第5話 狂った声

 奥さんの声が聞こえる。彼が叫んでいる声が聞こえる。もっと聞きたくて、でもぐっと我慢した。その、薔薇の香りに溢れたその部屋は、私からの贈物。

「彼は私のものよ」

 そう狂ったように繰り返し、私は次の策を進める。彼の部屋の鍵はもう手に入れていた。もう、何もできない私じゃない。私は、何でもできるのだと、解き放たせた彼を讃えたりした。だが、彼のために動いているときが一番気持ちが良かった。彼には私が必要なはずで、私には彼が必要だった。これは必然なのだと、私は堂々と彼にそれを伝え続けた。

「もう、いい加減にしてくれ!」

 私の前で叫び散らす彼を、私はにこやかに見る。狂ってる、とか、そんな気持ち悪い顔をするな、とか、色々言われたけど、彼は動転しているだけなのだと、私は彼を許した。今までやってきた全てを許し、そして、行動を続けた。それは恨みではなく、ただ彼のために動いているのだ。それは崇高な行いであり、私は彼の一番なのだった。

「警察に言うぞ」

 その声に、私は笑った。警察に何て言うの? と言うと、彼はすぐに黙った。私が笑い転げていると、彼は放心した眼で私を見た。

「何をしたらいい? 何をしたら、君は僕を解放してくれるんだ」

 そう言う彼の目は虚ろで、私の事を写していなかったので、軽く叩いて、こちらを向かせた。

「ただ、私を一番に置いてくれていれば、それでいいのよ」

 彼はその言葉に何故か狼狽え、弱弱しい声をだした。

「分かったよ……いうとおりにするから」

「じゃあ、元奥さんとの関係を完全に切って頂戴」

 彼は何故かそれを拒否しようとした。だから、私は棘で刺した。

「出来ないの?」

 そう言うと、彼は痛そうに刺した部分を握りしめながら、首を横に振った。

「そう、じゃあ、お願いね」

 彼が出て行くと、私は恍惚のため息を漏らす。これでやっと、私達は幸せになれるのだと、そう信じていた。


「僕たちはどこへ向かっているんだ」

 そんな声を無視して、彼に語り掛ける。

「別にそんなに難しく考えることじゃないわ。ただ私たちで幸せになればいいのよ」

 そう言うと、何故か彼は耳を塞いでしまう。

「どうしたの?」

 素直に聞くと、彼は私の頬を張った。

「もういい加減にしてくれ!」

 ヒステリーはこれが初めてじゃなかった。私が彼を抱きしめると、彼の気持ちは和らいでいったようだった。

「大丈夫、大丈夫よ。きっとすべて上手くいくわ」

 そう言って聞かせると、彼は私に身を預けた。恍惚の表情を浮かべ、私は彼を抱きしめ続けた。彼と一体になりたいと、そう思いながら。

 彼は徐々に徐々に、私に染まっていってくれた。彼は私を見ると、笑みを浮かべてくれるようになった。そして、小さな庭を購入したらしく、他の花たちも部屋に並ぶようになった。花たちは彼を癒してくれたらしく、彼の笑みはどんどん自然になっていった。それと共に、彼の帰りが遅くなっていった。

「ねえ、今日、どこに行ってたの?」

 彼が顔を逸らすようになったのはいつのことだっただろう。笑顔がどんどんと固まって、元奥さんのことを見ていた目になってきた。なんでなんで、と考えても、彼は止まってくれなかった。

「今までのままでよかったんだ……」

 そう言って私は絶望した。彼の傍にずっといるには、彼の心をほどほどに癒す押し花であるべきだったのだ。私はそれでいいと思うべきだったのに。

「ねえ……」

 いくら話しかけても応じることはない。声が彼に届かなくなった。

「ねえ!」

 絶叫しても、彼は薔薇を見ることはもうなかった。彼のブームは朝顔になったらしい。とても空しい時間が流れる、が、私には止められなかった。彼を見限って一人で生きているらしい彼の元奥さんを訪ねた。そこには、何故かとっても楽しそうな風景が並んでいた。にこやかに応じてくれた彼女は夫を紹介してくれた。そこには彼によく似た男が誠実そうに笑っていた。絶叫しそうな気持を隠して、私は笑った。笑ったままその場を後にする。彼女の呼ぶ声、子どもたちの呼ぶ声が聞こえた気がしたが、無視してどんどんと進む。もう限界だ、というのは自分でも分かっていた。それでも、彼と一緒にいたかった。

 さようならも聞けず、彼はどこかに行ってしまった。

 私はそれに文句も言えなかった。

 私はただの栞。彼の目に留まるのは、趣味の読書の時のみであった。

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薔薇の花 碧海雨優(あおみふらう) @flowweak

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