悪路の丘

小紫-こむらさきー

悪路

「死んでやる!」


「そう」


 いつものやりとり。

 代わり映えのない日常。

 心の弱い人間はいつもそうだ。こうやって自分の命を盾にしてこちらを脅迫してくる。

 僕は知っている。

 野生動物に餌付けをすれば、人間に近寄って来るようになるのと同じだ。

 心の弱い人間に同情や心配をして要求を呑めば、彼女たちは自分の命の安全は、相手を操作するための強力な武器だと学んでしまう。


「本気なんだからね」


 彼女が、手にしているカミソリを手に当てる。

 手首からは僅かに血が流れる。

 それでは死に至るような怪我を今すぐ出来るわけじゃない。

 いい加減に呆れてしまって、僕の唇から吐息が漏れる。


「な、馬鹿にしないでよ! いつもそうやって真弥しんやは他人事みたいにして……私のことはどうだっていいんでしょ」


「他人事もなにも、僕たちは他人だろ?」


「好きだって言ってくれたのは嘘だったの? 付き合ってるんだよね? 私たち」


 母さんを思い出す。

 僕が気に入らないことを言うと、あの人もこうしてみっともなく泣きながらキッチンへ走って行ったっけ。

 母さんは、包丁を自分に突きつけるのをよく好んだ。

 狭い世界で、親しか頼ることを知らなかった幼い僕は、必死になって母さんに謝ったっけ。


「……好きだっよ。でも、この前言ったはずだよね。僕は、自分の命を盾にして脅迫をしてくるような子は好きじゃないって」


「やだ! 聞きたくない! それ以上酷いことをいうなら本当に死んじゃうんだから」


 思春期になって、母さんの脅迫を拒否することを覚えた。

 母さんは、それなら一緒に死のうと包丁をこちらへ向けてくる。だから、それを無視して僕はいつも家を飛び出すんだ。

 この子の方が、まだ平和かもしれない。でも、結局こうやって自分の命だけを取り引きのテーブルに上げるのは最初だけだっていうことを僕はよく知っている。

 何度も何度も言われる「次はちゃんと直すから」を聞いていると、最終的に彼女たちはいつだって僕の命をも取り引きのテーブルに載せようとするんだ。


「そう。じゃあ、さようなら」


 具体的な条件の模索もしないで、その場しのぎで言われる「直すから」も「絶対にしないから」も、無意味だ。

 本人には守るつもりも直すつもりもない。

 だから、僕は彼女たちが錯乱している間に部屋を出る。


「私には真弥しんやしかいないのに……ひどいよ」


 金属製の扉がバタンと閉まる。鍵を閉めて、僕はポストに合鍵を放り込んだ。

 きっと数週間もすれば、彼女にはまた「あなたのためなら死ねる」し「お前のせいだ死んでやる」と言える愛しい恋人が出来るのだろう。


 半年ほど前に勝手に転がり込んだ身だ。出て行くのも簡単だった。

 身分証と幾ばくかの現金は持っている。服なんてまた買えば良い。どうせあの子が勝手に買ってきた服だ。

 寒すぎて少しだけ痛む手先を温めるためにポケットへ手を入れた。

 白い吐息が目に入り、薄着で出てきてしまったことを少しだけ後悔しながら、駅へ向かって歩く。


 もうすっかり夜も更けている。バスもないし、自転車も駅まで行って乗り捨てるのは、迷惑になってしまうだろうからやめておく。

 急なカーブが続くこの道は、事故が起きやすくて車通りも少ないし、最終バスの時間も早い。

 途中のコンビニで温かい飲み物でも買って寒さを紛らわせよう。仕事バイトは……辞める連絡をしておかなきゃな。彼女……いや、もう元彼女か。

 あの子がどうせ押しかけてくるんだろう。迷惑をかけてしまうのは心苦しいが、何度も突撃されるよりはマシなはずだ。


 もう一度溜息を吐く。

 時折、ヘッドライトが道を照らして車が数台通る。静かな夜だった。

 空は重そうな雲が蓋をしていて、雪でも降ってきそうな天気をしている。


「死んでやる……か」


 誰に言うでも無く、ぽつりと漏らす。

 寒くて、暗い中をしばらく歩き続けて、温かい灯りを見たから気が緩んだのかもしれない。

 口にしてみても、勇気がわいてくるだとか、行動する気力がわいてくるわけでもない。

 逆に、絶望するわけでも、惨めになるわけでも無かった。

