第五章

再会の夢

 目蓋まぶたを開けたとき、盈は穏やかな心地に落ち着く。広々とした草原。そこはいつもの村の風景だった。

 なんだか久しぶりに帰ってきたような。すっと両肩が軽くなって、できるのであれば空を飛んで空から村を見たいくらいだ。もしかして自分は鳥だったんじゃないかとさえ勘違いしたくなる。この場所を求めて、ここに降りてきたのではないかと思うぐらい。

 草がこうべを垂れ、涼しい風が盈の立つ地を吹き抜ける。とても優しい気持ちになった。こんな気持ちをいつの間にか忘れていたような。

 まどろみのような感覚に浸る意識が徐々に冴えてくる。寝ぼけ眼が完全に見開いたように、蒙昧としてた記憶がはっきりしてきた。

 そして盈は気づく。いつの間に自分は村に帰ってこれたのだろうか、と。

 一日か二日を費やした地獄巡りから、どうやって帰還したのか。あのとき意識が途切れて以降、何が起こって、自分はどうしてここにいるのか。

 よくもあの地獄から戻って来れたものだ。

 ふいに背中を触る。痛くない。振り向いてみるに、血の痕が消えていた。傷口だけじゃなく、服に付着し、焦げた赤い血の色もなかった。

 夢なのか。

 だが、ここは確かに盈の村である。無論、夢の中に村が出てきても、おかしくはないが。

 ふと重々しい存在が視界に入り、後ろを振り返る。

 鉧があった。まだ赤々と火花を散らし、やおら熱を冷ましつつ、そこに我が物顔で鎮座する。

 見上げれば青い空があった。地獄のように赤黒い空でない。盈は村の草原に立っている。これだけ安堵感に浸るのは何日ぶりか。

 もう一度風が吹き抜け、盈は平和だなと思う。それだけ穏やかでいられる気分を忘れていた。

 鉧のほうに歩み寄り、つぶさに観察する。この鉧、盈にはどこかで見た覚えがあった。

「これは……」

「盈! 何をぼうっとしてるんだい」

 その声を聞き、心臓が強く鼓動する。だが悲鳴を上げるほどでもなく、驚愕したときのようなものではない、そういう鼓動。それは、歓喜で高鳴る心臓の動きだった。

 聞き馴染みの声だった。

 その姿を見て、声を放った人の輪郭を捉える。

「姉ちゃん……」

 盈の姉、充がそこにいた。

 なぜそこにいるのか、充はシノギが差し向けた兇刃に倒れたはずなのに。

 不思議がって盈は、嫌われるくらい姉をじろじろと見た。

「神出鬼没だなぁ、姉ちゃん」

「私は幽霊じゃないわよ!」

 思い切り怒鳴られていると、盈は笑みが浮かんできた。

 こうやって会話を交わしていると、どうしてここに姉がいるのかという当惑より、いつもこんな風に毎日を過ごしていた賑やかさを思い出す。

「姉ちゃん……」

「どうしたんだい、そんなぼうっとして。お前のことだから、この草っ原に寝転がって悪い夢でも見ていたんだろ?」

「いや」

 寝ぼけ眼でただぼうっと突っ立って油断しているところを、隙を突かれて姉に見透かされたような気分だった。事実、盈もいま置かれているこの状況が何なのか、困っている状況だから、反論もしようがない。

 だが、疑うよりはこの戻ってきた平和な日常を、姉が帰ってきたこの日常に、身を委ねたいと考えた。夢ならそれも悪くはない。

「姉ちゃん、いま何歳?」

「乙女に歳を聞くもんじゃないわよ!」

 見慣れていた怒り顔が姉の顔から滲み出て、盈は思わず噴き出してしまう。

「いや、姉弟だし、別に年齢くらい聞いても」

「知ってるくせに何を言わせるんだい。まったく盈は……。私は十七よ!」

 それを聞いて盈はちょっとした確信を得る。ここは、もしかしたら過去の世界なのかもしれない。そんなことがあるものか、だがそうでないと説明がつかない。

 だがどうやって時を跳躍したのか。さきほどまで留まっていた冥界の仕組みで、そのような芸当ができるとも考えられる。しかし、それだと何もかも解決してしまう。

 でもそれならばこれを夢と片付けるのも容易い。けれどそのような考えは、かなぐり捨てるほどどうでもいいことだったのだ。

 これが夢であるならば、一瞬一刻でも姉ちゃんと離れたくはない。できるだけ長くこの夢の中に留まりたかった。

「姉ちゃん、実はな、俺も十七なんだ」

「何を寝ぼけてるんだい」

 手を振って否定する姉は、バカらしいとあしらって手を振った。

「その鉧はどうしたんだい?」

 さっきから気になっていた、この鉧の存在に姉は気づく。

 もしかしたら、と盈は近づいて、間近にまで目を近づけた。

 しばらく経って色合いが変わったのかもしれない。だがその鉧の凹凸、起伏の走り具合、ムラのあるなし、盈が作ったものではなかった。

 これは、あのときようやく完成に達した記念すべき鉧。

「シノギが作った鉧だ」

 盈の観察眼が推察する。見間違いはなかった。

「誰? そのシノギって」

 兇刃に倒された姉は、まるでそのことを知らない。もしかしたら本当に知らないのかもしれない。ここが過去の世界ならば、なるほどと言わざるを得ない。

「俺の仇だ、姉ちゃんの仇」

 理解は及ぶまいが試みにそう話してみせる。

「誰だい、そいつは私に隠れて何か悪さをしたのかい? 盈が出る幕はないわ、そいつをいますぐここに呼んできなさい」

「姉ちゃん……」

 激情のほとばしりにさすがに耐えられなかった。それは姉の気丈さが引き起こしたものかもしれない。

 同時に切なさが涙腺を搾るように、涙が溢れ出てきた。それを堰き止めるので必死になる。

 そして、姉の胸を借りるように、盈は身体を擦り寄せる。自分も何したかわからない。気づけば盈は姉をぎゅっと抱きしめていた。姉の身体が壊れてしまうくらい。だが、盈がそんなことをしたところで、姉は直立したまま盈の行動に唖然とするのみ。

「盈、何……どういうつもり?」

「なんでもない、姉ちゃんが生きているのが嬉しいんだ」

 盈がそう言うものだから、姉も困り果て、盈を振り払おうにも振り払えない。そんな顔をしていた。

「盈」

 ふいに男の声がかかる。そこに来たのは、盈の父だった。

 常に放浪とし、ふとした瞬間に旅に出ては、家族を困らせる父がそこに現れた。

「父ちゃん、いつの間に帰ってきたんだ!」

「何を言うんだ盈、父ちゃんはどこへも行かないさ。いつでもここにおるぞ」

 父親の突如とした登場にも驚き、もしくは呆れるが、さらに驚愕することが次に起こる。

「盈よ」

 そこに現れたのは、すでに死んでおり、村人と家族により手厚く葬られたはずの、志摩満。盈のおじいさまだった。

「おお、盈よ。どうしたことだ? はて、どういうわけか? いつの間にか背が伸びたかの?」

 背丈の低い盈を相変わらずも馬鹿にしているのか。まったくの嫌味。だが、そのようなことを話題に出すことはまるでどうでもいい。

 だが、十七歳にまで成長したということは、やはり背丈が違うという、その差が現れているのだろうか。

 十七歳、盈は疑問が生じる。姉はいま十七歳。おじいさまが亡くなったのは姉が十七になる数年前のことだ。ここは過去の世界ではないのだろうか。やはり、これは夢か。

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