冥界へ


   ◆


 ――シノギがどこにおるか。おそらくは……。

「知っているのか?」

 ――我には心当たりある。よもや盈、シノギを探しに行くのか?

「もちろんだ」

 ――なぜだ?

「聖剣様が与えた義務を俺が果たしていないからだ。あいつがいない以上、あいつを村に連れ戻さなければならない。当然だろ? 俺はあいつがこの御業みわざを手にするまで教え込む。徹底的にな」

 ――そうか。そなたに頼んで、本当に良かった。

 聖剣が心から盈を信頼してくれていることに、胸を打つものがある。

 ――シノギがいる場所、それは……。


「私も行く」

 いったん村に戻り、夜が更けるのを前に広場に村人を皆々集め「シノギを探しに行く」と盈自ら言ったところ、それを聞いたムシャが身を乗り出した。

「危険だぞ、俺が向かう場所はあの迷いの森だ」

 聖剣が回答したこと。シノギは迷いの森にいるだろう、とのことだった。

「わかってる、私もあそこにいたから知ってる」

 話が噛み合ってないと思ったが、あの森で閉じ込めをくらったのは彼女も同じ。それならなおさら盈と行動をともにしなければ、と彼女は考えたのだろう。

 そして盈も彼女から強気に出られると、それを無下に断れない自分自身に気づく。そう、二人で過ごしたあの時期、盈とムシャは互いに助け合っていた。きっと何かが起こったらもう一方が助けてくれる。そして、それができるのはムシャしかいない。

「あっしも行きます」

 村人の一人が申し出ると盈はすぐさま「駄目だ」と言って断る。

 あそこが、迷いの森が危険であるということは周知の事実だ。もし村人が森に閉じ込められて、正常な精神が保てるのかが心配だ。あのとき盈もムシャと出会っていなければ、数日で錯乱していたに違いない。

「ムシャが危ない目に遭ったら、俺が助ける」

「盈も危ない目に遭ったら、私が必ず助ける」

 噛み合っていないと思われていた言葉が、いまがっちりと嵌まった。

 このことが、同行するのに適した人間はムシャしかいない。十分信頼するに足りた。

「そういうことだ、俺ら二人に任せてくれ」

 村人たちにそう言い放ち、盈とムシャの二人は準備を整え、迷いの森へと出立する。

 夜が明けるのを待とうとも思ったが、森から外に出られたのも夜中だった。だから盈はこの時間を選んで森に向かう。これは聖剣が言っていたことでもあった。夜に迷いの森はを開きやすいと。これについてはあとあと説明する。

 今夜も輝く月が綺麗だった。ムシャの黄金色の髪がいっそうに際立つ。

「月がお前みたいに綺麗だな」

「逆じゃないの?」

「……ん?」

「私が月みたいじゃなくて、月が私みたいってどういうこと?」

「あ、ああ。そうだな、逆だった」

 意図せず答えた言葉に盈は自分の言動を正す。だがムシャは頬に赤が差した。

「ねえ、盈。私はいったい何者なんだろう」

 盈が彼女と出会ったとき、彼女は自分の記憶が曖昧になっていた。記憶を失っていたとは違う。ムシャに言わせると、錆びついた甲冑のまま悠久の時間を過ごし、気づけばそこにいたという風である。だからという言葉が一番当てはまる。

 きっとムシャは自分を見失いかけていたのだろう。

「大丈夫だ、俺がムシャから受けた多くの言葉、多くの行ないを俺は覚えている。お前はお前だよ」

「私も、盈のことを一番知っている」

 たった二年の付き合いで何がわかるんだよ。とも言いたいが、そのことを伝えるのがなんだか野暮なことのように思え、盈はただ「そうだな」と返した。

 森は次第に深くなっていく。月明かりと松明の火を頼りに、森の深みへと進んでいく。

 心細さが次第に強くなってくるのを必死に耐える。ムシャの手を握りながら。

「痛いよ、盈」

「甲冑の手でそう言われても、ぴんと来ないんだけどな」

「うん、だけど痛いほどわかるよ。盈が何考えてるのか」

 それは盈が些末に心細いことを暗に指摘しての返事だろうか。

 そう思った瞬間、甲冑の手で盈の手を物凄い力で握り締める。反射的に「痛っ!」と言ってしまい、ムシャは手を離して「ごめん」と言う。そのやりとりがくすぐったくて、二人して苦笑する顔を見せ合った。

