第47節 -虹の彼方へ-
上空に渦巻く禍々しい赤い光の周囲を雷光が絶え間なく駆け巡る。
ペイニオットで奇跡の観測を行うジョシュアとルーカスは第五の奇跡とは比較にならない規模の大きさに戸惑いを隠しきれずにいた。
「島の周辺状況は以前と変わりありませんが、今回の奇跡で初観測されている上空の赤い渦から高エネルギー反応を確認。発生した雷によるショートバーストを観測、周囲で陽電子の対消滅も多数観測されています。前回の奇跡よりも磁場の乱れも強い。エネルギー総量は桁違いです。トリニティとプロヴィデンスの接続も今のところは確保されていますが、これもいつまでもつか未知数です。」トリニティから送られてくるデータをルーカスが読み上げる。
「トリニティの高度を下げつつ群衆が集まるポイントから遠く離れた位置に移動させるんだ。万一のことがある。そして彼女の掲げている腕。あれが振り下ろされたときに神罰という名の雷撃を見舞うという意味合いか。であるなら僅かな時間も無い。」ジョシュアはトリニティによる観測にもはやそれほど意味が無いと判断し、地上にいる人々の安全の為にすぐに退避運動をさせるようルーカスへ指示を出す。
「ルーカス、ナン・マドールの3人の様子は把握できるか?」
「いえ、相変わらず通信が拾うのはノイズばかりです。互いの信号を捉えることすら出来ません。」
「彼女の言葉に追随するわけではないが、もはや祈るしかないというところだな。」
目の前で次々と巻き起こる想像を超えた現象を見てジョシュアは不安を伴った声で言った。
「そんな心配そうな顔をして、隊長らしくもない。大丈夫ですよ、イベリスなら出来ます。すぐ傍に玲那斗もフロリアンもいる。」
「そうだな。」こんな時でも陽気さを忘れず、仲間を信じて疑わないルーカスにジョシュアは心が救われるような気持ちだった。
リナリアの調査時もそうだったが、隊員の命を預かる身としてはこのような状況は好ましくはない。
傍にいるルーカスは元より、玲那斗、フロリアン、そしてイベリス。自身の目の届かない場所にいる3人が無事に任務を遂行して戻ってきてくれることを願うしかない。
ジョシュアは振り上げた手を一時的に止めたまま動かずにいるアヤメを見てそう思っていた。
しかし、その時だった。動きを止めていたアヤメが天に掲げた右腕を一気に振り下ろす。
それと同時に目の眩むような光が周囲一帯を覆う。地上での時が止まったかと錯覚するほどに恐ろしく静かな瞬間だった。
ジョシュアとルーカスのすぐ近くにも雷撃が降り注ぐ。
雷光による光が収まるとすぐに耳をつんざくような轟音が響き渡る。群衆の悲鳴すらかき消す轟きだ。
その地響きのような音とは別に近くに不時着していたヘリコプターが火花を散らして機体を激しく揺らしながら傾いた。
ローターヘッドを直撃した雷の電流はスタビライザーバーから一気に放電をしつつ、ローターの根元からプロペラを吹き飛ばし火花を散らす。
間一髪。間違いなく大統領を狙った雷は目標を逸れてすぐ近くのヘリに直撃したのだった。
「大統領は!?」光に眩んだ眼を開きながらジョシュアは叫ぶ。しかし、自分達の目の前に大統領は毅然とした様子で立ったままだった。
「案ずるな、健在だ。しかし、これが終わりではなく今のが始まりなのだろう。すぐに次が来る。」振り返ること無く大統領は答えた。
「安全な場所に退避を!遮蔽物の無い平野は危険です!」ルーカスが下がるように促す。
「必要ない。彼女の奇跡に場所など関係ないのだ。たとえそれが大統領府であろうと、地下であろうともな。だから私はここに立つ。彼女の目の届く場所に立って彼女の奇跡を見届ける。そう決めたからこそ、ここに立っている。」
彼の言葉にジョシュアもルーカスも何も言えなかった。
