手紙

増田朋美

手紙

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やっと、冬らしいというか、寒々しい気候になってきた。最近は季節が動くのがちょっと遅くなったというか、時期がずれているような気がする。其れのせいで体調を崩す人も少なくない。最も、杉ちゃんなどは体調がすぐれないということはなく、相変わらずのんびり過ごしている。そういう風に、いつでもどこでも、明るく朗らかで、のんびりしている人が、健康というのかもしれなかった。単に、体に故障部分がないという事だけではなく、いつでもどこでもにこやかでいられること、これこそ究極の健康と言えるのかもしれなかった。

その日、杉ちゃんと蘭は、久保田美一さんの誘いで、ある染色クラブの展示会を見に行くことになっていた。杉ちゃんは、寒いなと思ったのか、箪笥の中から二重廻しを出した。そんな大掛かりなものを出さずに、羽織を着ていけばいいと蘭は思うのだが、杉ちゃんという人は、いつでもどこでも着流しで、羽織をけっして着用しないのが通例なのである。まったく、変な奴だと蘭は思うのであるが、そういう話は聞かないのが杉ちゃんだった。

「こんにちは。お迎えに上がりました。」

と、玄関のインターフォンがなって、久保田さんが、タクシーに乗ってやってきた。

「はあい、今行きますよう。」

杉ちゃんたちが運転手に手伝って貰ってタクシーに乗り込んでいる間、久保田さんは、にこやかに笑っている。蘭は、自分のしたことは、間違いではないとおもった。さすがに、彼の背中を預かることは一寸できないと思ったけれど、その代わり、胡琴を習ってみてはどうか、と久保田さんに持ち掛けたのである。あの小さな楽器を、習うようになってから、久保田さんは実に生き生きとして、笑顔が増えたような気がする。楽器をならってみたいという思いがかなって、何か持っていたものを手放すことができたのだろう。週に一回、必ず胡琴の稽古にいっている。最近は、胡琴をほかの楽器と合奏するというような、そんなイベントにも参加しているようだ。

「じゃあ、運転手さん。えーと、市民会館で下ろしてください。」

と運転手さんに明るい声でいう久保田さんの態度を見て、蘭はそれでよかったんだとほっとため息を

ついた。

15分位走って、市民会館に到着した。今日は休日ということも在ってお客さんは結構集まっている。

「今日の展示会はですね。心の悩みを抱えた人たちが、治療のために制作した絵画や彫刻などの展示会なんですよ。」

と、久保田さんが説明する。展示室の入り口には、西薄塚学校と書かれた看板が置いてあった。近くの台にその施設を紹介するパンフレットが置かれている。蘭はそれを手に取って読んでみた。やっていることは、製鉄所と近いものがあるようであるが、問題を抱えた子どもたちを社会へ戻すための施設というイメージを打ち出しているようである。展示室に入ってみると、様々な絵が置かれているが、単なる写実的な絵だけではなく、心の内面を描いた、いわゆる抽象画というものも、置かれていた。中には、一寸グロテスクな色使いをしてる絵もある。其れはきっと、問題が大きいというか、医学的に言ったら症状が重いんだろうなと思われる人が描いた絵だということが分かった。

三人は、一枚の絵の前で止まった。荒れた海の波打ち際をスケッチしたものだと思われるが、一寸色使いが派手すぎる。杉ちゃんと久保田さんは、ブラマンクみたいと感想を言ったが、蘭はこの絵を描いた人物は相当病んでいるんだろうな、と思って、一寸可愛そうになった。

「あの、そんなに熱心に私の絵を見てくださったですか?」

蘭がその絵を眺めていると、一人の若い女性が蘭に近づいてきた。

「は?あの、あなたは?」

と蘭が聞くと、

「はい、西薄塚学校の、杉村美樹と申します。」

と、女性は答えた。

「ということは、この絵を描いたのは、」

「ええ、私です。」

と、彼女はにこやかに笑った。

「ああ、そうですか。あの、ずいぶん色遣いが独特だから、思わず見入ってしまいました。」

蘭がそういうと、彼女はにこやかに笑った。

「ありがとうございます。私の絵を、そういう風にほめてくださるのは、とてもうれしいです。私の絵は、いつも変な絵だと言われて、私、自信を無くしておりました。もうちょっと、詳しい感想をお伺いしてもよろしいですか?」

「そうなんですね、確かに、波打ち際を描写しているのはとても良いと思いますよ。ただ、僕の立場から見ると、色が一寸派手かなという印象があります。今度絵をかくときは、もうちょっと優しい気持ちになって、描いた方が良いですよ。そのほうがもっと良い絵が描けると思います。」

