第20節 -アイリス・プロセス-
午後6時。夕方から降っていた雨も上がり、再び顔を出した太陽も西へ沈みゆき、大地はいつもと同じように暗闇に包まれようとしている。
ミクロネシア連邦における初めての現地調査を終えたマークתの一行は支部へと戻り、ミーティングルームでハワードとリアムを交え、それぞれが持ち帰った情報の報告を行っていた。
「ナン・マドール遺跡から得られた成果は以上だ。要するに新しい発見は何もない。」報告を終えたジョシュアが言う。
「ふむ。大聖堂跡地もナン・マドール遺跡も場所そのものに関する手掛かりは無いということか。」二手に分かれたそれぞれから報告を聞いたハワードが考え込む。
「だが良い成果でもある。繰り返し調査を続けて “何も無いということが分かった” というのは大きい。こうなると全ての鍵を握るのはもはやあの少女に限定されたと言ってもいい。」
「彼女とそう簡単に接触できる機会も無いだろう。話をするとなると政府に確認して…」ジョシュアの言葉にハワード答えかけた時、イベリスが手を挙げて言った。
「あの…すみません。今日アヤメちゃんと私達は直接会って色々な話をしました。」
ハワード、リアム、ジョシュア、ルーカスの視線がイベリスに集まる。
玲那斗とフロリアンは互いの顔を見合わせた。
「私達が大聖堂跡の調査を終えて、玲那斗とフロリアンが調べたことをまとめているときに彼女から私達に話しかけて来たんです。『お話がしたい』と。」
「詳しく聞かせて欲しい。」身を乗り出すように前のめりでハワードが言う。
「イベリス、ありがとう。続きは私から報告いたします。」玲那斗がイベリスに変わって報告を引き継ぐ。
「彼女と主に会話をしたのは私です。」玲那斗はそう言うと、アヤメが自分達に話しかけてきてから自宅へ送るまでの出来事について詳細に報告をした。
奇跡で起こる現象に直接関わる内容として、車に搭載したドライブレコーダーが撮影した “アヤメが自らの意思で警官を狙って電撃を浴びせる瞬間の映像” をヘルメス経由で取り出し全員へ共有した。
「彼女から話をしてきてくれたとは驚きだな。しかも昨日のご両親との話を全て見ていたとは。そのような気配は最後まで感じなかったが。」驚きをもった表情でハワードが言う。
「帰りがけに私とアヤメちゃんは視線を合わせたわ。彼女は二階の壁際にいて、私と視線を交わした後はすぐに隠れてしまったのだけれど。」イベリスが昨日の帰り際のことを伝えた。
「早速隊長のギャンブルの成果が出ましたね。」ルーカスがジョシュアに言う。
「どういうことでしょう?」リアムが問う。
「朝のミーティングの時に彼女が通う学校がポーンペイ大聖堂跡地のすぐ傍にあると言っていただろう?1日を通して調査を行えば、彼女と直接出会える機会が万が一にでもあるのではないかと思ったんだ。その機会が訪れる可能性を考えればイベリスが跡地にいる方がきっと良いだろうと踏んでメンバーを振り分けたという話だ。」
「なるほど。ナン・マドール遺跡にイベリスさんが向かわれる方が良いのではないかと私は漠然と思っていましたが、そういった理由でしたか。結果としては最高の成果ですね。」ジョシュアの答えにリアムは深く納得した様子だ。
「それはどうかしら?私は彼女とあまり深く話していないし、どちらかと言うと玲那斗に懐いているようだったけれど。」
少し膨れた表情でイベリスがそう言った時、すぐ近くでフロリアンは妙な居心地の悪さを感じた。
やはり車中での出来事はまだ尾を引いているに違いない。
しかし、あの状況を第三者目線から見ていると彼女が本当の意味で興味があったのは姫埜中尉ではなく実際にイベリスではなかったのかという予感もあった。
アヤメがことあるごとにイベリスに対して意識的に視線を送っていたように見えたのが理由だ。
反応を窺う為に敢えて本人ではなく姫埜中尉と話をしていた。そう思えて仕方ない。
駆け引きなのか、なぜか中尉に対してだけ「玲那斗」と名前で呼ぶという行為をしているし、やたらと距離感を意識しないやり取りをしていたようにも思える。
イベリスの言うようにただ中尉に懐いているからなのか、それとも “わざと” なのか。
見立て通り、仮にわざとだとすればそれは間違いなくイベリスの反応を見る為だろう。昨日の帰り際にイベリスとアヤメだけが視線を合わせたというところも妙に引っかかる。
しかし何の為に?
