第48節 -新たなる道行き-
第六の奇跡から1週間が経過した。
アヤメ・テンドウによる半年に及ぶ聖母の奇跡はひとまずの区切りを迎え、奇跡が起きる前の日常へと戻りつつある。
この国を数年に渡り苦しめていた薬物密売組織マルティムの首領、アルフレッド・オスカー・ビズバールと序列第2位のベルンハルト・J・ヘカトニオン逮捕による組織瓦解のニュースは多くの国民へ安堵をもたらした。
そして第五の奇跡において国内に貯蔵されていた薬物の大半が雷撃により焼却されその存在を消したことによって密売行為そのものも数を激減させており、その行為自体に対しても警察による取締りによって数年前と同じ水準にまで減少していることも国民に安心感をもたらす追加要因となっていた。
だが、それとは別に国民からの信頼も厚かった大統領が組織に深く関与していたというニュースは国家に暗い影を落とすことになる。
警察によって大統領逮捕、及び薬物問題への関与が明らかにされた際に流れた衝撃は計り知れない。
事実が明かされた後でも大統領の潔白を信じる者、何かやむを得ない事情を抱えての凶行だったのではないかと思う者、裏切られたことに怒りを露わにする者など反応は様々だ。
今後は警察の取り調べが進められ、近々国会の場で証人喚問が行われ本人の口から過去数年に遡っての真実が語られることになる見込みだ。
その時、大統領は “偽りなき真実” を打ち明けるという説明責任を国民に対して果たすこととなる。
だがその時に “アンジェリカ” という少女が存在したことを打ち明けるかどうかは別の話であろう。
また奇跡で唱えられた本来の結末とは違った形での決着となったことについては人々の間で賛否が分かれる結果となった。
苦しみを与えた者に最上級の裁きが与えられることを願っていた人々にとっては、法の保護下で組織に関与した者が生かされ続けるという未来に対する不満が残っている。
一方で、大量殺戮が行われなかった点に安堵を示す人々もいることも事実だ。第四の奇跡による薬物密輸入者たちの犠牲があったものの、それ以上の犠牲者は最後まで出なかった。
長い年月が必要となるが、異なる意識の持ち方による感情論による軋轢は時間の経過とともに解消されていくだろう。
大統領逮捕により懸念されていた国政の運営は、副大統領が引継ぎ滞りなく進められている。当然、ジョージ・キリオンが胸に抱いていた情熱を受け継いだ大統領秘書官であるウィリアム・アンソンの的確な状況判断と差配が陰にあってのことだ。
奇跡の件については国民の誰もが口を閉ざし、 “そういう出来事があった” ことすら海外に伝わることは無かった。それは件の奇跡に関しての映像ソースが無いことにも由来するが、奇跡については今後も情報は他国へ伏せられたままとなるだろう。その代わり、国家元首と薬物組織の繋がりと逮捕については世界中のメディアで報じられることとなった。
今回の事件に対する各国の反応は様々であったが、概ね各国ともに『残念に思う』という声明のみを発表するに留っている。
それは国内管轄事項に対し、他国や国際機関は内政不干渉の原則に基づき一切の介入が出来ないということに由来する。
万が一にでも国家運営がままならない状況まで追い込まれ、国民の生活に深刻な危機をもたらすと思われるような事態となれば “保護する責任” において、元々協調関係を構築している先進国か或いは国際連盟による介入も視野にいれられるだろうが、現状においてはそうした動きは皆無だ。
世界各国は事態を静観し、連邦政府の舵取りによる運営の行方を見守ることになるだろう。
ただひとつ、国際連盟における秘匿部門。 “存在しない世界” と呼ばれる【機密保安局 -セクション6】を除いては。
* * *
警察内部の取調室の中、2人の初老男性が向かい合って座る。
ジョージ・キリオンとウォルター・イサム。ミクロネシア連邦元大統領と連邦警察中佐という立場の前に2人は旧来の友人であった。
数年前、無二の親友がこの国の未来を熱く語り大統領へと就任したことを陰ながら心から喜んでいたウォルターにとって、自らの手で彼を逮捕する未来が訪れようなどとは予想もしていなかった。
