懐古

 どのような因果でこうなったのか盈には見当も付かない。こんなことははっきり言って初めてだ。雲隠れを食らわされた感じがして、心が曇った気分である。この訝しげな世界がいったい、いかように作られたのか。

 やはり夢なのかもしれない。それならば考えることはひとつだけで、できれば覚めないで欲しいと思うのが盈である。そして、この夢に身を委ねてしまって本当にいいのだろうかと迷うところがある。

 冴えすぎる感覚がこの言いようもない現実味を捉えて、どうにもまるで夢のように目の前のことを、事実を、片付けられない。まるで悪夢のような現実感があった。だがこれはひとえに悪夢にたとえられるようなものではない。少なくともだ、盈はこの安穏とした光景を悪夢と呼ぶことを避けたい。そう思った。

 なぜかしらこう言うのは、恥ずかしながら姉から伝わった人肌のぬくもりを感じたから。だからこれが夢であると言いたくなかった。とっさに姉を抱きしめたときのぬくもりは確かに本物だ。姉が偽物であってたまるかと、盈は頭の中で逡巡に心の言葉を連呼する。

 黒光りの床が剥き出しになった居間で、いまおじいさまと父親と盈の男三人が鼎談ていだんする形で陣取っていた。

 御味御汁と炊きたての米の匂いが鼻をくすぐる。ひさかた忘れかけていた匂い、もう二度と触れることもできないと思っていたあの匂いが漂う。盈たち三人が座って待つ中、白い湯気を立たせながら食事が運ばれてきた。

「お待たせ」

 用意されたお膳に、待ちかねていた白飯と御味御汁おみおつけが、木椀の音を立てて軽く置かれる。

 喉から手が出てきそうなほど美味そう。これが盈が慣れ親しんでいた、家の食事だった。あのころは当たり前に美味くて、美味かったことすらいままで失念していた。でも盈が食べたいと思っていた食事だった。

「いただきます」

 四人が声を揃えて手を合わせ、木箸を手にした途端、待ちわびていた食欲が衝動的にもっと湧いてくる。

 箸を子供みたいに鳴らせ、白飯をかきこみたくなる。いつも姉にその食べ方は行儀悪いと言われていた。だがこの飯を前に、どうしてそんな下卑げびた所作を止められようか。

 家業を手伝っては、疲れ果てたり気分が落ちたりしたこともあったけれど。飯をかっこむたびに、落ち着いていたような気がした。それが常だったのをしみじみと思い出す。あのとき十五になるまで、そんな仕事と飯の往復を、どれだけ馬鹿みたいに繰り返しただろう。

 懐かしさは本当に、なんでもないことに対して感じる。当たり前でありがたみがなかったことが、いざ離れてしまった。人がそれを再び感じたとき、懐かしさを感じるものなのだな、と盈は思う。たかが些事さじ、されど些事。

 そして盈は、飯を食べる姉、おじいさま、父親をじろじろと見ていた。

「お前、なんで今日はそんなよそよそしいんだい?」

「なんでもない」

 懐かしいといえば、姉とはしょっちゅう喧嘩をしていた。それはもう定番というくらい定番であった。

 姉とは取っ組み合いの喧嘩もした、それでも姉のほうが一枚上手を取られ、盈がこぶのひとつやふたつもらうのが関の山であったが。

 何度も食らった姉の拳骨は痛かった。

 それを思い出して盈は、感慨に耽って涙が出そうになった。

「どうしたんだい?」

「いや、わさびが強すぎてな」

「御味御汁にそんなもの入れるもんかい!」

 おじいさまと父親が笑い出す。

 姉はまた喧嘩腰になった。多少の荒っぽさがあるいつもの姉である。けどそんな風に怒声をあげるのも、盈はいま気にしない。むしろいまはそんな雰囲気が心地よかった。

 いっそのことをここで喧嘩をおっぱじめもよかった。姉の拳骨を食らったことも、もう久方ない。

「姉ちゃん、俺を殴ってくれてもいいんだぜ」

「何を言うのよ! このバカ弟は」

 姉が怒りを浮かべる中、盈たち男三人は声をあげて笑った。

 盈の戯れな言葉に過ぎない。けれど、それは彼の本心である。

 おじいさまと父親との再会も久しい。だが飯を食べているいまは、姉の声をもっと聞きたかった。

「この飯、姉ちゃんが作ったのか」

「他に誰が作るんだい、そんなにまずいなら食わなくていい」

「いや、懐かしい」

「懐かしい? 何を言ってるのよ?」

「二年ぶりだ」

「はぁ?」

「姉ちゃんの味だ、ってわかるよ」

「そ、そう? ありがと」

 姉が憎たらしいと思えていたころが、いまはなんだか愛しい。ここ二年もの間、シノギと御佩刀教団に対する、本物の憎しみばかりが渦巻いていた。そう考えると、ああ、いまこの姉に対する感情は憎しみではないと盈は改めて理解する。そのように悟ったのは、遅すぎたのかもしれない。

 シノギに姉が殺されていなければきっと、どれだけ幸せに、できれば一生喧嘩をしあえた仲だっただろうに。いまではそれはもう叶うことはできない。そう思っていた。


 食事を終えて、姉が井戸場の洗い場に食器を持っていく。

 居間に男衆三人が残る。

「父ちゃん、次はいつこの村を出るんだ?」

「出る? 父ちゃんが村を出るもんか、ずっとここにいるぞ」

 それは信じがたいことだった。いつもふらふらと村を出ては、勝手に旅を始める父親の言葉とはとても思えない。父は反省し、村のことにも心配をかけ始めたのだろうか。本当にどういう風の吹き回しか。

「出ていくときはちゃんと言ってくれよ」

「何を言ってるんだ、盈」

 笑顔で言葉を返す父親、そんないつも勝手に出ていく父親に悲しみはない。いつものことで逆に呆れかえっていたのが常々だった。

 盈は父親からおじいさまの前に正座をして頭を下げる。

「じいちゃん、頼みがあるんだ」

「何かの」

 笑顔で語りかけるおじいさま。ここであれができなければ誰がやるのか。

 盈はおじいさまに頼み込んだ。

「斬鉄剣を、作って欲しいんだ」

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