第19節 -2人の少女-
警察内の個人オフィスの中でウォルターは昨日起きた警官暴行事件に関する情報の取りまとめを行っている最中であった。
部下から上がってきた報告と、治療を終えて会話が出来る程度には回復した警官から確認した内容を元に出来事を整理する。
まず昨晩、警官2人が出動するきっかけとなったのは1件の通報である。怪しい動きをしている人が裏通りを徘徊している。怖いので確認してほしいと少女の声で通報があった。
元々、裏通りでは薬物取引を行う怪しい人物やマルティムに繋がっているのではないかという人物の夜間徘徊の事実があった為、現場確認の為にすぐに現場へと警官が送り込まれたのだ。
そして現場に向かった2人を待ち構えていたのが例の “よたよた歩きをした得体の知れない人間のようなもの” である。
証言によれば人間の形をしているが、とても同じ人間には思えなかったという。言うなれば墓の中から蘇った骨に皮が残っただけの死者のようであったと。
「そんなことが有り得るのか?」
ウォルターは思わず独り言を発する。
証言によれば彼らは集団であったことも確認されている。しかし、不思議なことにそれだけ目立つ集団が行動していたにも関わらず、警官の他に付近でそういったものを目撃した人物がただの1人も存在しないのだ。
そもそも、最初に通報してきた少女が一体何者なのかすら分かっていない。
さらに、現場から回収された凶器である大量の鉄パイプに関しても “人間が握って持っていたという形跡がない” のである。
残されていたのは二人の警官の血痕だけ。
まるで人目のないところから突如として湧き上がり、霧のようにどこかへと消え去ったとしか思えない。
「やれやれ、面倒な。常識破りはあの少女だけにしてもらいたいものだ…」
誰に語り掛けるわけでもなくぼやきが口を突いて出る。
常識では計ることの出来ないこの事件についてはうわべの情報だけであれば既にメディアが報じている。
メディアが報じている内容については大統領府へと伝えた。
そして大統領へは “伝えなかった情報” を含めた内容はヴァチカンの使者へと伝えた。
W-APROの支部へは何も伝えていない。
おそらくは大統領府から連絡を受けたのであろう。今朝がた、モーガン中尉から情報提供の不足について重大な懸念を感じている旨の連絡があったが、今の状況では致し方ない。
ここで “勘付かれる” わけにはいかないのだから。
ウォルターは一連の事件とは別に発生した今回の事件に頭を悩ませつつ、少し息抜きをする為にコーヒーメーカーへと向かった。
それと同時にデバイスを手に取り、ある人物に話をする為につい先日まではデバイスそのものに登録していなかった番号(現在はシークレットモードに登録している宛先)を表示し通話ボタンを押した。
* * *
ある地下の一室。
薬物密売組織マルティムの本拠地である部屋の中では熊のような大柄な男が電話を片手に話をしている。
「だから知らねーっつってんだろ。こちとら今そんなことにかまけてる場合じゃねーんだよ。いい加減にしろ!」
部屋中に響き渡る大声で怒鳴り散らした後、電話を切りソファへとデバイスを投げ捨てる。
「うるせーぞ。静かにしやがれ。」
「すまねぇ。意味の分かんねーことを延々と抜かすもんだからよ。」
「メディアが報じていた路地裏の警官襲撃についてか?」
「そうだ。俺達じゃねーのかって詰められたよ。」
「思わせておけよ。大した障害じゃない。邪魔な虫が少しでも減ってくれるなら願ったり叶ったりだ。どこの誰かは知らねーが、好きにやれってんだ。」
この世全てを蔑むような眼は変わらず、何もかもがどうでも良いという様子で細身の男が答える。
その時、突如部屋の中からその場にそぐわない甘えたようにふわふわした少女の甘ったるい声が響いた。
「あれれー?アルフレッドぉ、そんなこと言っちゃっていいのぉ?」
「んだよ…てめぇかよ。」
「こらぁ!大スポンサー様に向かって “てめぇ” なんて物言いするのは、めっ!なんだよ?」