どこにいても穿たれる。おそらくそれは間違っていない。安全だと思われる場所に大統領の身柄を移そうともアヤメの巻き起こす奇跡の雷撃から逃れる術は無いだろう。イベリスが奇跡の停止を行うことだけが彼の助かる道だ。
大統領の近くに立つウォルターもウィリアムもそれを悟っている様子だ。特に何かを言うわけでもなく奇跡の行方を静かに見守っている。
ジョシュアはもどかしさを噛み締めながら手元の時計に視線を落とした。奇跡の開始以後にイベリスが干渉を始めたと思われる時間から既に7分が経過している。
彼女が能力を全開放した状態でいられるのは15分程度。つまり残された時間はおよそ8分ということになる。
先の雷撃が逸らされたのはイベリスの力によるものだろう。そして彼女の干渉がうまくいけば大統領の言う二撃目が来ることはない。
これで奇跡は終わりを迎える。迎えるはずなのだ。
時計に向けた視線をナン・マドール遺跡の方角へと向けてジョシュアは心から祈った。
イベリス、玲那斗、フロリアン…頼んだぞ。
* * *
一方、ナン・マドール遺跡では言葉による説得に失敗したイベリスが現実世界から隔離された空間から意識を取り戻していた。
悲痛な表情を浮かべながらイベリスは前に突き出していた右手を胸元へ持ってくる。
「アイリス…貴女は…!」
彼女の様子を見た玲那斗は言葉による説得が失敗したのだと悟った。残された手段は完全な実力行使。つまりイベリスが力づくでアイリスとアヤメを抑え込むという方法しかない。
宙に浮かぶアヤメの姿を見つめながらイベリスは言った。
「大統領とマルティムの2人は無事よ。誰も傷付いてはいない。間一髪だったけど、なんとか今の雷撃を対象から全て逸らすことは出来た。同時に全てのポイントを消滅させることにも成功しているわ。」
彼女の言う通り、周囲に走る雷光の量は圧倒的に少なくなっているように見受けられる。
しかし、安堵したのも束の間だった。何かを感じ取ったのかフロリアンが言う。
「イベリス!まだです!次が来ます!」
干渉されることを完全に読んでいたとしか思えない。上空では急速に雷光の轟が元の勢いを取り戻しており、いつ二撃目が撃ち落とされてもおかしくないほどの状態になっていた。
対処の仕方について考える間もなくアイリスは再び右腕を天に伸ばす。間違いなく神罰による雷撃を下す構えだ。
「読んでいたのか!この早さだとポイントを全て潰すのは間に合わない…!」
玲那斗がそう言った瞬間、イベリスから放たれる金色の輝きは光量を増す。
「いいえ、大丈夫。撃ちだす為のポイントは既に分かっている。全て破壊させてもらうわ!」
すると周辺で絶え間なく轟いていた雷の光が再度急速に消えていく様子が見て取れた。
島のあちこちで観測されていた雷光が消えていく。遥か彼方に降り注ぎ迸る雷でさえも。
「残り3つ…2つ…最後…出来た!島中に張り巡らされたポイントはこれで…」
アイリスが予め用意し、予備として準備していたであろう雷撃を繰り出す為のポイントを無力化したイベリスがそこまで言いかけた時、信じられないことが起きた。
「え?」
消えかかっていたはずの雷の光が再び勢いを増して煌めき始めたのだ。それも先程よりも圧倒的に勢いが増している。
上空の赤い渦が消えることは無く、島全体を包み込むように先程までと同等…いや、それ以上の輝きを放つ光の筋が模様を描き、世界の終焉を告げるかのような轟音が島中に鳴り響く。
「これは…さっきとは全くポイントが違う。位置が全てデタラメに配置されていて、一か所を消滅させるだけではカバーしきれない。最初から固定された位置で対策をしている護送車の2人はカバーできても、急遽こちらへ来た大統領までは…アイリス、アヤメちゃん、貴女達はそんなにまでして…!」島中に張り巡らされた新たなポイントの現出を素早く認識しつつも、その処理の完了は彼女が腕を振り下ろすまでには到底間に合わないことを悟ったイベリスは言った。