その答えが分からない以上は何とも言えない。不確定要素しかない状況で余計なことを口に出すわけにもいかない。
せめてもう一度だけ彼女と話す機会があれば…
フロリアンはそう思った。
「何はともあれ、確かに完璧に近い成果であることに違いはない。奇跡が起きた2つの場所に異常は無く、アヤメ本人の持つ力によって本人の意思で奇跡を起こしているということまでは掴めたわけだ。」ハワードも深く頷きながら言う。
「狙った場所に電気を流すなんて芸当が現実にできてしまうとはな。俺達にとっては今さら驚くことでもないが…いや、驚くべき事象ではあるのか…」何とも言えない表情を浮かべながらジョシュアが言う。
「姫埜中尉の機転で残された映像は十分過ぎる証明映像だ。あとは彼女にそのような力が備わっているとして、奇跡の再現を行う為にどういう絡繰りを用いているかの解明に取り掛かろう。」
「内からは見えて外からは見えない。その謎についてですね。」ハワードの言葉にルーカスが答える。
「そうだ。現地からは明らかに観測できる異常気象が、衛星などによる外部観測では一切の異常が検知できないという事実。そこさえ解明できれば根本的な対処も可能になってくるだろう。」ハワードが同意する。
「彼女に聞いて答えてくれれば一番早いが…そうはいかないだろうな。」ジョシュアが言う。
「はい。こればかりは彼女本人に聞いて答えるとも思えません。我々に教えてしまえば止められるだろうと考えるでしょうから。」その言葉にリアムは頷き、ジョシュアがその先に待つ懸念を話す。
「運よく理屈を解明できたとして本当に止める手段があるのかどうかも問題だ。」
どういった状況に転がるにしても解決しなければならない課題や問題は山積みである。
「とにかく目標を絞ることが出来たのは良い。いつでも話に来て良いと彼女から言われたというのも好材料だ。どこまで答えてくれるのか、またそのことについて政府や警察がどういう見解を示すのかにもよるが。」隣で聞いていたハワードが言う。
「私達に最初近付いてきた警官は何らかの連絡を受けて私達に護衛と送迎をお願いしてきました。詳細はわかりませんが、彼らの上に立つ者の指示ではないかと思っています。」
「上からの指示というものが警察によるものなのか、政府によるものなのかにもよるな。その辺りもやや気になるところが無いわけでもないが、今は置いておこう。」玲那斗の言葉にハワードは答え、内容が十分に煮詰まったところで報告会の終わりを告げる。
「各自が持ち寄った情報やデータの共有は出来たな?では、本日の報告会を終了しよう。1日ご苦労だった。明日からも引き続き調査を進めていこう。
ハワードの会議終了の合図により全員が席を立とうとした時、リアムが全員を制止して言った。
「少しお待ちを。皆さんの大事な休暇についてのお話をさせてください。勤務シフトについてですが、皆さんのヘルメスにそれぞれ日程データを送信しておきました。明日からの行動についてはシフトも確認して調査計画の打ち合わせを行ってください。それとオフの日は外出や買い物、観光など何をされても自由です。しっかりと息抜きをなさって頂ければと思います。」
リアムの言葉に全員がそれぞれ返事をして報告会は終わりを迎えた。
* * *
日が沈みゆく空。雨上がりに赤く染まる夕焼けが徐々に光を失い夜が近付く。
自宅のベランダで海から吹き抜ける風を受けつつアヤメは静かに遠くの景色を眺めていた。
何があるか分からないからベランダには立たないようにと警察からは言われている。しかし、 “何も聞こえない限り” 平気だ。アヤメはそう思っている。
悪意を持った人物が周囲にいるとすればすぐ分かる。