目の前に座るジョージをウォルターは見据える。彼は国家を揺るがす大罪に加担した被告人だ。この部屋での自分の仕事は連邦警察中佐として事件の全容を明らかにするべく、彼から事実を聞き出すことである。
しかし、ウォルターの心には幾分か拭いきれない感情というものがあった。いつもであれば被疑者や容疑者に向ける視線を彼に対して投げかけることに心のどこかで抵抗を感じてしまっている。
落ち着かない心情を抑えながらウォルターは言った。
「ジョージ、まさか君と2人で再び机を囲んで向かい合う場所がこんな場所になろうとは思ってもみなかった。」
「お互い様だ。だが、私はこのような未来がいつかは訪れるだろうと予期していた。当然だな。」穏やかな表情でジョージが答える。
「ビズバールとヘカトニオンの両名を逮捕したことでマルティムは瓦解。第五の奇跡で国内に貯蔵されていた違法薬物はその大半を焼失し、さらに組織に加担していた君の逮捕をもってこの国を長年苦しめていた薬物問題は終わりを迎えた。おそらく奴らには終身刑が言い渡され、死を迎えるその時まで塀の中から出ることは許されない。」ウォルターが言う。
「しかし、この国に訪れるのは平穏ばかりではない。高度経済成長の継続はこの国の未来にとって重要な意味を持つ。流入していた資金が底を尽き、成長の流れが止まってしまった時に先進諸国が抱えている問題よりも悲惨な状況が訪れる可能性だって有る。端的に言えば失業者の増加と強烈なデフレーションだ。」事件の終わりを振り返る彼に対しジョージは未来についての悲観的観測を述べた。
「その点について問いたい。薬物密売によって得られた資金は大統領である君の元へと集まっていたことは会計監査の見直しで明らかになっている。だが、その支払先に関しては依然として全て謎に包まれたままだ。マネーロンダリングの形跡すら無い。君は密売によって調達した資金を一体何に使った?秘書官であるあのウィリアムの目すら欺いて、どのように運用していたのだ。まさか国内公共事業に使っていたわけではあるまい。」
ジョージは厳しい目を向けながら質問に答える。
「汚い金には汚い金なりの使い道というものがある。決して国内公共事業に流入などさせてはいない。公会計に記録が無いということがその証拠だ。私とてそこまでの収支改竄は出来ない。」
「その使い道というものを証言してもらいたい。国内で無ければ海外か。そうなればことは連邦政府の問題だけには留まらなくなる。これは君の名誉にも関わる話だ。」
「名誉など守ったところで得られるものもない。いや、そんなものは既に私には残されていない。ウォルター、これは親友としての忠告だ。 “目に見えない方が良いこともある”。」
権力が人を変え、過ぎた情熱は取り返しのつかない蛮行を招く。ジョージの返答にウォルターはそのような感情を抱いていた。
しかし、今の話の中から窺えたのは【変わらざるを得ない何か】があったのではないかということだ。
「安心したまえ。マルティムを外部から国内に流入させたこと、薬物密売に加担していたこと、組織から違法な資金を調達していたことは全て認める。君達警察の求める証言は全てすると約束しよう。それは国会での証人喚問の場においても同じことだ。」ジョージは言う。
自らの手元に集まった資金の用途については一切口を割るつもりはないらしい。おそらく第六の奇跡の最後に姿を見せたアンジェリカという少女についても同様だろう。ウォルターはそう確信した。
「君は約束を違えない男だったな。就任時の経済公約に関しても、方法を間違えながらも目標は果たしている。」
「身を焦がすほどの情熱に空回りはつきものだ。己の間違いに気付いた時には全て手遅れだったとも。だが言い訳はしない。私は私の罪を余生全てをかけて償うと決めた。私が判断を違えたことで失われた人命に対する贖罪もな。」
静かに目を閉じ、祈るような姿勢を取るジョージを見据えてウォルターは短く言った。
「そうか。」
