第四章

地獄


   ◆


 入り口を抜けて向こう側に出ると、暗闇はすぐに晴れた。

 周囲に見えたのは、立ち上る厚い炎の壁がいくつも生じていた。

 乾いた土塊つちくれが積まれた足場ばかり。炭坑で掘り出した土を一箇所に集めるとちょうどこんな歪な地盤ができるのではなかろうか。

 炎の壁にしてもそうだが、そこは始終にわたり火の粉が流れる塵のように飛散する。鱗粉をまき散らす無数の蛾が、灯籠にでも飛び込めばちょうどこんな感じの光景が見られるのではないか。

 間欠泉のように、炎はいくらでもあちこちから立ち上る。数秒で炎が消えることもあれば、いつ終わるとも知れず燃え続ける炎も。だがいずれもロウソクの火をはたく容易さで消せるものではない。

 炎の壁が揺らめくさまはまるで帳のようだったが、紅蓮に燃え盛る熱さを思えば、決して帳の役割を果たしてはいない。

 声を出せないほど恐ろしい場所で、盈とムシャは心が潰れないように必死に手を握りながら、このぼろぼろの地面を不器用に歩く。

「あぁ……」

 盈が見上げると、夕焼けよりも血の色で滲んでいた。この空に白い雲はなく、静脈のように黒い血みどろな流れがところどころで渦巻いていた。

 白色、赤色、黒色などと言ってはいるが、実際は違う。正確を記せば、盈が知っている色の名前では言い表せぬほど、残酷な色ばかりが周囲にまみれていた。

 はたしてシノギはここにいるのだろうか。実直に言えば、こんなところ一秒もいたくはない。よほど精神の強靱さがなければ、一日で息が切れてしまいそうだ。

 よくもこんなところに自ら進んで入れたものだと、盈は自分を褒めてやりたいくらいだった。

 だがシノギは一度この地獄を飛ぶか渡るかして見ているはずだ。こんなところを他人の手を借りずに通り過ぎようなど、よく考えられたものだ。それこそ褒めてやりたい。

 だが盈は思う。

「シノギはおそらく無事ではいられないだろう、それだけは絶対に言える」

 本当に両腕両脚が残ってさえいれば、このような場所ではまこと運がいいほうだ。

 土塊が丘陵になってくる。登るとここから遥か下の低地が見えた。

 地獄の全景。

 立ち上る炎の壁の数々。その中に餓鬼か畜生か、あるいはもののけのような影がちらほらとうごめく。

 人の影もあった。だが遠目から見るとそれは人間の動きも、まして人間の形もしていなかった。痩せこけ、動きのおぼつかない者ばかりだった。

 見下ろしたこの景色に血の池が流れていた。赤々と輝く。いや、違う……血の池ではないと盈はふと勘づく。

 あれは、溶鉄か溶岩だ。

 池から生じる熱蒸気と赫奕かくやくたる様子から盈はそう推察した。

 もしあそこに足を危うく入れてしまったら、足が溶けて消えてしまうだろう。骨も残らないという悲しさを謳う状況とはまさにそういう差し迫ったときの言葉だ。

 丘の高みから降りられるところを探す。盈はゆっくりと土塊の地面を踏み、崩れないところを慎重に見極める。

 この地面を踏むたびに土ぼこりが舞う。幾分足元に気を配ってもこればかりは仕方がない。

 いたずらに歩く状態がこの調子でずっと続くのだろうか。歩くだけ無駄な時間が経つのがもどかしい。早くシノギを連れて帰らねば。そのために何かしらの手がかりを見つけなければ、ここに来た意味がない。

 生じる炎の勢いが降りるごとに激しくなる。周囲から時折、轟々轟々という音が地響きを立てた。だがそれはまだいいほうだ。

 この焦げた炎の臭気と、焼けた土煙が気道に入ると、咳き込むほどに苦しくなる。幾ばくから喉に熱さにむせぶのを、盈はとっさに襟を口に押さえつけて耐える。

 この世のものと思えぬほどの情景。人はこのさまを地獄絵図と表現するものだが。これは絵ではなく、当然地獄そのものだ。

 死人が生前を生き地獄と表現するなら、それは生ぬるいほうだ。ここはまさに正真正銘の死後の地獄である。絶命して苦しみから逃れる手段もない。

 こここそが冥界。こここそが地獄。生前には決して存在しない苦しみの場所。

 感情を訴えるならば、そこには絶望しかない。

 希望を訴える権も、そこには存在はしない。

 盈は人伝えに極楽とはどんなところか、地獄がどんなところかを聞いていた。それはきっと歪曲された噂に過ぎないのだろうが。いくら誇張したところで、この地獄を目の前にすればそれが控えめに言っていることだと、おそらく皆が皆で腑に落ちる。

 罪人が死を前にしたとき、この地獄のさまを見ることができれば、罪人は誰であれ罪を認めることだろう。もし地獄を見ることが叶えば裁きを受けるまでもない。自分が罪を犯したのであれば非常に素直になり、その償いを生命までを賭して清算するだろう。罪あらば罪を認める簡単な方法は、地獄を見せることだと盈は思う。

 丘から下り切ると暑苦しい空気が周囲に籠もっていた。蹈鞴にいたときと同じくらい熱い。だからそれは幸いだった。盈が耐えることができるくらいの熱さだからだ。

 よく言われる話。地獄には鬼がいるという。

 熱気の陽炎かげろうで、周囲の視界が歪んでいた。だが何か動くものが盈たちに向かって集まりつつある。

 おそらく陽炎のせいではない。それは人の背丈をしておらず、人のように隆々とした肉体をしており、盈は間違いなくこいつらが地獄の鬼だと理解した。

「盈」

「ああ」

 鞘から刀を抜く。そして相手側が何かしらの手振りをしてから、潰れた唸り声で話を始める。

「ほう、狼藉を働くほどの元気がある奴だな」

「狼藉者はどっちのことやら」

「ふっ、口答えをする気力もあるか、大した奴だ」

 陽炎を抜けて、その容姿が錯覚ではないことを悟る。

 盈の三倍はあろうかという身長差。自分の血が搾り取れそうなほどの強靱な筋肉。至極の怒りに満ちた恐怖の相貌。

「鬼……いや、獄卒か?」

「わかりきったことを言うな」

 こいつがそう称するのであれば、盈もそう呼ぶこととする。

 十歩ほどまでの距離を詰めて戯れる獄卒は、拷問具をそれぞれに持っていた。

 この獄卒たちをどうしても相手にしなければならないか。嘆息しながら盈はこいつらを見渡す。観念して地獄でこの身を終わるわけにはいかない。盈は刀を振り構えた。

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