他人の心の声が直接聞こえる自分にとって、そういった類の悪意を持った声が聞こえて来ない限りは何も起きないのだ。
コンパティア・エモシオネス《感情共有》。
昔はこの力が嫌いだった。
現代風に言えばエンパシーともいえるこの能力によって、自分には他人の声を聞き取ることが出来るし、自分の意思によって自分の声を他人に直接語り掛けるように伝えることも出来る。
聖母の奇跡を起こす際、現地に集う数多の人々全員が聞き取れるように声の伝達が出来るのは実の所はこの力によるものだ。
今から千年も昔。誰にも話したことは無かったが、まだ自分の肉体を持ってリナリア公国で生活をしていた頃から自分にはそういった他人の心の声が聞こえていた。そして声と合わせて人の心の色が見えていた。
しかし、おおよそ聞こえてくるのは貴族同士の小競り合いや腹の読み合いなどというどうでもいいことばかり。周囲の大人達の考えていることなど自分の身可愛さの身勝手な暴論でしか無かった。
毎日毎日繰り返されるのは誰が気に入らないだの、誰が悪いだのといった声ばかり。いくらうわべの表情で取り繕ったところで自分に対しては誰も本心を隠すことが出来ない。
大人の中で違ったのは島の七貴族を取りまとめていた当時の王家であるガルシア家の当主と母親くらいのものだろうか。その娘であるイベリスも然り。
彼ら王家の人間は当時から本当の意味で国の民のことを思って執政を行っていたと思う。優しく慈愛に満ちた声と考え方。
そういった素晴らしい環境で育てられたイベリスがあのように育つのもまた道理というものだろう。
イベリス、イベリス…そう彼女はとても清らかな心の持ち主だ。
両親が他の大人達と違うように、そんな高潔な両親に育てられた彼女もまた高潔な心の持ち主である。
真心を持ち、誰よりも優しく、慈愛に溢れ、この世界を誰よりも尊び、その美しさを心から愛していた。
そんな彼女のたった一つの隠し事といえば次期国王と言われたレナトと昔から想いを寄せ合っていたことだろう。
相思相愛だった二人は最終的に国家公認の上で婚約関係に落ち着き、清廉なる彼女のたったひとつの願いは叶うことになる。
しかし、その一方で同じくレナトに想いを寄せていた人物に対してそのたったひとつ願いを隠し続けなければならなかったことは辛かったに違いない。
イベリスには親友がいた。美しい金色の髪と宝石のように輝かしい赤い目を持つ少女。オルティス家の一人娘、マリアである。
マリア・オルティス・クリスティー。
私が心からお慕いする親愛なるお姉様。
レナトとイベリス、そしてお姉様は毎日のように3人で仲良く遊んでいた。その光景を私は木陰からただ眺めることしか出来なかったわけだが、その中でレナトやイベリスの心の内に秘めた言葉というものはよく聞こえてきたものだ。
特にイベリスからは彼女に対する申し訳なさ。そういった感情があったのだと思う。イベリスは彼女の恋愛感情に気付いていながら知らない振りを貫き通した。
抱く必要のない罪悪感を心の内に秘めていた。
私にはそうした三人の関係が少しだけ不憫に思えた。お姉様はきっと目の前の二人の関係については承知していたと思う。1人だけ寂しそうなお顔をされることが稀にあった。
しかし、不思議と私にはお姉様の心の動きや内で思う言葉が聞こえたことが無い。そう、私には世界でたった2人だけ “心の声を聞くこと” が叶わない相手が存在することを知っている。
1人はマリアお姉様。もう1人は早くに島から外国へ渡った才女、ロザリア。
魂の色は読み取ることは出来ても彼女達の心の内に秘めたる本音という声は聞くことが出来た試しがない。
そういったこともあって私にはマリアお姉様という存在はある時からとても気になる存在となっていた。