その言葉の短さとは裏腹に、ウォルターの内に秘めた心情というものが詰まっていた。
* * *
打ち返す波の音だけが響く白砂の浜辺。昼下がりの太陽の光が降り注ぎ海面に反射する煌めきが眩しいこの場所にロザリアとアシスタシアは訪れていた。
2人が砂浜を踏みしめるたびにきゅっきゅという砂鳴りが聞こえる。
「ロザリア様、このような場所に何があるのですか?」
目的を告げることなくこの地を訪れたロザリアに同行していただけのアシスタシアは気になって尋ねた。しかしロザリアが質問に答えることはない。
仕方なくアシスタシアは彼女の後について歩いていった。
そして砂浜に足を踏み入れて少し歩いた先、丁度木の陰になって見えなかった場所が視界に入った時、アシスタシアはロザリアがこの地を訪れた理由を悟った。
ロザリアは波の打ち返す浜辺から少し離れた小岩に座る1人の少女に話し掛ける。
「浜辺を歩くのは久方ぶりでしたわ。とても懐かしい気持ちになりますわね。」
少女は返事をしない。
「遠い昔、まだわたくしが今は無き故郷へこの身を置いていた頃のお話。その地には大きな浜辺とは離れた場所に、丁度この場所とそっくりな小さな浜辺がありましたの。誰も近付くことのない閑静な浜辺で、今と同じように波の打ち返す音だけが響き、太陽が海面を反射して煌めく様子をずっと眺めていられるようなところでしたわ。そう、1人きりで考え事をするにはとても相応しい。」
海を眺めながらそう話したロザリアは少女の隣に腰を下ろして言った。
「わたくしは1人きりになりたいと思った時、よくその隠れた名所ともいえる浜辺に訪れたのですけれど、時折先に浜辺を訪れている子がいましたの。とても美しい桃色の髪をした少女で紫色の瞳でじっと海を見つめて考え事に耽る様子が今でも印象に残っていますわ。」
アシスタシアはすぐ傍らで話を聞きながら佇む。自分の知らない遠い過去の話。
ロザリアが自身の過去を話すことは珍しい。生まれてからずっと彼女の傍らで過ごしてきた自分ですら彼女の過去は知り得ない。
「岩陰から眺めていただけのわたくしには彼女がその時何を思い、何を考えていたのかを知る機会はついぞ訪れることはなかった。けれど、今でも時折思うことがありますの。あの時、わたくしたちは言葉を交わしておくべきだったのではないかと。」
ロザリアがそこまで言の葉を重ねても隣に座る少女は無言を貫く。しばしの間無言が続く。
しかし、波の打ち返しが十を数えようとしたその時、隣に座る桃色髪の少女は口を開いた。
「貴女が昔見たその子は、きっと自分というものの在り方に悩んでいたんだと思う。迷っていたんじゃないかな。」
「そう。では、あの頃あの浜辺に訪れていたわたくしと同じですわね。」そう言ってロザリアは笑った。
彼女の様子を見た少女は大きな溜息をつきながら呆れたように言った。
「つい先日まで必死になって人のことを殺そうとしていた輩が何の用よ。もう用事なんてないでしょう?」
「いいえ、ひとつ尋ねておこうと思って。アンジェリカ、貴女はなぜ大統領を助けたのでしょう?アヤメさんとアイリスの裁きを彼が受ける結末を望んでいたはずではありませんの?」
「気まぐれよ。その方が面白いと思ったからに決まってるじゃない。大罪に加担した人間が生きたまま長い余生を苦しみと向き合って生きなければならない。苦しみにもがく人間の姿を眺めるのってぞくぞくしちゃう☆」
とても楽しそうにそう語るアンジェリカをロザリアは横目に捉える。そしてロザリアが返した言葉はその場の誰もが想像していないものとなった。
「貴女、実はマゾですの?」
「は?突然何を言い出すのよ?バカ司教。それにこの場合、普通は反対のことを思うでしょうに。」呆気にとられ思わずロザリアの顔を見て言った。
「あら、ようやくわたくしの方を向いてくださいましたわね。いえいえ、お気になさらず。楽しそうに語る貴女の瞳の奥に羨望の念が垣間見えたものですから。てっきり罪を償い生きる大統領の姿が羨ましいのかと。そう錯覚してしまいましたわ。」ロザリアは笑いながら言う。