 本当に、何も起きない。彼女たちは……そして母さんは、どんな気持ちでこんなくだらない言葉を何度も何度も吐き出すのだろう。


「はは……」


 乾いた笑いが口から零れる。

 冷たくて乾いた空気を急に吸い込んだので思わず咳き込んだ。

 コンビニの前で立ち止まり、咳き込んでいると急に腕を掴まれて後ろへ引っ張られた。


「君、大丈夫?」


 掴まれた腕を振りほどいて、咄嗟に声の主を睨み付ける。

 声を聞いて、あの子ではないとわかっていたけれど、焦りを誤魔化すように湧いた怒りの表情は消えなくて、気まずい沈黙が僕と見知らぬ女性の間に流れる。

 黒くて艶のあるウェービーな髪は、後頭部の低い位置でひとつにまとめられている。

 両耳にぶらさがる大きな金色のイヤリング。白いカットソーに黒いダウンジャケットと黒とグレーのカモフラ柄をしたカーゴパンツ。

 僕が関わらないタイプの人間だ。

 急に声をかけてきた女性の目は赤みを帯びた褐色で、蛍光灯の下でも綺麗に光っている。

 数秒だけとはいえ、見つめ合ってしまったことに気が付いて、僕は彼女に背中を向けてコンビニの中へ入ろうとした。


「ね、大丈夫って聞いたんだけど!」


 大きな声を出されて、僕は開いた自動ドアから仕方なく離れる。再び彼女の方を振り向いた。

 やけにキラキラした瞳で見つめられて、なんだか居心地が悪い。胸がそわそわする。

 めんどくさい。だから、うんざりだという気持ちを隠さないまま彼女に言葉を返す。


「……なんなんですか。急に腕を掴んできたり、話しかけてきたり。おねえさん、逆ナンってやつですか?」


 無礼に返せば、善意から行動をしてくるお節介な人間はムッとするか、気まずそうな顔をしてそそくさと離れていく。

 一人でいる時に、進んで手を差し伸べてくるやつなんて大抵がろくでもないやつだ。

 さっさとどこかへ行ってくれ。僕はあんたが思っているような可哀想なやつじゃない。


「んー! じゃあ逆ナンでいいや。それで、君、大丈夫?」


「は?」


 平気な顔でにっこりと笑顔を返してきた彼女に、僕は間抜けな声を出してしまった。

 彼女が差し出してきた手元を見て見ると、温かいお茶のペットボトルが握られている。


「唇、真っ青だよ。それに、カットソー一枚じゃ、めちゃくちゃ寒いでしょ? ほら、これ、お近づきの印に」


「はあ……」


 妙に人懐っこくて、憎めない、綺麗な顔立ちをした人だった。

 彼女を見ていると、なんとなく、ラブラドールレトリバーが頭の中に思い浮かぶ。

 未開封の小さなペットボトルをなし崩し的に受け取り、僕は彼女に言われるがまま駐車所の車止めの上に腰を下ろした。

 お茶を持っていると、指先がじんじんと熱くなる。黒い大きなボックスカーに一度戻った彼女は、大きめの黒いスポーツ用ジャケットを持ってきて僕に手渡した。


「すごい薄着だったし、寒そうだったし、咳き込んでたから、お姉さん心配しちゃった」


 お茶を啜る手を止めて、ありがたくスポーツ用ジャケットを羽織る。ふわっとムスクの匂いがして、この人の彼氏か誰かが身に付けていたものかな? なんて考えながら、ちゃっかりと隣に腰を下ろした彼女の横

顔を見る。

 寒さのせいかほんのりと、彼女の鼻が赤くなっている。


「そんなに年も離れてるようにも見えないけど」


「そう? わたしもまだ若く見えるってことかなー」


 明るい声を出す彼女は、さっきまでと違って僕の顔を見ようとしない。

 少しだけ、人間に期待してしまった自分に後悔する。この人もきっと興味本位で……それこそ通りすがりの野良猫にたまたま持っていた餌をあげるような、そんな感じで僕に近付いて来たに違いない。

 わざと大きな溜息を吐きながら、僕は彼女の横顔を睨む。


「聞いてたんですか?」


「ん?」


 とぼけた声。はぐらかしたい声。気持ち悪い。

 死にたいという言葉に振り回されて、簡単に手を差し伸べるようなやつが僕は一番嫌いだ。

 死ぬのを一度だけ邪魔して、いいことをしたつもりになって満足げに「もう、そんなこと考えるなよ」と知ったげなことを言って離れていく自分勝手なやつのせいで、死にたいと言えば誰かに構ってもらえると学習してしまった憐れな生き物たちがたくさん生まれるんだ。