ある日、私がいつものように木陰に佇み、遠くで楽しそうに遊ぶ3人を眺めていた時のこと。
一瞬だけお姉様は私に視線を向けた。その時初めて彼女と目が合った。
とても美しい瞳。わずか一瞬視線が合っただけで私は彼女に強い憧憬の念を持つに至る。
また別の日の夕方。レナトとイベリスと別れ、自宅へと戻ろうとしていたお姉様は私が木陰に佇んでいることに気付くと、その歩みを私の方へと向け近付いてきてくださった。
近くまで歩み寄ってきたお姉様は膝を折り、私に目線の高さを合わせてこう言った。
「貴女がアイリスね。こうして言葉を交わすのは初めてかしら?いつも私達を木陰から見ていることは気付いているわ。」
可愛らしい笑顔でそう言う彼女のあまりの美しさに私はただ息を呑むことしか出来なかった。何も言葉を出すことが出来なかった。
憧憬の念を抱く方が自分のすぐ目の前にいらっしゃる…そして話し掛けて下さった!それだけで心臓の鼓動が早鐘を打つ。
「あら?緊張しているの?それで私達に話しかけて来ないのね。」彼女はそう言うとさらに柔らかく微笑んでみせた。
夕日に重なるその笑顔がとても眩しくて、とても印象的で…今でも夕日を見る度に彼女の笑顔を思い出す。
次にお姉様は何も言わずに私にそっと手を差し出してくださった。そしてただ一言こうおっしゃった。
「一緒に帰りましょう。」
私はここに至っても言葉を発することが出来ず、ただ何度か頷くことしかしなかったと思う。あまりのことに頭の理解が追い付かず、その時どんな行動を取ったのかすらもはや覚えていない。
ただひとつ覚えているのは私の手を繋いで歩いてくださったお姉様の手はとても温かかったこと。あの手の温もりは、肉体を失った今でも感覚として思い出すことが出来る。
嬉しかった。自分から何も出来なかった私をきちんと見て下さって、そんな何も出来ない私に何も聞かずに手を差し出して下さった。
あの日以来、私はマリアお姉様を心からお慕いするようになった。
お姉様がレナトやイベリスと一緒に遊んでいない時はお話する機会も増えた。二人の関係について何かをおっしゃることはなかったけど、自身の将来はきっと今の世の中で定められたありきたりなものになるんだろうとよく口にされていた。
私はそんな “ありきたり” を愛した。お姉様と共に過ごすありきたりな毎日を尊んだ。いつしかそれが私の全てになっていった。
この日常が永遠に続けば良いと心から願った。でも…
歴史を歩み続ける世界はそれを許さなかった。
領土拡大戦争レクイエム。
リナリア公国はその戦火に巻き込まれあっという間に滅亡の道を辿る。
公国が戦火に包まれたその日の夜、焼け落ち蹂躙される祖国をこの目に焼き付けて私は家族と共に船で外国へと渡った。国家が事前に定めた密約による脱出路の確保。それが功を奏したらしい。
私達貴族の子供は全員がそれぞれの船で国外へ脱出した。ただ1人、イベリスを除いて。
彼女は王家の人間と同じく国と共にその生涯に幕を閉じることを選んだ。
子供たちの内、元々ヴァチカンへと渡っていたロザリアは除いて、次期国王レナトとマリアお姉様は同じ船で同じ国に、私ともう1人の子供はそれぞれが家族と共に別々の船でそれぞれ別の国へと散っていった。
もう1人子供はいたはずだが、その子だけはどういう経緯を辿って脱出したのかは定かではない。
そうして公国が滅亡を迎え、全員が国外へ散らばって生活をしてしばらくが経った頃、私は両親から信じられないことを聞いた。
マリアお姉様が近くの村まで引越して来られたというのだ。特に理由を聞いたわけではないが当然私は喜んだ。
親愛なるお姉様がすぐ近くにいる!