 それでいいと思う。お互いに。一人にしたくないし、一人でいたくない。

 決して哀れがっているのではなかった。きっとそれは自分が一人になりたくないから。一人になるということは、この場で相手を一人にすることに違いない。自分が寂しくなればきっと二倍寂しくなる。

 これから何が待ち受けるのかわからない。想定に定まったものが待っていれば幸いだ。それならば良くても悪くても覚悟はできている。

 森の奥深くに、何かが光った。

 月明かりのせいではなかった。それは自ら発光する存在、それを瞬時に理解する。

「盈」

「ああ」

 刀を握り、すっと冷たい音を立てながら抜いていき、刀身を完全に外気に晒す。

 武器を手にしたことで、緊張感で背中が張る。

 おじいさまが作ってくれた刀はまだこの世にいくつか残っていた。

 そのうちのひとつを盈は握っているのだ。それは自分のものであるというよりかは、おじいさまから借りているというほうが意味的に当たっている。

 自分のものであると言い張るには、おじいさまの主義、その主義の神髄を、いまだ手にしていないと盈は気を負っている。

 だからいま盈は盈としてこの刀を使うことはしない。

 むしろ、心の寂しさをおじいさまの威光で振り飛ばしてやるという勢いだ。

 自ら光を放つ物体に、二人は一歩一歩とにじり寄っていく。

 鳥獣のたぐいが遠くでギャーギャー喚いているのが聞こえるが、そんなこと気にしていられない。いや、心を乱されるわけにはいかない。

「おじいさま、どうか俺に力を」

 そう呟きながら盈は、ムシャと……そしてきっとおじいさまがここにいることを想像しながら、近づいていく。

 すでには目の前に立ちはだかっていた。

だ」

 間近で見るとそこに既視感がある。

 盈とムシャを二年間、正確に記せばムシャは何年もか、二人を長い時間閉じ込めたあの扉がそこにあった。

 ようやく手がかり足がかりが掴めたと確信する。この向こうに、おそらくシノギはいるのだろうか。

 夜の暗闇が濃い時間帯にしかこの扉は現れない。迷いの森について話を触れたとき、聖剣がそう言っていた。よくもこんな時間帯にこんな場所に手を焼かせるものだ。これほどの手がかりがなければ、シノギを探しに行くのは自殺行為そのもの。

 身勝手な奴をこうまでして助けに行かなければならないなんて。

「シノギ……お前が死んでいたら、ただじゃおかねえからな」

 もしお前の遺体のひとつでも残っていたら、勝手に墓標を作らせてもらうからな、文句なんて一言も言わせてたまるか。そう盈は悪態を吐く。

 責任は盈にある。逃げたことに関して言えば監督不行き届きだ。面倒かと問われればはっきり言って面倒だ。だが、やらなくてはならない。盈は刀を構えて扉を見て、ぎりりと奥歯を鳴らす。

 まだ暗がりな森に冷たい空気に、自ら光り輝く扉の物々しい雰囲気。月明かりと松明。盈の口から漏れる息が白い。

 そして何より、内側から胸筋を叩かれているかのように、心臓が拍動を打っていた。やはりこの感覚は尋常じゃない。

 今朝、氷雨が降った曇り空は、きんきんに冷え切っているだろう。

 どうして盈がそこまで緊張の糸を張り詰めるのか、ここではじめて説明をする必要がある。

 おじいさまも、シノギも、二人は別世界から来た。

 別世界からこの世へ直接飛ぶことはできない。

 ここに来るには冥界を通らなければならないという。冥界、それはすなわち死人が行く世界のこと。一足飛びに目的地の世界に行くことはできず、どんな場合も冥界を仲立ちして通らなければならない、と聖剣は言う。