上空で右腕を掲げたアイリスは掌を返す。まるで奇跡の完遂と勝利を確信したかのように先程振り下ろした時とは打って変わってゆっくりと手を差し伸べるように目の前に下ろした。
「だめよアイリス…だめぇ!!」
イベリスの悲痛な叫びは雷撃の音にかき消され、すぐ傍の玲那斗とフロリアン以外に聞こえることは無い。
そして、彼女の手の動きに呼応するように第二撃目の神罰は下されたのだった。
* * *
これで終わりよ。
貴女は遅かった。拙かった。
あれだけ忠告してあげたというのに。
“目に見えるものが全てではない” と。
雷撃を放つポイントを潰せば奇跡を止めることが出来る。それは間違っていない。
でもそれは “本当に全てのポイントを潰すことが出来たなら” という話。
貴女には見えていなかった。 “私達” が仕掛けた本当の狙いが。
アイリスとアヤメにとって一撃目の神罰が完全に無力化されることなど想定の範囲内だった。その上で再度現出させる二つ目のポイントがすぐに打ち消されるであろうことも。
第五の奇跡を終えた夜、アヤメはアイリスに忠告をした。このまま何も策を講じなければイベリスの力によって奇跡は防がれてしまうと。
でもアイリスは別の考えを持っていた。策を講じる必要はない。策などというものは既に用意されている。ただ実行するだけで良いのだと。
2人が仕掛けたものは実に単純だ。雷を撃ちだす為に必要なポイントを “予め3か所ずつ用意していた” というそれだけのことだった。
初撃を放つポイントはイベリスに気付いてもらいやすいように敢えて分かりやすく。そして2回目に現出させるポイントは1回目と同じく。しかし二撃目の本命を放つポイントだけは限りなく存在を隠匿した形で。
きっと彼女は雷撃を繰り出すポイントを一度か二度潰してしまえば “二撃目” が放たれる為のポイントをすぐに用意できないと考えていたのだろう。その考え自体は正しい。
しかし彼女の…いや、彼ら機構が犯した致命的なミスは “二度も潰せば再現性が無い” と決めつけてしまったことだ。
そして今、目論見通りに彼女には防ぐことが叶わない神罰が天より地上へ注がれようとしている。
アイリスもアヤメも本来は個人の持つ力だけで比較するのであればイベリスの持つ力には到底遠く及ばない。
仮に正面から勝負を挑めば圧倒的な能力差ですぐに敗北を喫してしまうだろう。
それは彼女が “この宇宙において、光という〈それ以上が存在しない〉唯一無二の物質又は現象を力として振るうことが出来るから” だ。
この世界に光の速度を超越するものなど存在しない。
創世記の天地創造における神の偉業では、天と地に続いてまず “光” が創生された。
それは光という存在が “世界” というものに対して何よりも重要な意味を持つからであると言えよう。
“私は世にいる間は世界の光である” という聖書の言葉や太陽信仰における神々の創生などを踏まえても、光というものが人々にとって過去から今に至るまでどれほどの特別な存在であったかなど論ずる必要すらない。
そんな存在に対抗する為にはどうすれば良いか。
答えはひとつ。彼女を “光” という唯一無二の存在としてではなく、数多の人間と同じ思考を持つ1人の少女であると捉えれば良い。
結果、彼女は誰にも届かない神の如き力を持ちながら目の前の奇跡に対抗する術を失った。
今この瞬間においてアイリスもアヤメもそのような存在を超えたのだ。
人の思考には時間がかかる。
人の行動予測には限界がある。
人の感情は時として正常な判断を狂わせる。
私達は彼女が “人間である” というその一点に賭けた。
そして勝負に勝った。
天に掲げた手を振り下ろせば今度こそ終わる。
マルティムの2人と大統領を裁き、この国に災厄をもたらす行為に加担した人間達全てに神罰を。
大いなる報いを。
