ー>∞  :願い


 どこまでも続く一面の青い空を、小さな竹とんぼがひとつ、力強く舞い上がる。


「姉ちゃん……?」


 あの時と同じ光景。あの時と同じままの姉の姿。


「よう。久しぶりだな、アリル」


 姉が竹とんぼからこちらへと顔を向け、明るく笑った。

 アリルはそれをぼんやりと眺めながら、その意味を探った。

 戦いはどうなったんだろう。世界はどうなったんだろう。


 辺りを見渡しても、それを教えてくれるものは何もない。あの時と同じ、ただただ穏やかな世界が広がるだけだ。


 アリルはもう一度姉へと向き直り、その笑顔を見つめた。

 またカルムがまやかしを見せているのだろうかとも思う。けれど、なんとなくそうは思えなかった。


「姉ちゃん……!」


 本物の姉だ。論理的な根拠は何もないけれど、感覚のすべてがそう叫んでいる。


 言いたいことが沢山あった。

 けれど、それ以上に聞きたいことがひとつ、あった。


「姉ちゃん、僕は、やっぱり敵討ちをしなきゃいけなかったのかな。姉ちゃんは、僕を恨んでる?」


 そう、一語一語恐る恐る絞り出したアリルを、姉は優しくそっと抱きしめた。


「相変わらず馬鹿だな、お前。死人に気持ちをいつまでも引っ張られたままだと、楽しくないぞ。もっと楽しく生きろよ、私のためじゃなくて、お前自身のために。お前の人生なんだから」


 アリルの頬に涙が伝い始める。それを隠すように、アリルは更に強く姉を抱きしめて言った。


「ずっと、寂しかったんだ……」


 優しい、穏やかな声がそれに応える。


「……父ちゃんと母ちゃんが死んじゃって、小さな妹と二人残されて、不安だった。それでも、お前の笑顔のためなら頑張れた。なあアリル、姉ちゃんさ、ちゃんと立派にお前の姉ちゃん、やれてたかな?」


 アリルは嗚咽を堪えきれず、泣きじゃくった。

 言いたいことが沢山あるのに、言葉が詰まり、一つも出てこない。


「馬鹿。泣くなよ。泣かれたりしたら困るじゃないか。笑ってくれよ」


 姉が困ったような笑顔でそう言い、アリルもそれに応え、どうにか笑顔を作って見せた。


「アリル、頑張れよ」


 その言葉に、アリルは必死で嗚咽を噛み殺し、今にも崩れそうな笑顔を姉に見せ続けようと、努力する。


「……大丈夫! 僕はもう大丈夫だから、安心して。みんなが居てくれるから、寂しくない。みんなと一緒に、楽しく生きていくから。だからもう、私はもう、大丈夫だから……!」


 その言葉に姉は温かく眩しい、満面の笑顔を見せ、それからゆっくりと空を見上げた。

 アリルもつられて空を見上げる。


 どこまでも広がる、一面の青い空。


 もう一度姉の方を向くと、そこにはもう、姉の姿は無かった。


「ありがとう、姉ちゃん」


 アリルは涙をぬぐい、微笑みながら、青空へとそう呟いた。


 竹とんぼの姿はもう、どこにも見えない。

 空の青が涙で滲み、薄く、ぼんやりと、溶けていく。





 目の前に、自分の瞳がある。


 しばらくそれをぼんやりと見つめ、それが実際には自分の瞳ではないことに気付いた。


「僕は!」


 ひとつとなっていた意識が再び二つへと分かれ、二つの声が同時に響いた。


 目の前でクオラムが溶け込むように光に飲み込まれていき、その中からカルムの怯える瞳が現れた。

 そしてアリルは、今の瞬間まで自分がアリルであり、同時にカルムでもあり、そしてアルファラントでもあったことを思い出した。ひとつに統合され、全能の輝きへと接続された意識の在り方。


 結局のところ、アルファラントはそうして自分自身を神にしようとしたのか。自分の意思だと思っていたものすらも、全部その計画の内だったのか。すべてはオリジナルの掌の上でしかなかったのか。あるいは。

 そこまで考え、アリルはまだカルムの思考に引っ張られている自分に気付き、その考えを振り払った。

 そんなことは、どうでもいい。


 そのままエンヴレンの胸を開け、カルムへと手を差し伸べる。

 カルムはその手をじっと見つめ、少し迷いながら、自分の手も伸ばした。

 しかし、すぐにその手が驚いたように止まった。

 アリルには、そのカルムの思考が理解できた。


 ”今この手を伸ばしたのは、自分自身の意思でだろうか?”


「疑っちゃ駄目! 自分を信じて! 私はあなたを見ている。あなたに触れようとしている。アルファラントではない、あなたに!」


 アリルはそう絶叫するが、カルムはその声が聞こえないように、自分の手に視線が釘付けになっている。


「こっちを見て! 私を! あなたに手を伸ばしている私を!」


 カルムの姿がジワジワと光に滲み、アリルは自分にもまとわりつく光を押しのけながら、更にカルムへと必死に手を伸ばす。


「カルム! 信じて! 自分自身の存在を! あなたは、確かにそこにいる!」


 アリルの伸ばした手は、届いた。

 アリルの手が確かに固くカルムの手を繋ぐ。カルムは驚いたようにその手を見つめ、それからその手を強く握り返した。


 次第にその表情が穏やかなものへと変わっていき、最後にはその姿も光の中へと消えていった。





 ついに、アリルとエンヴレンを除く世界のすべてが原初のエーテルの輝きへと還元され、ひとつとなった。

 大いなる、ひとつの輝き。


 そして、エンヴレンもまた、光へと溶けていく。神の繭。卵の殻。それが、音もなく割れていく。


「ありがとう。おつかれさま、エンヴレン。今までずっと私の力になってくれて」


 アリルはそう別れを告げたが、それでもエンヴレンだった輝きはアリルの周りを漂い続けた。


「そう。まだ私と一緒に居てくれるんだ。それじゃあ、いくよ、エンヴレン」


 輝きがアリルを包み込み、それは藍色の羽衣となり、翼となった。

 ついにアリルは至るべきところへと至り、その胸にはひとつの輝きが抱かれている。


「大丈夫、みんな、ここに居る。そして、私も」


 今のアリルには、その意味が完全に理解できていた。

 人も、動物も、植物も、空も、大地も、海も、世界のすべては、このひとつの光に含まれる、固有のスペクトルなのだと。


 すべてはこの中に含まれている。そして、今の自分は、それを在るべきかたちへと分光することのできる、プリズムなのだと。





 女神は、願った。


 そして女神自身も光の中へと溶けていき、大いなる輝きは完全となった。

 すべてが時間も空間も原理的に意味をなさない一点へと収束していく。


 そして、それはふいに大きく弾け、時間と空間は一から再建され、そこに無限の彩の輝きが溢れ、満ちていった。


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