 おじいさまはあの世界で一度死んで、新しい身体を与えられ、この世に来たらしい。

 シノギは聖剣に呼ばれ、あの世界から冥界を通り抜け、生きたままこの世を訪れた。

 盈が二年間過ごしたあの場所は何なのかはわからない。ここにあった扉がなぜあのときもあったのかも理解できない。けれど、そんなことはいまどうでもいい。

 おそらくこの扉を突破すれば、冥界に足を踏み入れることになる。そう聖剣は言った。

 死後の世界というものはおそらく、この夜以上に闇深いところなのだろうと身の毛がよだってくる。だが、行かなくてはならない。ぶるっと震わせて盈は、おじいさまの刀を一心に見ながら、身体に纏った恐怖を振り払う。

 シノギはこの世から逃げ出した。おそらく元の世界、日本に逃げ帰ろうとしたのだ。それが聖剣の推測したことだった。迷いの森が冥界へ続くこの扉が出やすい場所であることを聖剣は知っていたし、シノギを移動させるときにこの迷いの森を利用したと言う。

 盈は決め込んでいた。逃げ帰る奴におじいさまの末裔を名乗る資格はない。彼を無理矢理にでも連れ戻して、胸を張って由緒正しき末裔だと言わせなければ、盈の気が済まなかった。

 それでも日本に帰れていたなら、運がいいほうだろう。

 だが問題は、もしもシノギが冥界で足止めを食らっていたら、という可能性だ。それは極めて厄介である。

 盈は冥界がどのような場所かを知らない。それでも、恐ろしくはない場所であるわけがない。彼を連れ戻すのに骨が折れることを考えなくてはならない。聖剣もそのことを危惧していた。

 最悪の事態であれば、シノギが手を貸して、助け出さなくてはならない。

 ただ別に盈はシノギをかわいそうだなどと微塵にも思っていない。ただ面倒でも、彼の尻拭いはしなくてはならないと義理立ているだけだ。

 御佩刀教団は聖剣のことを崇めている。はっきり言えば盈は、聖剣を好き好んでいるわけではない。だがシノギを助けなければ村人を解放する約束を反故にされることもある。仕方なくやっているだけだ。

 何度も言うが本当は面倒なのだ。

 消極的な動機ではあるものの、聖剣の言葉にいまは従わなければならない。盈は無理にでも聖剣の言うことを呑み込んで、いまここにいるのだ。

 目まぐるしく考え事が盈の脳裏をよぎったが、いま彼は扉と対面して、細く白い息を心臓の鼓動にあわせて吐く。

 あのとき見た扉のように、その錠前に鎖が何重にも縛りつけられていた。

 扉を開ける状況はあのときと、ほぼほぼ同じだ。

 この森が迷いの森と言われる所以は、多くの人間がここに入り込むと、二度と帰ってこないという、まさに神隠しに遭う場所とされているから。

 誰にも知られずにこの扉の向こうへ行ってしまった人間がどれほどいるのだろうか。

 そんなことを考えている場合ではない。

「下がってろ、ムシャ」

「うん」

 盈がいまここでこの鎖を斬って砕くのだ。

 彼にはそれが見えていた。鎖の上を走る赤い筋、刀線が。あのときのように彼にはこれを斬る自信がある。それは確実だった。

 だが、その先でどうなるかはわからない。安全の保障など一縷もない。絶対に。

 けれど、どんなことが待ち受けていようが絶対にシノギを連れて戻ってきてやる。盈は意気込んだ。

 横目にムシャも神剣な眼差しを扉に向けていた。彼女にも絶対の覚悟がそこにあった。

 おじいさまと父親から常々教えられたことがある。

 人は失敗をしてもいいのだ、ということを。

 やってはいけないことはひとつだけ。何もしないということだ。それこそ愚の骨頂だと口を酸っぱくして言われた。

 人は考え込むことで足が止まる生き物だ。それを理解しているからこそ、おじいさまと父親の二人は盈に教えてくれたのだ。成功も失敗もせずただ指をくわえて見ているだけ、ということはするな、と。

 さぁ行くぞ、と。盈はその刀を振り上げた。そして一気に鉄鎖にその刃を振り下ろした。

 歪な音を立てたが手応えは十分にあった。盈だけが見ることのできる刀線に沿って鎖は斬られ、そこから細かいひびが入り、見事鎖は砕け散った。

 鎖と錠前が地面に落ちると、扉がゆっくりと押し開かれていった。

「盈」

「ああ、行くぞ。ムシャ」

 手をつないで二人は、不乱の状態で、扉の向こうへと歩いていった。

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