苦しめられた人々を救い、この国の未来を想う心を持つ人間達全てに祝福を。
大いなる報いを。
第一から積み上げた奇跡は第六の奇跡で形となり、結果として結ばれ、記憶として歴史に刻まれる。
この行いで悪は裁かれ、多くの人々が救われ、その経緯は愛しいあの人の耳に届くに違いない。
空のたもとで遠く離れていても。
アイリスは遠くで微かに聞こえた少女の叫びを無視して、天に翳した手を振り下ろした。
* * *
「消滅しかけたエネルギー反応の増幅を確認!発生した雷によるショートバーストを再観測、同様に陽電子の対消滅も多数観測。先のものより強力な反応です!」
「二撃目が来るのか?確かに現象は終息の様相を見せたはずなのに!」
「彼女は我々の行動を読んで対策を立てていたのでしょう。二度もポイントを潰せば三度目はない。そう過信した我々の判断ミスです。あの子の方が一枚も二枚も上手だった!」ルーカスはイベリスという絶対の力に自分達が過信してしまったが故の失敗だと悟って言った。
鳴り響く雷鳴の最中、ルーカスの目の前で作動するトリニティからの観測データを受信する機材が唐突に〈Signal lost : ERROR〉という表示を連続して発する。
直後、いくつかの巨大な鉄の塊が上空から太平洋へ向けて一直線に落下し、水柱を上げて海中へと飲み込まれていく様子が見えた。
トリニティが撃たれた!それも全機…!
ジョシュアとルーカスはすぐに状況を把握した。観測する為に島から遠ざけつつあったトリニティは彼女の手によって二撃目の裁きが行われる前に神罰に触れて撃ち落とされたのだ。
これで自分達に観測する術は残されていない。後は自らの “目で見たものが全て” となる。
そしてその瞬間は訪れた。
ナン・マドール遺跡の上空で右手を天に掲げたアヤメが腕を振り下ろした瞬間。
音も無く光の柱が大地を穿つ。その数は1本ではない。無数の光の筋が地上へと降り注いだ。
その場にいる誰もが大統領の身を庇う時間など無かった。声を出す間も無かった。
止められなかった。自分達は失敗したのだ。
その場にいた誰もがそう頭の中で思いかけたその時。指を鳴らした音が聞こえたかと思うと、まるで時が止まったかのような錯覚がジョシュア達全員を襲った。
やけに周囲が暗く感じられる中、一瞬の静寂の中に1人の少女の甘い声が響いた。
「レイ・アブソルータ〈絶対の法〉。因果は移り変わり神罰は肉体を持たぬ怨魂を穿つ。」
大統領のすぐ傍ら。立ち上がる光の柱の中に不気味なよたよた歩きの怪物の姿が見えた気がした。
光の筋が消えると同時に大地を震わせる轟音が空気を大きく振動させる。
音の圧力に押されるような感覚が突き抜けていく。
目を眩ませる光と体をこわばらせる音が消え去り、ジョシュアとルーカス、そしてウォルターとウィリアムが目を開き大統領へと視線を向けた先に飛び込んできたのは誰もが想像しないものだった。
桃色ツインテールに制服と軍服を合わせたような服装の紫色の瞳をした小さな少女の姿が大統領の傍らにある。
大統領も突如として隣に現れた少女の姿を見て驚愕の表情を浮かべた。
荒れ狂う光の筋は彼女を中心として湧き上がる怪物に引き寄せられるように逸らされ、大統領のいる場所からは離れた位置に全て降り注いだ。
その様子を確認した少女は大統領へ視線を合わせることなく言う。
「貴方、私の言ったことをちゃんと聞いていたのかしら?私は〈生きなさい〉と言ったの。私は貴方に “生きろ” という法を定めた。私の敷いた法は “絶対” なのよ?それに背くことは許さないから。」
絶え間なく撃ち落とされては消えゆく雷撃の行方を見定めたアンジェリカは、視線を僅かに大統領へ傾けて言った。
「 “私は貴方を生かす。” 余生は苦しみに満ちたものになるでしょうけれど、私だけはその未来に楽しみを見出してあげるから、せいぜい頑張りなさい?次に私がこの国で貴方に会うまでに死んだりしていたら…めっ!なんだからね。」