「そういう貴女の瞳の奥には他人を痛めつけることに快楽を感じているような光が見えるわよ。求められる答えばかり言ってたせいで、本音を話せない苦痛から生まれた歪んだ性癖なのかしら?」
「ご冗談を。」美しい青い瞳をアンジェリカに向けて言う。笑ってはいるがあまり冗談を聞いているという目とは言い難い。
「聞きたいことはそれだけ?ならさっさとあっちに行ってちょうだい。ちょっとアシスタシア。貴女もこの女に何とか言ってやりなさいよ。保護者でしょ?」
「なぜ私が貴女の指図で行動の在り方を定めなければならないのか理解に苦しみます。」
「私が絶対の法だからよ。でも、貴女達には通じなかったわね。お堅い返事をどうも。せっかく一人きりで海を楽しんでいたというのに台無しだわ。調子狂うわね。」
「あら、そうですの?このような歓談こそ貴女が欲していたものかと思ったのですけれど。」
「何が歓談よ。これのどこが打ち解け合った楽しい会話なの?やっぱり私に喧嘩を売りに来たんでしょう?」
「とんでもない。そんなことをしたら今度こそ貴女が死んでしまいます。」笑顔をふっと不敵な笑みに変化させてロザリアは言った。
「この女ァ!ぐぎぎぎぎぎg!」唇を噛み締めながらなんとも言えない表情を浮かべながらアンジェリカは悔しがっている。
その表情は一昔前に流行したあの絵文字にそっくりだ。確か “ぴえん” といっただろうか。
「落ち着いてください。耐えないと本当に死んでしまいますから。」諭すようにアシスタシアは言う。
「あんたも私に喧嘩を売りたいの!?」なだめられついでに貶されたアンジェリカは素っ頓狂な声で叫んだ。
「ふふふ。賑やかで楽しいですわね。」
「どこがよ!」視線を海に戻し、不貞腐れた表情を浮かべながらアンジェリカは言った。
そしてロザリアも視線を海に向けて話した。
「わたくしはただ “絶対の法” を “自身に” 課してまで大統領へ生きるように言った貴女の心変わりの真相が知りたかったに過ぎませんわ。それと、一度こうして会話をしてみたかったというだけのこと。深い意味はありませんわね。」
そこまで言い終えるとロザリアは腰を上げて立ち上がった。金色のなめらかな髪が海風になびき広がる。
「では、わたくしたちはこれで。今度はどこか別の場所でお会い致しましょう。」
「出来れば二度と会いたくないわよ。」ぷいっと視線を遠ざけながらアンジェリカは悪態をつく。
「まぁそう言わずに。そう遠くない内に再び相まみえることになるのでしょうから。」
「行くならさっさと行きなさい。」
ロザリアは最後に微笑みを投げかけて後ろを振り向き、アシスタシアを伴って砂浜を後にした。
一人で砂浜に残ったアンジェリカは遠い海の向こう側を眺めながら過去を思い出していた。リナリア公国で過ごしていた頃、一人きりで誰もいない浜辺に行って物思いに耽っていた時のことだ。
当時は浜辺では考え事に没頭しているか何も考えずに海を眺めているかだったので、その場によくロザリアが訪れていたことは気付きもしなかった。
『あの時、わたくしたちは言葉を交わしておくべきだったのではないかと。』
アンジェリカはロザリアの言葉を思い返す。
先程の賑やかな会話は一人ぼっちだった自分が求めていたものだったのだろうか。楽しそうに遊ぶレナトやイベリス、共に交友を深めていたマリアやアイリスを横目にいつまでも一人きりだった自分が本当に欲しかったものはそういったものだったのだろうか。
もし、あの頃に今みたいな関係を彼女なり誰かと築くことが出来ていれば或いは…そんな考えが頭を一瞬よぎったがすぐにかき消す。
「変わらないわよ。私は私。これが私に与えられた運命。定められた絶対の法。この先だって変わることなんて…」
独り言をつぶやく。
その後もアンジェリカは座り込んだまま、日が傾いて日暮れが訪れるまでその場から動くことは無かった。
* * *
第六の奇跡を終えてから一週間が経過し、以前に比べれば身の安全が確保された今でもアヤメは毎日を自宅で過ごす日々を送っていた。
一連の奇跡が終わり、薬物組織が解体されたからといって組織に関わりを持っていた全ての人間がこの国からいなくなったわけではない。
