さっき、男性を蹴り飛ばしたのは、誰なのか。

 * * *



 走って、走って、走って。

 もう走れない、と思ったところで、わたしの腕を掴んでいた人の足が止まった。

 今度こそずるずると近くの壁に伝うようにして座り込んでしまう。

 わたしの腕を引いてくれていた人が、近くでしゃがむ気配がする。

 顔を上げるのと、その人がわたしの顔をのぞき込んできたのが、同時だった。

「わっ」

「きゃっ、え、あれ?」

 夜空を溶かしたような黒髪に、透き通るような白い肌。

 優しげに垂れた瞳は、透き通るような黒。

 スッと通った鼻に、薄い唇は淡い色。

 少女マンガに出てくる、優しいヒーローみたいな、そんな、絵に描いたような整った顔立ち。


 わたしは、この人を知っている。


染桜しおうくん……?」

 名前を呼べば、花がほころぶようにふんわりと染桜くんが微笑んでくれる。

 染桜しおうせん。あかね、と書いて、せん、と読む。同じクラスの男の子だ。おまけに言えば、出席番号はわたしの一つうしろ。

 珍しい読み方とその容姿のおかげで、彼のことは真っ先に覚えたのだ。

「よかった、覚えてくれてて」

 忘れられてたらどうしようかと思った。

 そう言って笑う染桜くんに、和みかけて、ハッとする。

「お、大人を呼んでこないと! 警察とか……」

 スマホをポケットから取り出して、だけど慌てすぎたのか、つるっと手の中からそれは逃げてしまう。

 硬い音を立てて、スマホが地面に落っこちた。急いで手を伸ばすけれど、それよりも先に染桜くんが拾ってくれる。

「大丈夫だよ」

「え?」

 眉を寄せて、どこか困ったように彼が微笑む。

「君を助けに言く前に、かおるが大人を呼んでくれたから」

「でも、それなら」

 関係者であるわたしがその場にいなくてはならないんじゃないのか。

 そう思って開いた口に、ぴたりと人差し指をあてられる。

 びっくりして反射的に口を閉じれば、大丈夫、とまた染桜くんが言う。

「薫がうまくやってくれるから。あ、薫って、誰かわかる?」

 彼が言う薫さんは、たぶん、彼と一番親しい杜矢もりやかおるさんのことだろう。

 ベリーショートの髪と、刃物みたいに鋭い、ぱっちりとしたつり目が特徴的な美人さん。

「わ、わかるけど」

 でも、今ここに杜矢さんはいない。

 まるで先ほどまで一緒にいたような口振りに、嫌な予感がざわりと胸を撫でる。


 さっき、男性を蹴り飛ばしたのは、誰なのか。


 もしも、蹴り飛ばしたのが杜矢さんだったとして。

 鈍く光る牙と、爛々と輝く赤い瞳を思い出して、思わず自分を抱きしめる。

 まともな人間とは思えない、まるで化け物のような男性。

 対する杜矢さんは、一人きり。しかも、わたしと同じ女の子だ。

 大丈夫なはずがない。


 大人を呼んでいたとしても、間に合わなければ意味はない。

 動かない足を、睨みつける。

 行かないと。せめて、大人が来るまでは、時間を稼がないと。

 それなのに、立ち上がることさえできない自分に、思わず下唇を噛んでしまう。

佐藤さとうさん」

 静かな声。

 凛とした、女性にしては低くかすれた、ハスキーな声。

 勢いよく振り返れば、わたしと同じ制服を着た杜矢さんが、すぐうしろからわたしを見下ろしていた。

 彼女の細い首で、真っ赤なチョーカーが鈍く光る。

「も、もり、や、さ……」

 杜矢さんのうしろには、誰もいない。

 ジジッと鳴き声をあげる街頭が、闇を静かに照らしているだけだ。

「ほら、大丈夫だった」

 ゆっくりとそちらを見れば、染桜くんがニコニコと笑っている。

 もう一度、杜矢さんのほうへ視線を向ける。見たところ、怪我をしている様子はない。

 きっと、間に合ったのだ。

 少しだけ浮いていたお尻が、へたりと地面にくっつく。

「よ、よかったぁ……」

 視界がぼやけていく。

 あ、と思う間もなく、ぼろぼろとそれはこぼれ落ちていった。

 一瞬ぎょっとしたように杜矢さんは表情を強ばらせたけれど、すぐにしゃがみ込んで、視線を合わせてくれた。

 ほっそりとした親指が、頬を伝う涙をぐいぐいと拭っていく。

「泣かないでよ、佐藤さん」

「うう、ごめんなさ、っく」


 ただ、安心したのだ。

 クラスメイトが、自分を助けたせいで傷つくのは、イヤだったから。


「ああ、もう。家までおぶってくから、制服に鼻水つけないでよ。茜、荷物持ったげて」

「はいはい。あ、スマホ、リュックの中に入れておくね」

 断る暇もなく、リュックを取られ、おぶられる。

 あまりの手際の良さに、涙も引っ込んでしまう。

「あ、あるけ」

「歩けるって? 無理しないで」

「無理じゃない……」

 頬を膨らめれば、隣で見ていた染桜くんに小さく笑われる。

 ちらりとそちらを見れば、ごめんごめん、と返ってきた。絶対思ってない。

「家、どっち?」

 言われて、周囲を見渡す。

 覚えのある場所だ。

 ここからなら、一度学校まで出てしまったほうが近い。

 それを伝えた上で、そこから家までの道のりも伝える。

 拙い説明だったけれど、聞き返すことなく、杜矢さんは一つうなずいて歩き出した。


 おぶられた状態で暴れるのも危ないので、ギュッと抱きつく。

 シャンプーや柔軟剤の香りの中に、なぜか少しだけ、灰の香りがした。

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