消え入りそうな声でそう言い残したアンジェリカは紫色の粒子が解けるように姿を消していく。そして煙が霧散するようにして完全のその場から姿を消し去った。
絶対の法は自身に対しても有効だ。“大統領を生かす” と宣言したアンジェリカには、もう彼を殺害することは出来ない。
ジョージは静かに目を閉じ、心の中で一言だけ礼を述べた。決して届くことは無いだろうが、不器用な彼女なりの気持ちの伝え方に。
〈ありがとう〉と。
* * *
二撃目の神罰は下された。
それなのに大統領の姿は変わらずに感知することが出来る…
イベリスには何が起きたのか分からなかったが、それでもアイリスとアヤメが放った虎の子の一撃はどうやら目標を外したようだ。
この瞬間が最後のチャンスだ。イベリスは能力の全開放が出来る限界が近付いてきていることを理解してそう思った。
島中に張り巡らされた雷撃のポイントを今度こそ確実に全て捉えて潰す。今度こそ。
瞳を閉じて全神経を集中させる。島を覆う電磁の幕の内側、その中にある独特の揺らぎを放つポイントを探り干渉しては破壊する。
限りなく感知しづらいように設置されていた大多数のポイントも場所が特定できた瞬間に光が空気中を通過する速度と同じ速さで処理されていく。
あと少し…残り5つ、4つ…
イベリスはほんの些細な変化も見落とさないように集中しながら自身に与えられた役目を全うする。
3つ、2つ、1つ…そしてついにアイリスとアヤメが用意したポイントを全て破壊することに成功した。
これによってアイリスとアヤメはこの奇跡の間に裁きを継続することが不可能となったのだ。
残るのは島を覆う幕を取り除くこと。それを成し遂げることが出来ればもはや彼女に出来ることは本当の意味で何も無くなる。
* * *
それはアイリスの目に見えていなかった。
この国を恐怖と混乱に陥れた元凶の1人である大統領を穿つはずだった裁きの雷は魂をもたぬ怪物たちへと降り注いだ。
アンジェリカ…?なぜ貴女が大統領を助けたの?
神罰によって彼が穿たれる未来を楽しみだと言ってはばからなかった貴女がなぜ?
大統領の隣に佇むアンジェリカはアイリスの視線に気付くことも無く、俯いたまま視線を上げようとはしない。
そして傍にいた大統領に何か告げた後に紫色の煙が解けるようにその場から消え去っていった。
信じられない。こんなことは想定されていなかった。自らの楽しみの為に人を弄ぶことを生きがいとしていた少女が、たった一つの心の拠り所であった “楽しみ” をかなぐり捨てて他人を助けた?
『アイリス、隠匿していたポイントも全てイベリスに破壊されたわ。もうこの奇跡の間にポイントを再構築することは出来ない。私達は最後の最後で躓いた。最後の最後で。マルティムの首領二人の存在も確認出来る。そちらはイベリスにしてやられたわ。』
アヤメに言われてアイリスは大統領だけではなく、組織の解体にも失敗したのだと知った。
『蜃気楼。イベリスは光の屈折を利用した虚像を私達に見せた。私達が穿ったのはマルティムの2人を捕らえている車輌の完全なるコピーの幻想。 “何もない所を狙わされた” の。貴女の言う通り、彼女は本当にデタラメな人ね。』
そう言うアヤメの声は笑っていた。奇跡の完遂が出来なかったことに憤りや悲しみを抱くわけではなく笑っていた。
『 “目に見えるものが全てではない” か。イベリスの智謀、アンジェリカの心変わり。本当に見るべきものが見えていなかったのは私達かもしれないわね。』
それは諦めというわけではない。どこか清々しさを感じさせる様子でアヤメは心の中で語り掛けた。
そして間もなく、呆然自失とするアイリスの眼下の群衆が色めき立つ様子が目に入った。