薬物を売ることで金銭を稼いでいたような輩はその道が絶たれている。彼らが逆恨みからアヤメに襲い掛かる可能性も残されている点を考慮し、しばらくの間は今まで通り外出を控えて欲しいという警察の要請に応じているのだ。
アヤメが昼食を終えて自分の部屋でくつろいでいるとドアをノックする音が響いた。
『アヤメ、少しお話しましょう。下まで降りていらっしゃい。』母親の声だ。
「分かった。今行く。」
アヤメが扉を開けると部屋の前にはまだサユリが立っていた。
「さぁ、行きましょう。」優しい微笑みを浮かべて言うサユリにアヤメは頷いてついていく。
2人が階下に降りるとリビングには既にダニエルが座って待っていた。
「くつろいでいる所悪いな。今日はお父さんとお母さんからアヤメに大事な話をしようと思うんだ。」ダニエルが言う。
「大事なお話?」
「そう。今まで気付いていて話せなかったことだ。さぁ、こっちへ来て座りなさい。」
「うん。」ダニエルに促されたアヤメはいつも自分が座っている椅子へと腰掛けた。
サユリも席に座り、家族3人が揃ったところでダニエルが口を開く。
「第六の奇跡からアヤメが無事に帰ってきてくれたことをお父さんもお母さんも嬉しく思っている。本当は怖かった。第一の奇跡から第二の奇跡までは実感が湧かなかった。でも第三と第四の奇跡を通してアヤメがマリア様のお告げを通して行おうとしている奇跡の大きさに不安を感じた。」それは今まで父ダニエルと母サユリが娘に告げたことの無かった心からの本音であった。
「第五の奇跡を前にした9月。機構の人たちを家に招いて話をした時、こっそり聞いていたね?」ダニエルが言う。
「気付いてたんだ。」
「あぁ、気付いていたよ。そしてアヤメが私達に一つ隠し事をしていることも知っている。」
「隠し事?」父の言葉にふいを突かれたアヤメは思わず聞き返した。
「いや、隠し事というのは少し違うな。そうだね、今ここで話す会話は私達 “4人” で共有したいと思っている。」
その瞬間、アヤメはダニエルが何を言おうとしているかを悟る。厳密にはアイリスの中にいるアヤメは両親が何を言おうとしているかを悟ったのだ。
「アヤメ…いや、アイリスちゃん。この呼び名で合っているかい?」
驚きの表情を浮かべたまま固まるアヤメにダニエルは続ける。
「もっと厳密に言うと今その体はアイリスちゃん、君のものになっている。」
「いつから?いつから気付いていたの?」否定することなくアイリスは言った。
「1年ほど前になるわね。貴女の部屋の前を通りがかった時に偶然話す声が聞こえたのよ。最初はお友達と電話をしているのだと思ったけど。ごめんなさい。盗み聞くような真似をしてしまって。」サユリが言う。
「確信が持てたのはそれからしばらく経ってからのことだった。私とお母さんで話し合った時に同じ考えを共有できた。同じ結論に達した。アヤメの中には私達の知らない誰かがいるのかもしれないと。」ダニエルは言った。
その時、アイリスは両親の心の声を聞いた。とても温かくて優しい声。そして慈愛に満ちた心の色。遠い昔、自分に手を差し伸べてくれた人と同じような温もりを。
「聖母の奇跡。あれは君とアヤメの2人で起こしたものだね。もし、差し支えなければ私達に教えてくれないかい?奇跡を起こそうと思った理由を。アイリスちゃんが何を思って、アヤメが何を考えてあの奇跡を行うに至ったのか。聖母マリア様の御心や声ではなく、私達は君の心に向き合いたいと思っている。」ダニエルは穏やかな表情でアイリスに言った。
「気付いていたのにずっと気付いていない振りをしていた。貴女が語らないことを私達が語るのは、心の中に土足で踏み込むような気がしていたのよ。でも本当は違った。ただ向き合うことを怖がっていただけなのかもしれない。奇跡が全て終わった今だからこそ、私達は改めて貴女に向き合う必要があると思っているのよ。だって私達は、 “家族” なんだから。」
サユリの言葉を聞いた瞬間、アイリスは今まで感じたことの無いような感情が湧き上がってくるのを感じた。