「死にたいって言ってたのを……です」


「ああー。そう……聞いちゃってて、それで、声をかけたんだけど」


 スッと引き締まった小鼻を、細い指で掻きながら彼女は気まずそうに僕の顔を見た。

 街灯がチカチカと点滅して、彼女の薄くて整った唇から漏れた白い息がゆっくりと消えていく。

 お茶を一飲みして「あなたの勘違いです」そう言おうとした。


「一緒に、死にませんか?」


 その言葉を発した彼女の顔があまりにも綺麗な笑顔だったから、僕は口に含んだお茶を飲むのも忘れて目の前の自死希望者の顔を見る。

 薄く整った唇から僅かに見える犬歯が、とてもチャーミングだなとか、眉尻を短めにして整えられた眉毛が似合っているな……なんて現実逃避にも似たことを考えていると、彼女が首を傾げた。

 すぅっと息を吸う音が聞こえて、彼女の唇が言葉を紡ぐ。

 次は耳を澄まして、聞き間違えがないように。僕は常温になったお茶を飲み込みながら耳を澄ます。


「いっしょに、死にませんか?」


 ああ、もう一度聞いてもやっぱり変わらない。

 少しだけ不安そうに眉尻を下げて、僕の瞳を覗き込むように体を近付けてきた。

 伸ばされた手が、僕の二の腕を掴む。僅かに力が入れられた彼女の指先が少し震えている。


「これは、初めての経験だな」


 どうしようもなくて、噴き出してしまう。それから、込み上げてくる笑いが止まらなかった。

 今度は、彼女の方が戸惑った表情を浮かべている。


「てっきり、僕が死ぬと勘違いして、止めようと思ってるのかと思ったらまさか、心中を誘われるなんて」


「勘違い? え?」


「そう、勘違い。僕は今さっき元カノに言われたことを思い出して復唱していただけ」


 目尻に浮かんだ涙を指で拭っていると、彼女は掴んでいた僕の二の腕から手を離す。

 気まずそうに前を向いて、俯いて指を組む彼女に僕は手を伸ばした。

 綺麗に波打った髪に触れて、そっと指を滑らせる。


「死んでやる……なんて言葉で好きだとか大切だって言った相手を振り回すのはどんな気分なのかなと、つい口にしてみただけなんだけどさ」


 そっと髪をまとめているゴムを取って、冷たい髪に手ぐしを通した。

 抵抗の一つもしないまま、彼女は綺麗な赤褐色の瞳を僕へ向けてくる。


「それで死にたくなったりは、しなかった?」


 小首を傾げたまま、僕に撫でられている彼女は、自分でお姉さんと言うくらいなのでおそらく年上なのだろうが、とてもそうは見えない。


「もちろん。勇気が生まれてくるわけでも、行動する気力が湧いてくるわけでもない。絶望するわけでも、惨めになるわけでもなかった」


 不躾に髪を撫でる僕を窘めるわけでもなく、彼女はされるがままになっている。

 アテが外れたのがよほどショックだったのだろうか。

 一緒に死ぬ相手を探しているというのに、緊張感に欠けた彼女の目を見つめる。

 淀むこと無く、キラキラとした透き通った虹彩。


「でも」


「でも?」


 身を乗り出して、期待に満ちた表情をした彼女の頬に、先ほど離した手で触れた。

 彼女からもらったお茶の温かさが、まだ僕の手に残っている。

 まるで……さっきもらった熱を返しているみたいだ。


「一緒に死のうは……流石に驚きはしました」


「でも……普通、死んでやるーって方が、驚かない?」


「慣れているので」


「慣れてるって……それはそれですごいと思うけど」


 吹き出した彼女は、自分の頬に触れている僕の手を取る。

 長い間、外で並んでいたお陰で、最初は温かかったはずの彼女の手はすっかりと冷えていた。

 笑うとうっすらとえくぼが見える彼女の顔を見ていると、横を向いている彼女の顎があがった。

 それに釣られて、僕も空を仰ぐ。


 空からは、ふわふわとした雪が舞い落ちてきたところだった。


「先週ね、お兄ちゃんが死んじゃったんだ」


 ぽつりぽつりと、彼女は話し始めた。

 空を見上げたままの彼女の顔には、落ちてきた雪が落ちて解けていく。


「パパもママも早くに病気で死んじゃって……ずっと二人で育ってきたから、なんか、気が抜けちゃって……。お葬式も終わって、納骨も終わって、一人で部屋にいたら、どうしたらいいかわからなくなって」