そう思っただけで心に虹がかかったように晴れやかな気持ちになった。
私は逸る気持ちを抑えながら両親からお姉様がいる村のことをしつこく尋ねて聞きだした。2人が困ってしまう程に。
そうして分かったのは、お姉様が越してきた村は自分達が過ごす村周辺の中ではとても貧しい地域の村であることと、その村は私がいた村から見ると西へ進んだ先にあることだった。
そう遠い距離ではない。私はそう思っていた。途中で村と村を遮る森を抜ける必要があるが、通り抜けるのはそれほど難しいことも無いだろう。
お父さんとお母さんはお姉様とその両親を迎えに行く計画を立てて、書簡でそのことを伝えていたが、私は待ちきれなかった。
ある日、どうしても我慢が出来なくなった私は両親に遊びに行ってくると嘘を吐いてその村まで向かった。
どれほど走り抜けただろうか。湖のある暗い森を抜け、私がその村へ辿り着いたときには既に日が暮れていた。
私はそんなことも気にせずに一心不乱に地図に示された場所まで走った。お姉様に会える。お姉様に会えるんだ。その思いだけで頭は一杯だった。
でも、私を待っていた現実は残酷なものだった。
お姉様とその両親が暮らしていた家は荒れ果てていて、とても人が住んでいる様子では無かった。
夜になるというのに内側から灯り一つ無く、静寂に包まれた冷たい景色。
私がその家の扉に手をかけて恐る恐る開くと鼻を突く異臭が中から漂ってきた。
部屋の奥に見えたのは、月明かりに照らされた彼女のお父さんの死体だった。冬が近づいてきていた季節ということで腐敗は進んでいなかったが、それでも周囲には蠅や蛆がたかっていた。もはや公国で存命だったころの面影はそこには無い。
言葉にならなかった。催してくる強烈な吐き気。まさかお姉様も既に…
あまりのショックでふらふらになりつつ外に出ると少し離れた場所に土が盛られているのを見つけた。
それが何であるかについてはおおよそ見当がついたが、近付いてみた時に私は再び絶望というものを心に刻むことになる。
土の上には、微かに読み取れる程度に私達の国の言葉でこう記されていた。
“親愛なるお母様”
“想い出は心の中で永久に”
お姉様が書かれたに違いない。そう直感した。
私は手の震えが止まらなかった。この地にはお姉様はもういない。この世界には彼女が愛した両親はもういない。きっとお姉様も既に…
私達が迎えに行く人々はもういない。全てが遅かった。
夕焼けに輝いていたあの笑顔を思い出す。私の手を繋いでくださったあの手の温もりを思い出す。
不思議と涙は流れなかったが、どうしようもない絶望だけが心を襲っていた。
力の入らない足で何とか立ち上がり、後ろを振り返ると遠くで蔑むような目をした大人達が私を見つめていた。
焦点が定まらなくなっていた目で “それ” を見つめ返す。
私には視界に捉えたその大人達が何を思っていたのかが分かった。 “聞こえた” のだ。
彼らの “心の声” が。
滅亡した国の忌むべき者。
村に災いをもたらす邪魔者。
ようやくこの地から消え去ってくれた。
そんな言葉だけが私の心に流れ込んできた。
そうだ。あの村人たちが3人を殺したんだ。
次々と流れ込む言葉の数々によって何もかもを理解した。奴らが3人にした仕打ちのその全てを。
私は血が滲むほど強く自身の唇を噛んだ。信じられない程の絶叫を上げたと思う。
その後のことは記憶にない。
次に私が気付いた時は自分の住んでいる村の入り口だった。
手も服も血まみれで、全身の感覚はあまり無い。
そうか、私が “殺した” んだ。私から心の拠り所を奪った者達を。
私が両親以外に唯一、この世界で心から慕っていた人を奪った人間達を。
どうやったのかは覚えていない。
私の姿を見つけた両親が泣きながら大慌てで私を抱き締めに来る。
この時、私は初めて涙を流したと思う。
もう二度と会うことの出来ない人を想いながら。
『アイリス?また昔のことを思い出しているの?』
