∞ー>:極虹のグラディエント


 結局、あれから何がどうなったのかは、よく分からない。


 世界は一見、殆ど元のままに見える。かつてディアンテ山脈があった地点を中心に、半径数十キロの円い湖が出現したことと、かつて三日月湾があった弧にそって、雑に縫い合わされたようにエシュラムの大地が出現したことを除いて。

 社会全体の認識もほぼそのまま継続し、ところによっては都合よく、というか、うまい具合にというか、調整されているようだ。

 天晶球出現以降のことは、いくらかの痕跡は残るものの、天使の存在についてはその変異そのものが無かったことになっているらしい。エシュラムの民についても、ノルヴィナだった者たちもヴィナへと戻っている。

 人々はそれらの超常的な出来事に対し、混乱しながらも、原因不明の奇跡として誤魔化しながら受け入れるしかないようだ。


 ほとんどが元通りながら、ところどころが雑に都合よく修正された世界。

 まず間違いなく、この世界は一からそういう風に創り直されたものだろう。これが彼女ひとりの望んだかたちなのか、あるいは、より多くの、それこそすべての命が持つ願望の最大公約数を実現するとか、そのようなかたちなのか、あるいは更に別の可能性によるものなのか。


「まあそんなことはどうでもいい」


 思わず自分で言った言葉に、自分で笑ってしまう。

 前のバージョンの自分なら、そんないい加減な考え方はしなかっただろう。少なくとも自分で納得のいく答えが得られるまでは、調査・考察を続けたはずだ。

 これもまた、あのいい加減な性格の彼女の影響によるものなのかもしれない。はたまたあるいは……。


「ばかばかしい」


 そう言葉を続け、手にしたプリズムの小片を窓の外の陽の光にかざす。

 ひとつの輝きと、そこから分かたれた極彩色のスペクトル。そして、それぞれの彩と彩との結びつき、その変化のかたち、グラディエント。

 そういえば、どうしてあの組織をグラディエントと名付けたのだったか。よく思い出せない。


 プリズムから放たれる虹色の煌めきに見入りながら、そんなことをぼんやりと考えていると、ふいに部屋の中、背後から猫の泣き声が聞こえ、少年は後を振り返った。


「なんだ、また来たのか」


 そう言いながら、少年は小皿を床に置き、猫にミルクを注いでやった。

 数日前から、この横になるのもやっとの狭苦しい寝床を訪れるようになった、少年の唯一の顔見知り。


 少年は、この復興に湧くレギアレンの街で日銭を稼いで暮らしている。その生活を通じては誰とも打ち解けることもなく、この小さな唯一の知人を除いて、常に独りだった。

 しかしそれは少年にとっては決して辛い事ではなく、ずっと一人の男の亡霊に付き纏われていた少年にとっては、むしろその絶対の孤独こそ渇望し続けていたものだった。


 少年は、ようやく望んだものを手に入れていた。


 結局猫はミルクを二、三度ほど舐めただけでまた何処かへ去ってしまった。


「まったく、贅沢なやつめ。今の僕にはその程度のミルクすら、貴重だというのに」


 少年は苦笑いを浮かべながら、皿を片付けた。


「さて、今日はどうするかな」


 すでに陽は天頂近くへと昇っている。

 街ではまだしばらくは幾らでも仕事が見つかるだろう。行く行くはそうして稼いだ小銭を基に事業でも興そうかとも思う。幸か不幸か、そのためのノウハウはまだこの脳髄の中に納まっている。


 しかし、今日のところはどうにも気分が乗らない。

 小銭入れを取り出し、その中を探る。とりあえず今日一日を凌ぐぐらいの金はある。


「たまにはゆっくりする日があってもいいだろう」


 少年はシミだらけの薄汚れた備え付けのベッドに腰掛け、猫の去っていった窓を見つめた。カーテン代わりのボロ布が、穏やかな潮風にゆらりゆらりと揺れている。


「あいつ、また来るだろうか」


 今夜にもまた来るかもしれない。あるいは、もう二度と来ないかもしれない。

 けれどまあ、それはあの猫の自由だ。好きに生きればいい。

 とはいえ、また来てくれればそれはきっと嬉しいことだろう。素直にそう感じている自分自身を、少年は自覚していた。


 カーテンの向こうの青空へと目を向ける。

 一面の青い空。しかし、その青の中にも淡いグラデーションが見て取れる。


 少年はそのまま窓から身を乗り出し、街を一望した。

 まだそこかしこに瓦礫が残りながらも、一方で新しい建物が次々と生えていく。

 通りにはにぎやかに人が行き交い、雑多な色のるつぼと化している。

 そうした視界のすべてが、まるでひとつのモザイク画のようにも思える。


 少年の目には、それらの光景はとても自然なものと感じられた。





  少女の目の前には幅の狭い歩道が続き、その先には、ひとつのお屋敷が自然に溶け込むように佇んでいた。


 大きくて、真っ白で、荘厳で、綺麗な建物。


 子供のころは白亜の宮殿のようだと感じたお屋敷も、今見ると少しこじんまりとしているようにすら思える。

 しばらくそのお屋敷を眺めていると、ふいに少女の背中越しに爽やかな春の風が吹き抜けていった。

 濃く暗い、藍色の肩まで伸びた髪が柔らかく揺れる。そろそろ切る頃合いかもしれない。けれど、このまま昔のように伸ばすのも良いかもしれない。

 少女はそのどちらの可能性にも魅力を感じ、心を躍らせた。


「何ボケっとしてんだよ。早く行こうぜ」


 傍らに立つ少年が軽い口調で言った。

 少女はそれには答えず、風の吹き行く青い空を見上げた。


 一瞬、その向こうに竹とんぼが飛んでいるのが小さく見えた気がしたが、瞬きをした次の瞬間には、その姿はどこにも見当たらなかった。


 そのままゆっくりと視線を下ろすと、お屋敷の中から一人の女性が出てくるのが見えた。

 その女性、メイド長、は、すぐに少女の姿に気付き、一瞬驚いた様子を見せたが、すぐに笑顔を浮かべ、少女をお屋敷の方へと手招きした。


 少女はそれに一瞬緊張した様子で小さく深呼吸をしてから、傍らの少年の手を取り、お屋敷の方へと歩き出した。


 歩きながら、少女は少年の手を強く握った。少年もそれに応えるように力を込めて返す。

 少女は今度は少年の顔を見つめ、明るく笑った。

 少年もそんな少女の顔を見つめ、笑顔を返して言った。


「なんだよ?」


「別に。なんかさ、来てよかったな、って」


 すぐに少女はお屋敷の前までたどり着き、笑顔でメイド長に挨拶をした。

 メイド長もそれを優しく受け入れ、迎えてくれた。


 アリルはそれらすべてを、とても自然なこととして感じ、受け入れていた。




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