目が合う。
薄々そんな予感はしていたのだ。
血を溶かしたような赤い瞳。
静かな月明かりを鈍く反射する鋭くとがった牙。
大きく開かれた口からは、錆びた鉄と、生臭さが混じった息が吐かれる。
逃げられない、と思った。
実際、わたしを壁に押しつける力は、痛いくらいだ。その腕力を振り払えるような体力は、わたしにはない。
凍えるほど冷たい手が、わたしの口を力任せに塞ぐ。頬骨が、みしりと嫌な音を立てて軋んだ。
死ぬかもしれないと言うのに、驚くほどわたしの心は凪いでいた。
ただ、わたしの中で小さな確信があったのだ。
死ぬ可能性は高いけれど、もしも今まで助かっていたのが偶然でないのなら。
きっと、今回も助かるだろう、と。
首に痛みが走る。噛み千切られるんじゃないかという痛みにうめき声を上げる。
痛みと、血が流れ出ていく感覚に、耳鳴りがする。
寒い、痛い。
ぴちゃぴちゃと子犬がミルクでも舐めるような音が、どこか遠くに感じる。
ああ、今回は助からないのかもしれない。そう思ったときだった。
男性が、ずるりと崩れ落ちていく。
同時に力がうまく入らないわたしの体も、壁伝いに落ちていき、そのまま尻餅を付いてしまった。
わたしにもたれ掛かっていた男性は、みるみるうちに足の先から灰になっていき、一分も経たないうちにその灰ごとどこかへ消え去ってしまった。
冷ややかな音を立てて、木で出来た杭が地面に落ちる。
「動かないでいてくれたおかげで仕止めやすかったよ。ありがとう」
ぼやけ始めた視界の先で、見覚えのある三白眼が笑っている。
「吸血鬼に一度でも噛まれた人間は、独特な甘い香りがするんだ。お前は数年前に噛まれてるから、僕たち狩人はお前を見つけることができて、助けることもできる」
吸血鬼はその香りを知らないけど、と乾いた声で笑う。
「そのくせ、本能的に噛まれたことのある人間を見つけだして襲うの。さいっこうに頭悪いよな。だから狩られるんだっての」
声の主はゆっくりと近づいてきて、よいしょ、と木の杭を拾う。
「クロ、くん……?」
呼びかけた声は、想像以上にかすれていた。クロくんは、驚いたように足を止めた。かがみ込んで、わたしの顔をのぞき込む。
「連絡くれないから、まーた忘れられたのかと思った」
「また……?」
覚えのない言葉を繰り返せば、こっちの話、とクロくんはまた笑う。
木の杭を斜めがけの鞄に放り込むと、彼はポケットからカッターナイフを取り出した。
なにをするのだろうとぼんやりと見守る中で、彼は刃を出すと、そのまま自分の左手の手のひらに滑らせた。そして素早く、わたしの首筋にその手をあてる。
瞬間、頭を殴られたような、心臓を鷲掴みにされたような、そんな衝撃に体中が襲われる。
「舞白!」
暗転した世界で意識を失う直前。
聞こえた声に返事をすることはできなかった。
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