最後の客

酢烏

最後の客


 深夜、森林近くの一件の喫茶店。窓際の席に一人、男が頬杖をつきながら新聞を眺めていた。

「今日で最後なんですよ」

 男の頼んだブラックコーヒーを手に、店長が語りかける。男は少しだけ目を見開き、すぐ元の無表情に戻ってカップを受け取った。

「奇遇ですね」

「というと、もしかしてあなたも?」

 店内に他の人影はなく、男と店長の会話がクリアに響き渡った。外部からも遮るような音は、ない。

「ええ。昨今の情勢、分かるでしょ? そのせいで、私も店を畳まなきゃいけなくなって」

「それはお気の毒に」

 あなたもそうでしょう、と言って男はコーヒーを口に含んだ。湯気が立ち上るどす黒い液体は相応に熱いはずだが、男は一気に三分の一ほどを飲み込んだ。そして、顔をしかめることなく会話を続ける。

「稼ぎは割とある方だったんですがね。特に最近は少し盛り返してきていて、高い費用の元が取れていたんですが」

「この間までは、国も優しかったんですがね」

 店長の嘆きに男も同意を示す。

「やはり影響が大きすぎたんでしょうね。自分たちにとって不都合になってきたから、規制しようっていう」

「仰る通りです」

「彼ら、本当は国民のことを何も考えちゃいないんですよ。自分の利益しか頭にない」

 己が心情を吐露する男に対し、店長は眉をひそめながら応じる。

「私も大まかには賛同しますが、もう少し視野を広く考えませんと、彼らと同じになってしまいますよ」

 男は苦笑してコーヒーに口をつける。早くも底が見えてきたカップを揺らしながら、男はぼやいた。

「いずれにせよ、私らの居場所はもうない、ってことでしょうな。同じように心の安息を失った人々に、せめてもの憩いを提供していたつもりだったのですが」

「やはり市井は厳しいものなのですか?」

 何気なく店長は問いかけたが、男は不審そうな顔で、

「市井のことは私にもさっぱりです。むしろここみたいな辺境で営んでいましたから」

「すると、もしや同業者でしょうか?」

「ええ、おそらく」

 男の回答に、店長の頬も緩んだ。どうやら無意識的に彼の方が警戒していたらしい。

「では話が早いですね。やはり、あの施策は失敗だと思うのですが」

「ええ、あれではむしろ被害を拡大させるだけですよ。我々が言えた立場じゃないですが」

「まったく同感ですね。我々の後に残る同業者が大変な目に遭いますよ」

 店長のジョークに二人は盛大に笑った。その後もひたすらに会話し、笑い、また会話し笑う。その繰り返しの中で完全に冷めたコーヒーが、淀んだヘドロのごとくカップの底に溜まっていた。

「さて、ではどのような方法をご所望でしょうか」

 痛んだ表情筋を動かしながら、店長は男に問いかける。男はヘドロをじろじろ眺めながら、逆に提案した。

「せっかくですし、一緒にいかがですか? どうせ、この建物も使われなくなるんでしょうし」

「私は構いませんが、お客様はそれでよろしいのですか? 貴重な機会だというのに、一人でいかないなんて」

「何を仰る。むしろ同業者と同行できる方が貴重に決まってるじゃないですか」

 そして男はカップを店長に見せつけながら微笑んだ。

「最後にもう一杯、いただけますかな」

「ええ、喜んで。できれば私も、あなたの作ったものを飲みたいのですが」

「そりゃ勿論。同業のよしみに、何でもやって差し上げますよ」

 そして二人の男は店の厨房の奥へと、肩を並べて消えていった。窓際の席に、結局飲み込まれなかった黒い塊を残して。



「……次のニュースです。新型コロナウイルスの影響で自殺する人が急増したことを受け、政府は今日、自殺禁止の法令案を国会に提出することを決定しました。この法令では、自殺した者の遺族に対して懲役等を含む罰則を科すことや、自殺を奨励する人々の取り締まり等を規定しています。政府関係者は今後、この法令を速やかに可決し、社会的損失を最小限に抑えたいとコメントしています……」

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最後の客 酢烏 @vinecrow

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