自身の両親を思い出すような温もり。そして敬愛する大好きな人を思い起こす優しさ。その言葉と、心の声と、心の色に触れた瞬間、どう表現していいのか分からない感情が込み上げてきた。
アイリスの瞳からはぼろぼろと涙が溢れ出る。
意識していなかった。今まで、ダニエルとサユリのことはアヤメの両親という認識であり、赤の他人であり、自身とは直接関係のない人だと思っていた。
しかしそれは間違いだった。そう思っていたのは自分だけだったのだ。アヤメが自分のことをかけがえのない家族だと認めてくれていたように、アヤメの両親であるダニエルもサユリも自分のことに気付いた上で本当の娘だと思って接してくれていたのだ。
なんと愚かだったのだろう。目に見えないものを見ようとしなかった自分の浅墓さをアイリスは悔いた。
目の前で突然ぼろぼろと泣き出した娘の姿を見たダニエルとサユリは顔を見合わせる。
そして椅子から立ち上がった2人はアヤメの傍に歩みより、小さな身体をそっと抱き締めた。
* * *
機構では一連の任務を終えたマークתのメンバーが大西洋方面司令へ向けて帰還する時間が近付いていた。
奇跡による異常気象調査を共に行ったハワードとその艦隊は、別任務へと就くためにマークתより一足早くミクロネシア連邦支部を離脱しセントラル2へと帰投している。
そして間もなく、マークתのメンバーはミクロネシア連邦支部から出発する。
「皆さん、今回の事件へのご協力ありがとうございました。」リアムが支部の隊員を代表してマークתのメンバーに挨拶をする。
「こちらこそ支部に到着してから今までの2か月弱の期間、最大限度のサポートをしてもらったことに感謝している。」ジョシュアがリアムと固い握手を交わす。
続いてルーカス、玲那斗、フロリアンと順に握手を交わし、最後にイベリスもリアムと握手を交わした。
「モーガン中尉、お元気で。」
「ありがとうございます。」イベリスの挨拶にリアムは笑顔で返事をした。
ふとリアムの後ろに目を向けると、いつの間にかイベリスの見送りに来た支部の隊員たちでごった返し状態になっている様子が見て取れた。
格納庫の警備担当とドローンが隊員の波をせき止めているようだ。
そんな光景を見たイベリスは彼らに向かって笑顔で手を振り、気付いた隊員たちは大歓声を送る。
「相変わらず大人気だな、イベリス。」冷やかし気味にルーカスが言う。
「最初は私という存在が受け入れてもらえるのか不安だったけれど、支部のみんなの温かさに囲まれて幸せな気持ちよ。」
「えぇ、皆さんならいつでも大歓迎です。今度は調査ではなく観光でミクロネシア連邦へいらしてください。情勢が落ち着くまでしばらくかかるかもしれませんが、その際にはぜひ。雄大な自然を存分に楽しめると思います。」
イベリスの言葉にリアムは言った。国の現状を思って最後は少し声のトーンが下がったが、彼が今できる精一杯の笑顔を向けてくれたことだけはよく分かった。
「では、我々マークתはこれよりセントラル1へ帰投する。全員、敬礼。」ジョシュアの号令で隊の一同は支部の隊員達へ敬礼を行った。
リアムと、先程までイベリスに色めき立っていた後方の隊員たちもピリッとした空気を纏い敬礼を返してくれた。
物資の搬入も完了し、出発準備を整えたマークתは各自がヘリへと乗っていく。
全員の搭乗を確認するとジョシュアが出発の指示を出した。
「コード:AOC C1M 0022より、POCミクロネシア連邦支部 中央管制へ。マークתのジョシュア・ブライアン大尉だ。これより同支部よりセントラル1へ向けて出発する。誘導の開始をされたし。」
『中央管制よりマークתへ。識別コード照合。ヘルメスによる認証確認。プロヴィデンスより応答、認証クリア。管制誘導システムへの接続、異常無し。ミクロネシア連邦領空離脱までの間の飛行ルートをこちらで提示します。尚、格納庫ゲート解放からルートで提示したポイントまでの操縦はこちらからオートコントロールしますのでしばらくゆっくりなさってください。』
「了解した。オートコントロールモードにて待機。後を宜しく頼む。」