とても目立つ色のツインテールに鮮やかな紫色の目、どこかの学生服のような服装に軍隊風の飾りを纏った12~13歳くらいの見た目の少女だ。
細身の男に向かってふざけた口調で軽口を叩く。
「つまりあれか?昨日の事件っつーのはてめぇの仕業ってことか?何だって俺達に注目が向くような行動を起こした。ついでだ、理由を教えろ。」
「えー?別にいいじゃない?たまには息抜きも必要でしょう?狩りよ、狩り。私の趣味なんだから放っておいてちょうだい。それと “てめぇ” は禁止だよ?次言ったら…」
「俺を殺すか?」
「ピンポーン♡ 話が早い男は嫌いじゃないわよ?」
「ちっ…」
「あー、またそうやって舌打ちするー!」まるでドールのような愛らしさをもった少女はひらひらと丈の短いスカートを揺らせながら挑発するように言う。
とても相手にしていられるテンションではない。
マルティムを取り仕切る細身の男。アルフレッド・オスカー・ビズバールは内心でイライラを募らせつつも無視する以外に方法が無いこともよく理解していた。
いつもなら目の前にいる対象に蔑みの視線を送るブラッドオレンジの瞳を逸らしながら、 “目の前にいる女とだけは” 極力会話をしないように取り計らう。
この女はやばい。
自分達はこの女の名前や出身などの素性を一切知らない。彼女からは便宜的に “姫” と呼ぶようにと言われている。呼び名のニュアンスが見た目にそぐわないことも無いのでそれはまだしも…
しかし、可愛らしいと形容できる見た目や甘い声、愛らしいうわべの性格とふざけた口調に決して騙されてはいけない。
“趣味の狩り” と称して目の前で自分の部下をまとめて何人も殺される瞬間を目の当たりにしたとあっては穏やかではない。正直、あれ以来迂闊に言葉を交わすことも出来なくなった。
あの出来事は文字通り “瞬殺” だった。
この女は悪魔以外の何者でもない。
こちらの過去を見抜き、未来を視通し、まばゆいばかりの光を放ち、どんな手段を用いたのか理解できない方法によって大の大人の男5人の部下の首を一瞬にして跳ね飛ばしてみせた。
何を考えているのか表情から読み取ることも出来ない。むしろ視線を合わせれば命取りだ。
努めて冷静に無視を決め込みこの場をやり過ごそうとする。
すると少女は話し掛ける対象を熊のような大男へと移す。
「ねぇ?ベルンハルトはどう思うの?」
「何がだ?」
マルティムのナンバー2である熊のような大男、ベルンハルト・J・ヘカトニオンは素っ気なく返事をした。
アルフレッドと同じように冷静に話をしているつもりだが、僅かに手先が震える。その視線を向けられるだけで全身の毛が逆立つようだ。
熊のような外見をしている自分とリスのような小動物という見た目の違いがあるが、その実蛇に睨まれた蛙の “蛙” 状態であるのは自分の方だ。
迂闊なことを喋るか、気に障る動きをすれば殺される。
表情は笑っているがまず目が笑っていない。狂気を越えた何かを宿した視線が少女から自分に向けられている。
「決まってるじゃない?昨日のお兄さん達を襲った事件のこと。つまんないって思う?」
「好きにやればいいんじゃねーのか?いくら狩ったって絶滅しないのが人間だろうからな。それに趣味なんだろう?」
「だよねー☆良かったぁ。つまらないなんて言われたらこの場で “殺しちゃうところだった” わ。でもね、でもね!貴方のような大きな男の人が真っ赤な血を吹き出しながら崩れ落ちる瞬間って凄く綺麗だろうなって私思うの!いつかヤラせてくれない?」
蠱惑的な言動をしているが感じられるのは明確な殺意のみ。それ以外に何もない。
「そりゃどうも。姫様直々のお誘い痛み入る。でも本当に痛そうだからよしといてくれや。」
この女はいかれてやがる。薬物を密売して他人の人生をめちゃくちゃにしている自分達が言うのもどうかと思うが、紛れもない素直な感想だ。
目の前にいる小さなこの女に比べれば自分達が真っ当な人間であるとすら思えてくる。
ベルンハルトは内心で悪態をつきつつ、ほっとしていた。どうやら気に入る答えを返すことが出来たらしい。一命をとりとめたというやつだ。