 可哀想なやつが、私は可哀想だと話すことなんて聞く価値なんてないと思ってた。

 いつもなら、どんなに好きだった恋人でも自分語りを始めた時点で立ち上がってその場を去る。そんな選択肢をとってもおかしくない。


「そうだ、お兄ちゃんに会いに行こう。そう思ったんだ。でも、一人じゃ不安で……お茶を買って車に戻って、練炭? ってやつで自殺しようと思ったんだけど、コンビニから出たところできれいな顔をした男の子が死んでやるって言ってたから……つい」


 きれいな顔をした男の子……という言葉に、思わず目を見開いて、僕は自分のことを指差してみた。

 彼女は一瞬驚いたような顔をして、それから照れくさそうに笑って顔を俯かせる。

 どこまでも、呑気な人だなあと思うと共に、そんな呑気な彼女が死のうと思うまで思い詰めるのは、とんでもない異常事態だと察することが出来てしまい、胸が痛む。

 人が死のうとすることに、まだ胸なんて痛められるのかと頭の片隅で思いながら、スンっと鼻を鳴らす彼女の手を、今度は僕から握った。


「僕は……自殺をすることを悪いと思ったことはないですし、あなたがどうしても死にたいのなら止めるつもりはありません」


 僕の手も冷たい。けれど、手を握っていなければ、こんなことは言えない気がした。

 ぎゅっと軽く力を込めると、不思議そうな表情をしながら、彼女は僕の顔を見つめてくる。


「でも、さっき知り合ったばかりの僕でもわかります。名前も知らない僕が言うのもおかしなことなんでしょうが……あなたは今、混乱してちょっと暴走しているだけだと思うんですよ」


 自殺を仄めかす恋人相手に冷淡な態度を取ったどの口が言うんだと、もう一人の僕が叫んでいる。

 寒いはずなのに耳が熱くなる。

 彼女の髪は、降ってくる雪が積もり始めた。喉が熱い。言葉が詰まる。


「どうしても死にたいのなら、一緒に死にましょう。でも」


 ええい、言ってしまえ。どうせ行く宛てもなかったし、アルバイトもやめて心機一転しなきゃいけなかったんだ。

 よく知らない相手の家に転がり込むのだって初めてじゃない。


「とりあえず、数日、待ってみませんか? 僕、ちょうど家を探そうと思っていたんですよ。身分証なら持ってます。仕事バイトも、なるべく早く探しますから」


 声が震える。僕は、うまく平静を保てているだろうか。

 どうしても放っておけなかった。このキラキラとした赤褐色の瞳を見てから、僕は少しおかしくなってしまったのかもしれない。

 寒くて、雪も降っているし、本能的に生き延びたくて、少々感傷的になっているのかもしれない。


「一緒に……死んでくれるの?」


 幼い子供のように、彼女はたどたどしい言葉で僕の言葉を繰り返した。


「はい。明日以降に、あなたが死にたくなったら……ですが」


 手を握る力を強める。視界の隅で人が動いた。長い間、雪が降る中で傘も差さずに話し込んでいたら流石に怪しまれるか。

 通報されても面倒だし、とにかく温かいところへ行こう。

 もし、彼女が正気に戻って僕の申し出を断ったとしても、その車で駅までは送ってくれるくらいのことはしてくれるだろう。


 僕が立ち上がろうとすると、グイッと手を引かれて、僕は車止めの上に尻餅をついた。


「わかった。よろしくね……えっと」


 一緒に死のう、そういったときの同じ笑顔だった。調子が狂う。

 というか、本当に、わかってるのかな。

 僕も自分で言ったときはわかってなかったけど、受け取りようによってはプロボーズみたいなことを言ってしまったんだけど。

 ……まあ、わかっていなくてもいいか。とりあえず、今は。

 一緒に死のうと約束した相手の手を引いて立ち上がる。

 車の扉を開いて、僕は助手席へ、彼女は運転席へ乗り込んだ。


 一緒に死ぬことを決めた僕たちは、車に乗って走り始める。

 雪が降る強さを増してきた。

 窓に小さな氷の礫が当たる音がする。風が強まってきたからか視界が悪い。


「僕は、真弥しんやです。真実の真に、弥生時代の弥。おねえさんは?」


「私の名前はね……」


 彼女がそう言って、僕の顔を見るために視線を横へ向ける。

 前から迫ってくるやけに明るい光が、僕たちを照らした。

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悪路の丘 小紫-こむらさきー @violetsnake206

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