既に上空の赤い渦は消え、辺りは夜の帳を映すような漆黒の空を無数の星々が埋める最初の景色へと移り変わっている。
そんな中、人々が何を見て騒ぎ始めたのかについてアイリスもようやく気付くことになる。
彼らは失敗に終わった奇跡に対して騒いでいるのではない。
アイリスは視線を上に向ける。
自身よりも少し上空、そこには1人の女性の姿がある。それは天使のように美しく清廉で、温かな金色の光に包まれ、女神のような神秘を纏う存在だった。
聖母マリアの光臨と人々が見間違えても不思議とは思わない程の光景。群衆に背を向け、自身と向き合う様にその女性はゆっくりとアイリスに近付く。
「イベリス…?」誰にも聞こえないほどか細い声でアイリスは呟く。
それに対して目の前の彼女はこう言った。
「私は人の可能性を信じる。周囲から見て、それがどれほど滑稽なものに見えたとしても。だって、人は自分を信じてくれる人がいないと生きていけないものだと思うから。」
目の前で語り掛けるのはイベリスが形作る幻影、幻想。光の投射によって形作られた分身。
そのはずなのにとても温かかった。彼女の幻に優しく抱き締められた瞬間、アイリスの目からは自然と涙がぼろぼろと零れ落ちた。
奇跡が失敗したことが悲しいのではない。自らの失敗を嘆いているわけではない。
“信じてくれる人がいるから生きていける”
その言葉を聞いた瞬間、アイリスは彼女の中にマリアの幻まで見たような気がした。
遠い昔、自分に優しく手を差し伸べてくれた彼女の幻を。
「アイリス、貴女の想いはきっと貴女が想う人に伝わったわ。遠い昔の、私の大切な親友に。そしてアヤメちゃんの想いもこの国の人々に伝わっている。」
イベリスはそう言うとアイリスを抱き締めていた手をほどき、群衆へと振り返ると両手を天へ伸ばすように広げる。
その瞬間、星空を映し流星群が流れ落ちていた夜の帳は解かれ、柔らかな日差しが差し込む青空が一面に広がった。
どこまでも澄み渡る雲一つない青空に島を丸ごと包み込むような虹が架かる。
それはまるで天使の輪のように巨大なリングを形作って島の上空に輝いた。
〈人々よ、空を見上げなさい。貴方がたの目に映る虹こそは、貴方がたの祈りがもたらした奇跡。願いは聞き届けられ、この国に災いをもたらす災厄は過ぎ去りました。困難の日々は終わりを迎え、これからの道行きを照らし明日へと希望を運ぶ “虹の架け橋” が貴方がたの未来への門出を祝福しています。人の思いは何よりも尊く、人の願いは何よりも強い。貴方がたがその在り方を忘れぬ限りこの先に待つ未来は明るいものとなりましょう。〉
イベリスはアイリスの代わりに人々にそう語り掛けると光の粒子が解けるように煌めきを放ちながら消え去っていった。
地上に集まる群衆は一人一人がおもむろに歓声を上げ始める。
それはやがて大きな波となって人々に伝染していく。奇跡の終わりに涙を流す者。拍手で苦難の終わりに喜びを示す者。上空に浮かぶアヤメに惜しみない賛辞を叫ぶ者など様々だ。
しかしアイリスには分かっていた。目の前でイベリスが消えたのは故意に演出としてそうしたのではない。
おそらくはただの “時間切れ” だろう。彼女が全力で能力を行使できる15分というリミットが訪れたのだ。
しかし、人々の目に映った景色は確かに神が起こす奇跡そのものに見えたに違いない。
第六の奇跡の最後を穢すわけでもなく、貶めるわけでもなく、ただただアヤメとアイリスの願いを叶えるような形で締めくくりを唱えたイベリス。
その美しい在り方にアイリスも先程のアヤメ同様に笑うしか無かった。
「まったく…貴女という人は本当に、どこまでも…」
大観衆の歓声がこだまするナン・マドール遺跡の中で最後にアイリスが呟いた言葉である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます