第46節 -第六の奇跡-
『コード:POC C2K 0002 ベートより伝達。識別名エヘイエー 艦隊旗艦メタトロン及び追随艦艇3隻の当該海域における配置良し。これより周辺海域の監視及び第六の奇跡の観測の任に就く。』
『ミクロネシア連邦支部中央管制より。指定座標への到着を確認。プロジェクト・シルゥ、第2フェーズへ移行。ナン・マドール及びペイニオットの状況はどうなっている。』
『コード:AOC C1M 0022より、POCミクロネシア連邦支部へ。マークת第一班のブライアン大尉だ。テムウェン島、ペイニオットにて観測準備を完了している。』
「同一コードより同支部司令へ伝達。マークת第二班の姫埜中尉です。テムウェン島、ナン・マドール遺跡にてイグレシアス三等隊員、及びヘンネフェルト一等隊員揃い奇跡への対応準備を完了しました。」
『ミクロネシア連邦支部中央管制より、マークת各班へ。テムウェン島上空にて展開するトリニティ各機の信号を受信。プログラムコード正常動作を確認。プロヴィデンスとの連動ステータスに異常無し。モニタリング良好。各部隊に伝達する。指定時刻まで現状のまま待機。奇跡開始に伴う電波障害により通信途絶が予想される為、第六の奇跡観測開始後の行動は各部隊長の判断に任せる。各員の検討を祈る。』
「マークת第2班、部隊長姫埜中尉、本部の指示を確認しました。現状のまま待機します。」
コロニア市の支部司令と太平洋上、及びペイニオットとナン・マドールに展開する各部隊から順に現状の報告を行う。
時刻は午前11時を回っており、奇跡開始まで1時間を切った。
ナン・マドール遺跡にて準備を整えた玲那斗とイベリス、そしてフロリアンの3人は遠くで祈りを捧げる少女を一様に見つめる。
それは3人だけではない。数万を超える人々が詰めかけるテムウェン島は異常なほどの静けさに包まれており、その全員が祈りを捧げ佇む少女の動向を見守っているのだ。
奇跡の少女、アヤメは微動だにせず太平洋に向かい祈りを捧げ続けている。
前回の第五の奇跡の際もそうであったように、おそらくこれから1時間近くの間そのままの状態が続くだろう。
現地に集った人々は彼女と共に祈りを捧げたり、彼女を崇めるように地に伏したり、ただじっと見つめたりと様々な様子を見せるが、ただ一つだけ同じなのは誰一人として口を開かないということである。
心の中で思う言葉は以前と変わらずプラカードで掲げられる。
“我らの未来は大いなる神の聖名と共に”
“今日という日は明日という未来の為に”
“災厄の元凶に裁きの鉄槌を”
希望に溢れたメッセージや怒りに身を任せた物騒なメッセージなど多種多様な言葉が並ぶ。
玲那斗達は人々とは少し離れた位置にポジションを取っている為それらの光景をよく見渡すことが出来た。
静まり返る遺跡の様子を眺めていた3人であったが、ペイニオットで観測準備を整えたジョシュアからの通信を確認しそちらに耳を傾けた。
『玲那斗、フロリアン、イベリス聞こえるか?』
「はい、隊長。よく聞こえています。」全員を代表して玲那斗が通信に応じる。
『よし。今から重要なことを伝達する。プロジェクト・シルゥにおける第一段階は成功した。警察はマルティムの首領であるビズバールとヘカトニオンの両名を確保。つい先程大統領の身柄も拘束したと報告が入った。』
「では計画の成否は我々の手に委ねられたということですね。」
『そう言うことだ。だが気張るなよ。緊張は余計な力みを生じさせ不必要な失敗を招く。大丈夫だ。お前さん達なら必ず成功する。それと、ここから先が重要だ。今から10分後にペイニオットに大統領本人が来るそうだ。警察に身柄は拘束されているが、本人の強い希望により第六の奇跡を直接その目で見届けたいということらしい。イサム中佐とアンソン大統領秘書官も同行する予定になっている。間もなくこの空域にヘリコプターが1機飛来するが、それに彼らは乗っている。』
「分かりました。アヤメちゃんの動向にも気を付けながら対処に当たります。」
『頼んだぞ。あとイベリス、気負うな。リナリアの時とは違う。お前さんはもう1人じゃない。隣に玲那斗がいるし、周囲には俺達がいる。何も気にすることなく目の前のことにだけ集中するんだ。』
「ありがとう、隊長。やれるだけやってみるわ。」
『そしてフロリアン、アヤメの動向に関して一番敏感に察知できるのはおそらくお前さんだ。変わったことがあれば2人にすぐ伝えるように。』
「了解しました。」
『みんな無事に帰ってこい。では、健闘を祈る。』ジョシュアの言葉に3人はそれぞれ応えて通信は終了した。
すぐ近くに大統領が訪れる。予定には無い展開だ。
アヤメ…いや、アイリスの奇跡において攻撃対象の1人となっているはずの本人がこんな間近くに来るとなると少し意識の持ち方を変える必要がある。
玲那斗はそのことを一番気にかけているであろうイベリスの肩に手を置いて大丈夫だと諭す。イベリスも玲那斗へ視線を向けて力強く頷いた。
奇跡の開始まで残された時間は多くない。3人はその時が訪れるまで再びアヤメに視線を向けてその動向を静かに見守った。
* * *
警察の所有するヘリコプターは首都パリキールからペイニオットに向けて飛行中だ。
機内にはパイロットの他にはジョージとウォルター、そしてウィリアムの姿しかない。
この状況が訪れるおよそ20分前。
これはウォルターとウィリアムが地下通路から地上へ出てマルティムの2人の身柄拘束を聞いた後、その時まだ地下通路へ潜伏していた大統領が次にとる行動について話し合った際の出来事だ。
ウォルターが大統領の次に取るであろう行動予測についてウィリアムに尋ねた時、彼は即座にこう答えた。
≪大統領は必ず大統領府へと戻ってくる。≫と。
警官隊が周辺を取り囲むこの場所に戻ってくるなど有り得るのかと何度か確認したが、ウィリアムは間違いなくこの場所に戻ってくると言って聞かなかった。
そして現実に大統領はポイントC2区域への地下出入り口となる場所から姿を現し、大統領府へと戻ってきたのだった。
ウォルターは思わずジョージに対し “なぜこの場所に戻ってきたのか” と尋ねた。すると彼は “責任を果たす為に戻った” と答えたのだ。
さらにジョージはこう付け加えた。
“自身の身柄を拘束することは構わない。警察の指示に従う。但し、これから行われる第六の奇跡をこの目で見ておきたい。それが自分にとっての最後の務めとなるだろう。”
第六の奇跡を直接その目で見ることにジョージは拘った。
機構が確実に奇跡を止める手立てを用意しているとは聞いているが、下手をすれば例の雷撃によって彼女の目の前で命を絶たれる危険性があるというのに。
そうして大統領の強い要望によって機構支部のモーガン中尉とペイニオットへと展開しているブライアン大尉へ急遽連絡を取り、現地への大統領来訪は承認された上でヘリにて現地へ向かうに至っている。
もう間もなくヘリはペイニオットの着陸ポイントへと到達する。
奇跡が開始されるまで残された時間は僅かしかない。
その後、ウォルターとウィリアムの目の前に座る大統領の運命がどのような結末を迎えるのかは分からない。
ヴァチカンの総大司教の言葉を借りれば “神のみぞ知る” ということになるのだろう。
ウォルターの抱く尽きることの無い不安と共にヘリはついにペイニオットへと着陸を開始した。
* * *
奇跡とは何を指す言葉だっただろうか。
常識では起こり得ない事象。
科学を超越した不思議な現象。
神が示すような人智を超えた力が示されること。
そのようなことを指す言葉だったのだろう。
しかし、 “この地における奇跡” とは今や災いをもたらした元凶を1人の少女が神の怒りによって葬り去ることと定義されてしまっている。
そのような奇跡の在り方とは人々にとって良いものなのだろうか。
それとも悪いものなのだろうか。
善悪の観点から見てどちらだと思うだろうか。
この国に暮らす民にとっては “それ” を善だと答えるだろう。
数年に渡り、多くの人々が苦しめられた薬物問題がついに終焉を迎えるかもしれない。
そのような事実を目の前にして、 “彼女” が起こす奇跡を “悪” だと定義付けできる人間がどの程度いるだろうか。
おそらくほとんど存在しない。
本来、善と悪という概念は立場というものによって左右される。
しかし、今この国で起きようとしている最後の奇跡を前にして、それを悪だと断罪する者は限りなくゼロに等しい。
なぜならそのほとんどが “この国で暮らす者” という立場だからだ。
誰もが望む結末に向けて彼女は閉じていた目を開く。
誰もが望んだ未来を描くために彼女は空を見上げる。
時刻はまもなく正午を指し示す。
アヤメは静かに大衆の待つ方向へと振り返り、両の手を広げると大きく息を吸って告げた。
「告げる。これは慈悲深き聖母による最後の御言葉である。」
その言葉と同時に彼女の体は上空へと引き寄せられ、地上20メートル付近で静止した。
彼女の言葉に呼応するように周囲の景色は異世界に導かれたような変貌を遂げた。
雲一つない青空は夜の帳が降りたかのように暗く変色し、太陽の光が降り注いでいたはずの大地は淡い光に包まれ、海は月の光を反射するように煌めいた。
深淵なる大宇宙を映す鏡。そう例えて差し支えないほどの神秘的な光景が人々の上空を覆った。
「刻限はここに。数か月に渡る貴方がたの祈りは主の元に届きました。これより貴方がたのの前に第六の奇跡が顕現します。長きに渡り我らを苦しめた厄災は今日この日をもって終焉を迎えましょう。ステラ・マリス〈星の海の聖母〉。空を見よ、幾千の星の煌めきは汝らを導く希望の光である。神が我らに与えた慈悲の光である。」
アヤメの言葉と同時に暗い空に満点の星空が広がり、過去の奇跡と同様に垂直に落ちる流星群が空から海へと流れゆく。
人々は感嘆の声を上げながら上空を見やる。中には涙を流しながら両手を合わせて祈りを捧げる者もいる。
「人々よ、祈りなさい。願いなさい。心の内にある想いをもっと強く。神の威光を侮辱する罪の償いとして、この地に災厄をもたらす者はすべからく代償を支払わなければなりません。穢れなき民の御心に加えられたあらゆる苦痛と、我らの主に対する数々の冒涜を償い、罪人が回心する為に彼らは罪の赦しを乞わなければならないのです。」
アイリスは自身の能力で人々の脳内に響き渡るように直接語り掛けながら周囲を見渡した。
彼女は、彼女はどこにいる。この奇跡を止め得る可能性のある存在。この場で唯一奇跡に干渉出来る存在。
遺跡を見渡していき群衆からは外れた位置でその姿を見つけ出した。群衆からは見えないような位置、遺跡の陰に隠れるようにして佇んでいる。
イベリス…玲那斗と、お兄ちゃんも一緒なのね。
アイリスの脳裏に9月8日に起きた事件のことが浮かぶ。
フロリアン。自身が傷付けてしまった人。そして自身の敬愛する人の特別な人。
しかし頭の中に浮かんだそれらの意識をすぐに追い出す。今は感傷に浸ることは許されない。
彼を傷付けた元凶となる者達への裁きを下す唯一無二の機会。それが今日という日なのだ。
その元凶であるマルティムの2人と大統領の身柄が既に警察によって取り押さえられたことは先程機構の隊員から聞き取った心の声で分かった。
今は首都パリキールの地下ポイントB区域付近の地上に停車している護送車の中にマルティムの2人は隔離されている。
そして大統領はこの場から少し離れた位置にいる。狙ってくださいと言わんばかりの位置でこの奇跡を見届けようとしているのだ。
アイリスは今の状況を改めて認識すると、イベリスへと視線を向けて頭の中で念じた。
さぁ、見ていなさい。貴女が止めるよりも早く私はこの奇跡を完遂する。撃ち抜く対象が地下にいようと地上にいようと、どこにいようと関係ない。
アイリスは右手を天に伸ばし言う。
「災厄の元凶はこの地を去らなかった。愚かなる罪人は自らの意思でこの地に残った。これより示されるのは天上の意志。与えられた慈悲を嘲笑い、我らの神を冒涜した罰はここに下される。神の怒りはお前達の死をもってのみ鎮まる。」
宇宙を映し出しているような空の中央に赤い渦が現れる。まるでこの地に蔓延る災厄全てを呑み込もうとするかのように巨大な渦は回転を始めた。
別の場所では太陽のような輝きを放つ大きな星はジグザグを描きながら不規則に移動を繰り返す。
やがてアイリスの背後に流れていた流星群が止み、遠くから地鳴りのような音が響き渡ると上空から太平洋の海面に向けて幾度となく放電現象による光の筋が見られた。
アイリスとアヤメの起こす奇跡を目の当たりにしながら玲那斗はイベリスに言う。
「今までとは違うな、イベリス。」
「分かっているわ。これまでとは順序が違う。私に止められる前に、といったところかしら。」イベリスが返事をする。
「アヤメちゃん、そうまでして…」フロリアンが悲痛な表情を浮かべながら上空に浮かぶ少女の姿を見る。
「でもやるしかないわ。2人とも、サポートを頼むわよ。」
玲那斗とフロリアンは頷き、その間に立つイベリスは静かに目を閉じた。
手には首から下げたリナリア公国の王妃のみが持つことを許された宝玉を握る。
俄かに、彼女の周囲に淡い光の柱が立ち昇る。美しい白銀の髪は黄金の光に包まれながら徐々に金色へと染まっていく。
そしてイベリスは目を開いた。いつもは透き通るような灰色をした瞳が虹色に染まる。
レインボー・アースアイ。そう形容することの出来る輝かしい瞳だ。
開いた掌を上に向け、ゆっくり、ゆっくりと右手をアイリスへと伸ばしていき、その掌が彼女の姿に重なる。
その瞬間、上空のアイリスは激しい動悸を感じるような錯覚を覚えた。
間違いない、イベリスによる干渉だ。
『アイリス、来たわよ。行けそう?』頭の中に聞こえるアヤメの問い掛けに心を落ち着かせながらじっと前を見据える。
イベリス、貴女は遅かったのよ。
今さら努力を始めたところでもう遅い。私に残された行動はただ天に突き上げた腕を下ろすだけ。それで全てが終わる。
どれほどの強力な力を振るったところで、貴女には何も出来ない。
あの日と同じように、あの時の私と同じように。
上空では巨大な赤い渦模様が蠢く。その周辺を雷光が駆け巡っている。
いつ、どこに雷撃が降り注いでも不思議ではない。
国民の視線は今や天高く突き上げられたアヤメの右腕に釘付けとなっている。
その手が振り下ろされた時、神罰が下るのだ。誰もがそう思っているはずだ。
そして、満身の決意を込めて天高く掲げた手を彼女がついに振り下ろそうとした瞬間。
アイリスの中にアヤメの声とは違う声が響き渡った。
『アイリス、止めなさい。貴女がやろうとしていることは “間違っている”。』
* * *
動きが止まった?
ナン・マドールを囲む森にある大きな樹木の頂上付近、その大きな枝に座りアイリスとアヤメが起こす第六の奇跡を観賞していたアンジェリカは彼女の様子がおかしいことに気が付いた。
イベリスが干渉しているのだろうか。そうとしか考えようがない。
彼女に “八つ当たりだと” 言われたことを思い出すと今でも神経が逆撫でられる気分になる。理解の足りない王妃様だ。
「別にどうということはないわ。」
誰に向かって言うわけでもない。ただ虚空に向かって呟く。
おそらくアイリスが掲げた右腕が振り下ろされた時、彼女の言う神罰というものがアルフレッドとベルンハルト、そしてジョージへと下されるのだろう。
もしマルティムに関わっていた人間が他にも残っているのなら、それら全ての人間に対して裁きが下されるに違いない。
少し前の自分なら狂喜乱舞して喜ぶシチュエーションだ。今この場で両手を広げて胸の高鳴りに応じた笑い声をあげていたかもしれない。この瞬間を楽しみとして数年もの間コツコツと準備を進めてきたのだから。
しかし、今となっては楽しみはおろか、落ち込んだ心の慰みにもならない催しと化してしまった。
彼女の右腕が振り下ろされた後にどういう結末が待っていようと、もはやこの沈んだ心を高鳴らせるだけの要素にはなり得ないだろう。
今自分が第六の奇跡を眺めているのはただの惰性だ。
ここまで来たからには結果程度は見届けておこうというただそれだけのことだ。
そうした中、アンジェリカの脳裏にふとある人物の顔が浮かぶ。
ジョージ・キリオン。この国に来て初めて自分が会った人物。最初から騙すつもりで話し、結果として騙して手駒として今日という日まで弄んできた。
初めて彼と会った時は歳の割に何と青臭い情熱を語る老人だろうと思ったものだ。あまりの暑苦しさに笑顔の裏で辟易していたことを今でも鮮明に覚えている。
大国に続くような発展を遂げたい。この国に暮らす全ての人々が豊かな暮らしを送ることが出来るように変えていかなければならないと。分かれている島をまとめあげ、一つの国家として立つべき時なのだと、確かにそう言っていた。
そんな彼は今、何もかも失くした状態でこの地へ赴いている。奇跡が始まる前にこの地へ到着したヘリコプターには彼とウォルター、ウィリアムが搭乗していたものと見ている。
地下を抜け出した彼は最後にこの地を訪れて、アヤメの目の前に立ち自身の “最期” を占おうとしているのだ。
簡易的にではあるがエニグマによる未来視でここまでのことは予見できていた。しかしこの後彼がどうなるのかについて視通すことは出来ていない。
そのことが元々穏やかではない自らの心と感情に更なるさざ波を立てる。
「まったく、恬淡そうな見た目の雰囲気とは違って暑苦しい上にここまでのおバカさんだったなんて。よくわからないけど…なんだかよくわからないけど、人をイライラさせるそういうのは…めっ!なんだよ?」
唇を噛み締めながらそう呟いたアンジェリカは赤紫色の光の粒子が煙となって解けるようにその場から消え去った。
* * *
アイリスは視線だけを “彼女” へと向ける。
全身を覆う柔らかな金色の光はまるで暗い森の木々の隙間に指す木漏れ日のような温かさを感じさせる。
遠目にイベリスが自分に向けた右手を握りしめ、虚空で何かを掴みとるような動作をした様子が見えた。
すると周囲は時が止まったかのように白く染まり、目の前に彼女の分身体の姿が現れた。
これはきっと彼女の見せる幻想だ。
ベンディシオン・デ・ラ・ルス。光の祝福と呼ばれる能力の一部。
時間すら超越する隔絶世界。その中に自分を招き寄せた。
アイリスは自身の周囲で突如として起きた変化をそう悟った。
今から2年前、リナリア島周辺で起きていた怪現象は全世界へと伝わっていた。
国際連盟の精鋭が島の調査に乗り出し、そして失敗した。
それからさらに1年後、今度は機構の調査隊が島の調査へ乗り出し、今度は成功を収めた。
あの時、島の周囲へ及ぼしていたような現象を超えた奇跡のような光景を今この時に自分だけに向けて見せている。
音も無く、風も無く、時間という概念すらあやふやになった真っ白に染まる空間にイベリスと自分だけが存在している。
眼下に広がるはずのナン・マドール遺跡も、その地に集まった数万人の群衆の姿も見えない。
閉ざされた世界にはたった2人、いや3人だけしか存在しない。
『アイリス、そしてアヤメちゃん。貴女達の望む未来は決して間違いではない。貴女達の目指した想いは決して間違ってはいない。けれども、方法が間違っているのよ。』
真っ白に染まる世界の中、慈愛に満ちた声でイベリスは語り掛ける。
「優等生な貴女らしい答えね。イベリス。」彼女の問い掛けにアイリスは答えた。
『アンジェリカにもそう言われたわ。』
「そうでしょうね。貴女は常にみんなの憧憬の対象だった。それは国民に限ったことでは無く、レナトにとっても、私にとっても、マリアお姉様にとっても…きっと、アンジェリカにとってもそうだったということでしょう。あのロザリアにとってすらそうであったように。」
『アイリス、貴女は私が世界に対して今でも心のどこかで恨みや憎しみといった感情を持っていると思っているのかもしれない。でもそれは違う。自分の生き方や自身の最期を後悔もしていない。私は過去の出来事を憎んでなどいないし、過去の人々を恨んでなどいない。そして今を生きる人々にそのような感情を抱いてもいない。過去を引きずったからといって未来が変わるわけではないの。復讐を誓ったからといって何が戻ってくるわけでもないのだから。』
「綺麗事ね。千年前のあの日、貴女を燃え盛る炎の中に追いやって消し去ったのはこの世界よ。いつまで経っても変わることの無い世界。誰かを苦しめることでしか発展を得られないような現実に対して、貴女は一体何を期待するというの?」悲しそうな目で訴えるイベリスに対して燃えるような怒りの眼差しをアイリスは向けた。
『私は可能性を諦めたりしない。貴女やアンジェリカの言うように、この世界は今でも千年前と根本的には変わっていないのかもしれない。表面上の豊かさは比べ物にならないけれど、人の心の在り方まで同じように豊かさを手に入れたわけではないのだから。上辺で綺麗ごとを言いつつ、本心では何を考えているのか分からない。確かに今も昔も変わらないでしょう。』すると、今までただ話を聞いていただけのアヤメが会話に割って入る。
《イベリスさん、貴女は過去に王妃となられるはずだったお方だとアイリスから聞きました。そんな貴女なら、マルティムの薬物によってこの国の民が受けた苦痛がいかほどのものかを理解し、その怒りが如何様なものなのかも理解してくださるものだと思っていました。私達が導く奇跡によってこの国の民の心は救われます。いつ自分や大切な家族が薬物の犠牲になるかもしれないという恐怖を克服し、本当の意味での精神的な自由を得られる。その為に私達はここまで来たんです。》
『アヤメちゃん、確かに貴女とアイリスの起こした奇跡は人々の心の拠り所となったでしょう。多くの人々の心に未来という希望を灯す光のように映ったことでしょう。今でも遺跡に集った人々が貴女達の一挙手一投足を真剣に見つめる様子からもそれは理解出来る。けれど、救いも自由も…それらは神の手によって得るものではない。人々が自らの手で掴みとるはずのものよ。2人が今していることは、人々が本来持つ可能性を潰すことにも等しい。』
「正しいことが正しいとは限らない。目に見えるものだけが全てではないと言ったはずよ。アヤメの言う通り、貴女も国を背負う王妃の立場に立つ者であったのなら悟りなさい。」アイリスは強い口調でイベリスに迫る。その言葉に努めて冷静にイベリスは返した。
『私が正しさの奴隷に見えるというのならそれでも構わない。この奇跡を完遂させ、多くの人を殺すことで得られた解放はこの国にとって、この国の民にとって生涯消すことの出来ない歴史という傷跡になる。救う為の奇跡が、新たなる厄災の火種になるかもしれないと分かっていながら、それを見過ごすことは出来ないわ。』
《それでも、私達は。》
「えぇ、それでも私達は。」
イベリスの言葉を遮るようにアヤメが言い、アイリスも同調する。
柔らかな光で閉ざされた空間を遠ざけ、遮断するようにアイリスは左手で薙ぎ払う動作をした。
するとイベリスの目の前から彼女の姿は遠ざかり完全に現実世界から隔離されていたはずの空間は徐々に消えていった。
イベリスの干渉を振り切り、アイリスとアヤメは天に掲げた右腕をついに振り下ろした。
* * *
あの子の中に別の誰かがいる。
そう感じ始めたのはいつからだっただろうか。
ダニエルとサユリは我が子の巻き起こす奇跡の様子を遺跡から見上げて互いに同じ思いを抱いていた。
自分達の目から見ても何が変わっているというわけでもなく、ましてやそのような些細な変化に気付いていた島の者はいないだろう。
けれど自分達には断言できる。今のあの子は別の誰かの魂を宿しているのだと。
以前、サユリはアヤメの部屋の前を通りがかった際にアヤメが誰かと話をしているのを聞いた。
最初は友人と電話でもしているのだろうと思ったがどうも様子が違う。
我が子のプライベートを盗み聞きするなど親としては最低なことだと思ったが、どうしても気になったので扉の向こう側から聞き耳を立ててしまった。
その時にアヤメはこう言っていた。
〈貴女の敬愛するお姉様はとても素敵な方なのね。貴女の住んでいたところも。その美しい星空を私も眺めてみたいわ。〉
お姉様?誰のことを言っているのだろう。友人たちに姉がいる子も少なくは無いが、その人物を指して言うには改まり過ぎている。何か様子が変だ。
ずっと話を聞いていようかと思ったが、我が子の心の内側に土足で入り込むような真似をしている自分に心苦しさを覚えてすぐに部屋からは離れた。
アヤメの様子をダニエルに話したのはそれから数日後のことである。話をしようかどうか迷わなかったと言えば嘘になる。
“娘の中に誰かいるのではないか” などという話を唐突にされて訝しまない人間などいるだろうか。もしくは、我が子を何の前触れもなく突然多重人格ではないかと言えば、気でも狂ってしまったのかと思われるに違いない。そう考えていたからだ。
しかし、思い切ってダニエルに相談すると意外な返事が返ってきた。
“自分もそのように感じていた” と。
話を聞けば、ダニエルもアヤメと日々過ごす中でそのような場面に遭遇したり、聞く気でなくても聞こえてしまったりといったことがあるという。
話の相手の名前を〈アイリス〉と言っていたことも教えてくれた。
アイリス。アヤメの中にいる人物の名前。
それからというもの夫婦そろってアヤメの様子をつぶさに観察してみたが、自分達の前では何一つ変わらない可愛い娘であることに違いは無かった。
そして可能性のひとつとして考えた解離性同一性障害、いわゆる多重人格では無いことは明白だった。
多重人格の人間は、別人格が表出している時の記憶は基本的に残っていないという。しかしアヤメには記憶の欠落というものが見られず、またその他の特徴的な症状にも一切該当はしなかった。
日常生活でも学校では真面目に授業を受け、友人たちと仲良く遊んだりと他の子どもたちとこれといって違ったところは見られなかった。
このことについてダニエルとサユリは幾度となく夫婦の間で相談を重ねたが、導き出した結論は “そっとしておこう” というものであった。
何かしら必要があれば自分達に何かを相談してくるだろうという思いがあったことと、自分達の娘とはいえ1人の人として心の問題にむやみに立ち入るべきではないという気持ちからだった。
それから数か月の時が経ったある日、奇跡と呼ばれるあの出来事は起きた。
今にして思えば、全てに兆候はあったのだ。
自分達の子供がこれだけの規模の騒動の中心にいるなど今でも実感は湧かない。これだけの奇跡を眼前にしても同じ気持ちだ。
神の名を借りた代理殺人。殺戮などしてほしくないという気持ちは変わることは無いが、この期に至って願うことはもはやただ一つ。
無事に帰ってきて欲しい。
ただそれだけだ。
帰ったらアヤメの大好きなパンケーキを心行くまで食べさせてあげよう。
無事に帰ったら彼女の望むことをしてあげよう。
そしてあの子の中にいるもう一人の “我が子” に挨拶もしなければ。
奇跡を止め得る可能性を持つ機構という巨大組織とは違って、自分達は眼前で起きている光景をただ立ち尽くして眺めることしか出来ない。
祈ることしか出来ない。願うことしか出来ない。
それでも、それでもだ。
サユリは奇跡の行方を見守りながら、隣で同じ光景を見て同じ気持ちで祈っているであろうダニエルの手を握った。
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