『コントロール待機を確認。接続完了。これより誘導開始します。それでは皆様、お気をつけて。』
中央管制との通信を終えるとヘリはオートコントロールで格納庫飛行ゲートまで誘導され、自動で離陸をスタートした。
後は飛行ルート上に示されたポイントまでは中央管制からのリモートコントロールとオートパイロットの複合システムにより航行することになる。
「いざ別れを告げるとなると寂しいものだな。」ジョシュアが呟く。
「はい。あっという間の2か月弱でした。色々ありましたし、最後の奇跡の後でイベリスが姿を消したときは正直焦りましたが。」
「心配したが無事で良かった。イベリスは初めての任務にも関わらずよくやってくれた。特級の大活躍だったな。」ルーカスの言葉にジョシュアが頷く。
「ありがとう、みんな。そして心配をかけてしまってごめんなさい。力み過ぎは良くないわね。色々と勉強になったわ。初めての任務でとても疲れたから、帰ったら肩たたきでもしてもらおうかしら?」茶目っ気たっぷりにイベリスが言う。
「そういうのは旦那にしてもらうんだな。」笑いながらルーカスは言った。
「おばあちゃんか…」
「まぁ、玲那斗ったら。レディの前でデリカシーの無い。」離れた操縦席に座る玲那斗のぼやきにイベリスはすかさず反応する。
地獄耳か…玲那斗は重ねて言おうと思ったがぐっと堪えた。
「これはもう肩たたきだけでは足りないわね。セントラルの美味しいスイーツをたくさんご馳走してもらおうかしら?」
玲那斗の隣まで瞬間移動してきたイベリスは甘く囁くような声で言う。密閉された空間で彼女の近くにいるとキャンディのような甘い花の香りがしてとても心地よく心がほぐされていくような感覚を覚える。
「はいはい。」しょうがないという風に玲那斗は返事をする。
「はい、は1回で良いの。」
「これが貴族の厳しさというものか。」彼女の指摘を爽やかに玲那斗は受け流す。その様子を見ていたフロリアンが言う。
「あまり関係ない気が…それより、美味しいスイーツなら最近セントラル内に新しくオープンしたスイーツ専門店がありますよ。欧州各国からアジアに至るまで世界中のお菓子がたくさん置かれているそうです。何でも機構が難民として受け入れた方々の中の職人さんたちが集まって開かれたお店みたいですね。」
「なるほど、セントラルもさらに賑わうな。しかしその店、どちらかというとルーカス好みの店なんじゃないか?」フロリアンの提案を聞いた玲那斗は笑いながら言った。
「日本の和菓子が置いてあるならぜひ買い占めたいな。羊羹や外郎が置いてあるかチェックだ。」真剣な眼差しでルーカスが言う。
「一緒に行きましょう、ルーカス。勘定は玲那斗が持つから。ヘルメスでお店の情報を見ることは出来ないの?」今度はルーカスの隣に瞬間移動をして満面の笑みを浮かべながらイベリスが答えた。
「よし、玲那斗。うちはアップルパイを頼む。家族が好きなんだ。」明後日の方向からジョシュアが注文を出す。
「では僕はアプフェルシュトゥルーデルをお願いします。」フロリアンも乗る。
「何だって?すまない、もう一回言ってくれ。」
「りんごの渦巻きパイをお願いします。」聞き取れなかった玲那斗にフロリアンは笑顔で答えた。
「玲那斗、私達はタルタ・ディ・サンティアゴにしましょう。」
ルーカスにメニュー表を見せてもらったイベリスはアーモンドケーキにパウダーシュガーで十字架の模様を描く特徴をもつスペイン、ガリシア州名物のケーキをリクエストした。
彼女のリクエストを聞いた玲那斗は笑みを浮かべながら、先程の注意を軽く受け流した返事で答えた。
「はいはい。ロイヤルミルクティーを添えて、な。」
賑やかな会話が続くヘリは支部の格納庫ゲートを通過し、徐々に高度を上げる。
規定高度まで到達した機体は速力を上げてセントラルへと向かって飛行を開始した。
大西洋方面司令管轄外区域での長きに渡る彼らの任務は終わりを告げたのであった。
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