蘭は、彼女に言われた通り、感想を述べた。美術学校を出た人間らしく専門的に言った。

「ありがとうございます。とてもうれしいです。」

感想を言われた彼女は、そうにこやかに笑った。すると、周りのひとが、はあ、これは珍しいという顔をしてみている。何だろうと蘭は思ったが、彼女を傷つけたらいけないかなと思い、其れは言わないで置いた。

「あの、また展示会が開かれたら、私の絵を見に来てくれますか?私、今の言葉を絶対に忘れません。これからももっと、すごい絵をかけるように、頑張りますから。」

という彼女に、蘭は、たぶん社交辞令でそういったのだと思って、ああ、分かりましたと言って、とりあえずその場を離れた。そのほかにも絵や彫刻などを展示してあったが、彼女の絵のようなきつい色調をしている絵はなく、一般的な風景画とか、人物画ばかりで展示会は終わった。

その展示会に言った事も蘭は、すぐに忘れてしまったのであるが、ある日、久保田さんが、蘭を訪ねてきた。

「どうしたんですか、何かあったんですか。」

蘭は久保田さんに聞くと、久保田さんは、

「いやいや、大したことはありません。ただ、美樹ちゃんが、先生にお手紙を出したいと言いましてね。住所を知らなかったので、僕が先生にお渡ししようということになりました。」

と、カバンの中から、一枚の茶封筒を取り出した。

「美樹ちゃん?」

と、蘭が言うと、

「ああ、杉村美樹ちゃんです。あの展示会で、海の絵を描いた女性ですよ。彼女、先生からほめてもらったことを、すごく喜んでいましてね。どうしても手紙をお送りしたいって、僕に話して聞かなかったものですから。」

と、久保田さんは言った。そうか、そういえば、久保田さんは西薄塚学校で、生徒さんの話し相手になることを、ボランティアとして参加していたことを、蘭はやっと思い出す。その伝で、蘭も杉ちゃんも、あの時の展示会にいったのだった。

「ああ、そうですか。ありがとうございます。そんなに僕のアドバイスが、良かったとは思いませんが、役に立てたのならうれしいです。」

蘭は、久保田さんからそれを受け取った。ものすごく丁寧な字で、伊能蘭先生へと書いてある。決してうまい字というわけではないのだが、丁寧に、心を込めて描いたものだろう思われた。

「それでですね、先生も、お忙しいとは思いますが、彼女にお返事を書いていただけるとありがたいなと思うんですけどね。お願いできませんか。」

と、久保田さんがいうと、蘭は、ああわかりました、近いうちに書いておきます、とだけ言っておいた。

それにしても、社交辞令で描いたという手紙ではなさそうだ。こんなに丁寧な字で書いてくるなんて、相当、思いいれが強いのだろう。久保田さんが、蘭の家から帰っていくのを確認して、蘭は封を切って手紙を読んでみた。

「前略、伊能先生、お元気でいらっしゃいますでしょうか。先生のお名前は、久保田さんから聞きました。この間、私の絵をほめてくださってありがとうございました。私は、高校の時に心を病んでしまって、それ以降、この施設で暮らしていたのですが、私のことをほめてくれる人は、誰もいませんでした。でも、先生が、絵をほめてくださって、なんだか私のことをほめてくれる人が、まだいてくれたんだって気がして、又絵の勉強をしようという気になりました。皆、私のことを、のろまとか、馬鹿とかそういうことを言って、ダメな人扱いする事が多いですが、気にしないでやっていこうって、思えるようになって、良かったです。ありがとうございました。かしこ、杉村美樹。」

ずいぶんありきたりの言葉でつづられている手紙であるけれど、蘭は、自分の言った一言が、彼女をそんなにも勇気づけたのか、と思ってうれしくなった。これは、返事を書かなければならないなと思って、机に向かって便箋を取り出したけど、ちょうどその時、彼のスマートフォンがなる。刺青を予約するお客さんからの電話だった。その人との応対で、手紙を書くことを忘れてしまった。

それからさらに数日たって、蘭が何気なしにテレビを付けたところ、

「きょう未明、百貨店の屋上から、女性が飛び降りるという事故がありました。飛び降りた女性は、富士市長通の無職、杉村美樹さんと見られ、警察は自殺の可能性があるとして、原因を調べています。」

というニュースが舞い込んできたので大変びっくりする。蘭は急いで、スマートフォンをとって、久保田さんに電話をかけた。

「あ、あの、僕です。先ほど、ニュースで、杉村美樹さんが飛び降りたと報道があったのですが。」

と、蘭が急いでいうと、

「ええ、知っています。いま病院にいます。」

と、久保田さんの声が聞こえる。どこの病院か尋ねると、富士整形外科だった。確かに大けがをすれば、一度や二度はお世話になると言われる権威のある整形外科である。

「彼女はどうしていますか?」

と蘭が言うと、

「はい。とりあえず、命に別状はないということだけはわかりました。其れははっきりしています。でも、経過がよくなくて、後遺症が残ることは避けられないとの事です。」

と、久保田さんはそういっているのだった。

「よかった。命に別状はないのなら、それでよかったです。」

と、蘭は思わずそういってしまったが、久保田さんはこんな事を言いだした。

「そうですかねえ。僕も経験したことあるからわかるんですけど、自殺を図ったあと、どうやって命のありがたさを伝えればいいのか。其れが一番の課題なんじゃないでしょうか。」

「そんなこと、身を持っていればわかる事じゃないですか。命が助かったんですから、それを繰りかえし伝えていくべきでは?」

蘭がいうと、久保田さんは、

「そうですねえ。蘭先生も、一度や二度は思ったことあるんじゃありませんか。先生も、歩けなくなって、死んだほうがよかったなと思ったことは?」

ということを言いだした。

「何を言っているんですか。そんなこと、一回も思ったことはありませんよ。確かに、歩けないということは、周りのひとに比べて不自由だったかもしれないですけどね。歩けなくなったからと言って、生きるのを放棄する理由にはなりません。」

「そうですか。先生は、お幸せな方なんですな。歩けなくなって、一度や二度は、死にたいと思うのが当たり前のようなところがあるのに、そんなことを思わなかったなんて。」

久保田さんのいっていることは蘭には理解できなかった。蘭は、確かに車いすに乗って生活しているけれど、自分のことを、歩けなくなって不幸だと感じたことは一度もなかった。ドイツで過ごしていた時も、こちらに帰ってきてからも。

「当たり前って、そんなこと、思ったことは一度もありません。」

蘭が改めてそういうと、

「先生は、確か、ドイツの美術学校を卒業されたと、ほかの方から聞きました。確かにドイツは、福祉が盛んで、障害があっても引け目をとらせない教育も盛んにおこなわれていますし、国民は寛大な人が多いですからね。そんなところで思春期を過ごされているんじゃ、障害を負った悲しみというのは理解できないかもしれませんね。」

と、久保田さんは言った。何だか、美樹ちゃんの事が心配になって電話をしたのに、久保田さんと思想対決になってしまいそうな気がした。

「まあ、先生には、そういうところはわからないかもしれませんね。其れはしょうがないことですから、其れでいいことにしておきましょう。じゃあ先生、切りますよ。」

そういって久保田さんは、電話を切ってしまった。蘭は、どうしてそんなことという気持ちになりながら、スマートフォンを置いた。机の上に、美樹さんが送ってきた手紙はまだあった。あんな丁寧に手紙をよこしておきながら、なぜ彼女は簡単に自分の命を絶ってしまうようなことをしたのか。それに、これから、後遺症を残して生きていかなければならないなんて。蘭は、何ともやるせない気持ちになった。

同時に、インターフォンがなった。

「おーい、蘭。そろそろ買い物に行く時間だよ!」

杉ちゃんだ。なんでこんなに明るい声をしていられるんだろうか。蘭は、何だか応答する気持ちになれなくて、そのままぼんやりとしていると、

「おい!蘭!」

といきなりでかい声で言われてびっくりする。見ると、杉ちゃんは、すでに蘭の近くに来てしまっていた。いつもなら、許可なく人のうちへ入るなと注意したかったが、今日はできなかった。

「どうしたの?そんなに落ち込んじゃって。何か嫌なことでもあったかい?」

と杉ちゃんが聞く。

「ああ、ごめん。買い物に行くんだっけね。」

蘭は無理してそういうと、

「いや、まだ答えを聞いていない。答えを聞かなければ、次の課題へはいけない。」

杉ちゃんの悪い癖がまた出てきた。杉ちゃんという人は、とにかく答えが出ないと、行動を変えない人であるから。

「そうだねえ。杉ちゃんテレビのニュース見た?あの、杉村美樹という人が、飛び降りたという。」蘭は、そういったが、杉ちゃんの家にはテレビがないのを思い出し、言わなきゃよかったと後悔の気持ちになった。

「そうか。じゃあ、蘭は、彼女の事が心配で、其れで僕が呼んでも返事をしなかったのか。」

杉ちゃんは、一人勝手に結論を出している。

「で、彼女はどうしたの?」

「ああ、いま病院にいるんだって。富士整形にいるらしいが、なんでも、飛び降りた時の後遺症が残ってしまうらしくて、、、。」

と蘭は、一寸悔しそうに言った。そんなこと言っても、何も変わりようがないのであるはずなんだけど。

「じゃあ、会いに行くか。」

と、杉ちゃんは単純に言った。

「会いに行くかって、そんなこと言っていいものだろうか。」

と、蘭が言うと、

「だって、お前さんの顔にそう書いてあるよ。会いに行きたいってな。それなら、実行しちまったほうが絶対いいってもんだろう。」

と、杉ちゃんは言った。そうか、そうした方が良いのか。杉ちゃんになんでも見透かされてしまったような気がした蘭は、うんわかったよ、と度胸を据えて、タクシー会社に電話した。運転手に富士整形外科病院にいってもらうように頼む。運転手は、はい、わかりました、と手早く二人をタクシーに乗せて、病院まで連れて行ってくれた。

病院に到着して、杉村美樹さんはどこにいるんだと受付に聞くと、受付はいいタイミングで来てくれたという顔をする。そして、すぐに行ってください、美樹さんは精神状態が良くなくて困っているんです、という。蘭と杉ちゃんは、言われた通り、杉村美樹がいる病室にいった。もう意識が戻っているので、一般病棟に移っているようであるが、困った患者の一人になっているらしい。すれ違った看護師が、本当にあの女性は、直ぐ死にたかったというから困ると話していたのを、蘭は耳にしてしまったからである。

「あの、杉村美樹さんですね。僕を覚えていますか?あの時の美術展で話をした伊能蘭です。」

と、蘭は、病室に入りながらそういった。杉村美樹は、枕に顔をうずめて泣いている。

「あたし、死んでおけばよかったんです。こんな事になるのなら。なんで、死にきれなかったんだろう。だってあたしは、死ぬために飛び降りたのに。」

確かに、彼女の答えは今そうなのかもしれない。でも、彼女には命がある。それをわかってもらいたかった。

「そうかもしれないですけど、助かったのは、やっぱり生きろと言ってるんだと、僕は思うんです。多少、不自由な体になってしまうかもしれないけど、医療従事者の方が、こうして助けてくださったことに感謝しなきゃ。そしてこれからも、生きていこうと思わないと。」

と蘭はそういうが、美樹は、

「私なんて、何も価値がない人間です。だから生きていても意味はないと思います。」

という。蘭は、

「そうでしょうか。あなたはこの間の美術展で、あんな素晴らしい絵を描いたじゃないですか。それは誰にでもまねできることじゃありませんよ。だから、これからも絵を描き続けてほしいです。」

と彼女に言った。でも彼女は、

「あの絵が描けたのは、あの施設にいたからでしょ。私は、施設の援助がなければ、何もできない人間なんですよ。其れで、まだ生きろというんですか。そんなのあんまりです。」

という。まるで、あの時の、手紙をくれた時の彼女とは真逆の人間がそこにいるようだ。でも、この人は、同一人物であることを、蘭はちゃんと伝えたいと思った。

「いいえ、あなたは、素晴らしい絵を描かれるじゃないですか。ああいう個性的な絵を描かれるんだもの、すごい才能があるってことになりますよ。だから、まだあきらめちゃいけない。」

と蘭は言ったのであるが、美樹はそんなこと、と涙をこぼして泣いたのだった。

「でも、もう私は、歩けないし、絵を描きたいなんてそんな気持ちには到底なれない。」

返答に困っている蘭に、いきなり杉ちゃんが口をはさんだ。

「手紙を書きな。蘭のやつ、お前さんに手紙貰って、すごく喜んでいたんだぞ。」

蘭はいきなり杉ちゃん何を言いだすんだと思ったが、杉ちゃんはさらに続けてこういうのであった。

「お前さんの丁寧な手紙、蘭はすごく喜んでたし、手紙を渡した、久保田さんだってすごく嬉しそうだった。その喜びをお前さんは全部砂に変えようとしていることを忘れるな!」

美樹は、再び泣き出した。蘭は、そんな彼女に何か生きがいが見つかってくれれば、また違ってくるのだろうなとおもった。でも悲しいかな、施設で暮らしている彼女に、そういうものは見つからないと思われた。でも、蘭はそういう彼女でも、生きてほしいと思った。

「いくら、他人の手を借りなければ生きられないあなたであっても、きっと何かあるはずです。生きてくれませんか。」

「そうそう。多かれ少なかれ、完全に世の中から断ち切られた人間などいないさ!」

蘭がそういうと、杉ちゃんも付け加えた。結論から言えばそういうことだった。ただ、彼女が気が付いていないだけだ。社会から、分断された人間などどこにいるだろうか。

彼女は、さらに涙をこぼして泣き続けた。



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手紙 増田朋美 @masubuchi4996

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