心の中から響く優しい声で我に返る。夕焼け空は黒く染まり太陽は完全に沈んでいた。日の光の代わりに満点の星空が輝きだしている。
声の主はこの体の本来の持ち主、アヤメだ。
「アヤメ?ごめんなさい。ぼうっとしていたわ。夕焼けを見るといつも思い出すの。」
『マリアお姉様のこと?』
「そうよ。とても優しくて素敵な方だった。私が心からお慕いしていた親愛なるお方。」
『 “していた” ではなくて今でも “している” のでしょう?でも、その人に会う夢はもうすぐ叶うかもしれないわね。』
同じ体で意識を共有しているからだろうか。彼女には何でもお見通しらしい。
マリアお姉様が現代に生きているかもしれないと知ったのは数年前のことだ。
2031年のクリスマスにこの魂が現代に顕在化してしばらく経った夏のある日、2035年の7月のことだったと思う。ポーンペイ国際空港へ一機の飛行機が降り立った。
いつもの気分転換ついでに飛行場へ遊びに行っていたアヤメの意識の中で周囲を見ていた自分は、思いもよらない人物の姿を目撃することになったのだ。
そう、千年前に亡くなったと思っていた彼女。マリアお姉様である。
緩やかなウェーブのかかったブロンドゴールドの髪、ピジョンブラッドと呼ばれる最高級ルビーような美しさをもつ赤い瞳。まるで精巧に作られたドールのような均整の取れた美しい容姿に黒いゴシックドレスを纏った天使のような少女。
見間違えるはずがない。この世で自分が最も親愛の念を抱いた人物。憧憬の念は今でも消えることはない。
彼女はすぐ傍に顔をベールで覆った同じく黒い服を着た背の高い女性を連れ立って歩いている。
アヤメの意識の中でとんでもなく高揚してしまったのだろうか。体の持ち主であるアヤメが困惑と動揺を浮かべる程の歓声と喜びの絶叫を彼女の意識の中で上げていた。
結局、彼女の姿を目撃したのはその一度限りのことであったが、どういう経緯や理由であれ、この世界に彼女が生きているということはこれ以上ないほどの奇跡である。
それまでなぜ千年前に失われたはずの自身の魂が今の時代になって顕在化したのか理解できずにいたし、魂が顕在化したからといって現代に生きる意味を見いだせずにいたが、その一瞬の出来事だけで失われていた “目的” を見出すには十分だった。
過去のことや彼女のことについてはその日のうちに全てアヤメには話した。あまりに彼女のことについて嬉しそうに話したからだろうか。
驚いたような様子を浮かべつつもアヤメは自分の言葉を全て聞いて信じてくれた。
全てを話し終えて数日が経った頃、唐突にアヤメから自分にある衝撃の提案が出される。
アヤメとアイリスという自分達二人の意識を入れ替えようというものだ。
なぜそんな提案を突然したのか困惑した私はアヤメに理由を尋ねた。すると、彼女の口からは意外ではあるが真っ当で論理的な答えが返ってきた。
結論を言うと、彼女はこのミクロネシア連邦という国を蝕む大きな悪魔を追い出したいのだという。
最初は何のことか分からなかったが、話を聞く中で大きな悪魔とは危険ドラッグという薬物で人々を苦しめている組織だということを教えてくれた。
さらにそれらを何とかする為にはきっとこの国の政府や警察だけではどうしようも出来ないこと、自分一人でもどうにも出来ないことを順序立ててアヤメは話した。
国を苦しめている罪人を追い出すためには私のもつ力が必要であり、その為に協力してほしいと彼女は言ったのだ。
遠い昔に戦争で祖国を失った自分としては、愛する祖国の為に行動したいという彼女の想いは決して無視など出来ないと思った。
ここまでは提案におけるアヤメ側の利点と目的であるが、提示された案の利点はもちろんもう一つあった。
私が協力することの利点として、私が慕っている “彼女” に向けて自分が存在しているというメッセージを伝えたらどうかという提案をアヤメはしたのだ。
彼女曰く、私の崇敬するお姉様はおそらく国際連盟という組織に今は身を置く人物ではないかということだった。
お姉様の話をして数日の間、アヤメが何やら熱心に調べ物をしていたことは彼女の意識下の中で知っていたが、何を調べていたのかまでは分からなかった。
当時の彼女が調べていたのは、あの日この国へ誰がどんな目的の為に何をしに訪れたのかというようなことだったらしい。
その結果、非公式ではあるが、私がお姉様の姿を目撃した当日は政府と国際連盟の人々の間で薬物密売問題に関する現状報告や情報交換、そして今後についての話し合いが行われていたという事実を見つけたらしい。
非公式という理由からか大々的にメディアによって報道されることはなかったが、非常に小さい扱いとして報道していたのだ。
あの日空港に降り立った飛行機は、国際連盟に関係する使者を含めた人々を乗せたものだったようで、もしかすると彼女もその一員だったのではないかという話をしてくれた。
お姉様がされていた服装から考えると有り得ないような話だと思いもしたが、なぜか妙に信じられるような気もした。それはきっと確信に満ちたアヤメの話しの熱量によるところが大きかったのだと今では思う。
アヤメの提案を受けた私に迷いは無かった。そこには当然、お姉様ともう一度再会したいという自分の欲望もあってのことだが、何より自分の為にそこまで考えて行動してくれるアヤメという少女の望む理想を叶えてあげたいという思いが湧いていたからでもある。
それ以来、私達は互いの意識を入れ替えた上で長い月日をかけ綿密に計画を練っていった。
計画名〈アイリス・プロセス〉。
私の名前と眼の医療学術用語をもじった計画名だ。
“目に見えることが全てではない”
あらゆる意味でそういうものを詰め込んだ私達だけの計画。
他者の心の声を聞き、自らの心の声を届ける私の能力。
コンパティア・エモシオネス《感情共有》
電気の力を思うように操ることの出来るアヤメの能力。
ゴベルナンテ・セレスティアル《天の裁定》
さらに2人が協力した時のみ扱うことの出来る時間逆行を用いた万物を癒す能力。
アクア・ミラグローサ《奇跡の水》
またこれは後から知った話だが、アイリスという名前の花は遠く離れた日本という国では〈アヤメ〉と呼ばれているらしい。
2人が持つ全てを用いた、まさに2人だけの秘密の計画にふさわしい名前であると思う。
私はこの地球上のどこかに存在するお姉様にメッセージを届ける為に。
アヤメは生まれ祖国に暮らす全ての人々の幸福の為に。
私は奇跡の体現者として人々を扇動する役割を担う。
アヤメは神罰の体現者として罪人を裁く役割を担う。
親愛なる人 “マリア” の聖名の元に。
決して誰にも邪魔させはしない。政府も警察もヴァチカンも。そして機構にも。
例え同郷のロザリアや、親愛なる人の親友であるイベリスと最終的に敵対することになったとしても。
“私達” はこの計画を最後まで完遂して見せる。
想いを新たにしたアイリスは心の中のアヤメに向けて返事をした。
「そうね。 “貴女の夢” もきっと叶うわ。私達で叶えましょう。」
アイリスはそう言うと後ろを振り返り部屋の中に入って窓を閉める。
暗くなった夜空を見上げながらゆっくりと部屋のカーテンを閉めたその時、一階にいる “アヤメの最愛の人” の呼ぶ声が聞こえた。
「アヤメー!ご飯が出来たわよー!」
この温かな “ありきたり” という名の幸福を守る為に自分達は計画をやり遂げるのだ。
アヤメに成り代わっているアイリスはいつもの調子で返事をする。
「今行くー!」
一階ではお母さんの温かな夕食が待っている。
「さぁ、行きましょうか。アヤメ。貴方のお母さんのご飯はとても美味しいわ。」
『世界一のごちそうよ。』
二人で会話を交わした後、心を躍らせながら部屋を出たアヤメは一階へと降りて行った。
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