そして少女は二人のどちらに話しかけるでもなく机の上に置かれた酒の瓶を吟味しながら言った。
「それより “グレイ” はちゃんと使ってるの?あんまり数が無いんだから無駄にしたら…めっ!だからね?」
「言われた通りに無駄なく回してるさ。まっ、あれを治しちまう奇跡の少女なんてのが現れてからはこっちも内心穏やかではないけどな。」
「それなら有効かつよーってことをしなくちゃ♪劇症を治してしまう少女がいるならもっと回したらいいじゃない?ね?治してしまえるのならたくさん使ってもらえると思うんだよねー。使ったら死んじゃうーって言うより使いやすいでしょ?数が少ないから難しーけど。あ、あった♡」
アルフレッドと会話をしながら少女はお目当ての酒を見つけ出したらしい。
「これこれー!あたしちゃんが欲しかったお・さ・け♡」
「それを探しに来たのか?」
「もっちのろーん!お店でバニラアイスを買ったんだけどね、これがないと始まらないってゆーか★」
「なら瓶ごと持って行って良いぞ。」この為だけに立ち寄られるのも面倒だと感じたアルフレッドは全部持っていくことを提案する。しかし少女はきっぱりと否定した。
「だぁめ♡ こういうのはー、ちょびっとだけかけるから美味しいの。それに、瓶ごと持ち出して歩いてるとこ見られちゃったら私が警察のお兄さんとお姉さんに話し掛けられちゃう。めんどーなことは避けたい主義なんだから。」
「よく言うぜ。」
「趣味以外のことに注ぐ情熱って意味わかんないしー?やっぱりめんどーなことはめんどーなことの方から逃げ出してほしいなーって。」
言っている意味がよくわからない。しかし、それを顔に出さないように二人は務める。
バニラアイスになかなか高級なブランデーを掛けた少女は満足そうに笑いながら言う。
「かんせー!私特製のブランデーバニラ♡ これがほしかったのよねー。それじゃ、用事も終わったから私帰るねー♪ばいばーい☆」
ピースサインを目元に当て、ウィンクしながらそう言い残すと少女は影も形も無く霧散するように姿を消した。
竜巻のような騒ぎが去った後、アルフレッドとベルンハルトの間にはしばらく沈黙だけが流れ続けた。
* * *
午後3時を回った頃、ポーンペイ大聖堂跡地では一通りの調査を終えた玲那斗達3人が情報のとりまとめにかかっていた。
集めた情報のまとめは玲那斗とフロリアンが行い、動き回って疲れた様子のイベリスはすぐ付近の木陰で休んでいる。
「結局隅から隅まで調べつつ、離れた場所からも確認をしてみたが場所そのものに何かがあるというわけでは無さそうだな。」
「はい。何も無いということが分かった以上、今後は少し視点をずらしながら調査をしていく必要がありそうです。」玲那斗の確認にフロリアンが答える。
「視点をずらす。つまり見るべき対象を物から人へ変えるということか。」
「しかし、一番の難題でもありますが。」
「アヤメちゃん本人と話をするということ?」玲那斗とフロリアンが話をする中、イベリスが歩み寄って会話に参加する。
「それがベストではあるが、そんな機会が訪れるのかと言うと…」
「警備の関係上難しいでしょうね。」
3人が調査の壁ともいえる難題にぶつかり頭を悩ませていたその時、後ろから “聞き慣れた” 声が聞こえてきた。
「ねぇ?お兄ちゃん達。もしかして私とお話がしたいの?」
3人はびっくりして後ろを振り返る。するとそこには幼い少女の姿があった。
特徴的な髪に鮮やかなライトニングイエローの瞳。映像で何度も聞いた声。間違いなくアヤメ・テンドウ本人が立っている。
「アヤメちゃん?」
「びっくりすることないわ。今学校が終わって家に帰る所なの。警備の人に囲まれるのも窮屈だから目を盗んでここまで来たんだけど。お邪魔だったかしら?」
アヤメがそう言った時、付近を見まわしていた警官が3人に近づいて来た。
「すみません、彼女を…」
「嫌よ?私、今日はお兄さん達に送ってもらうことにしたの。」警官の言葉に被せてアヤメは言う。だが、棘のある物言いに反してその表情は笑顔だった。
「しかし、そのようなことは認められ…」警官がそう言おうとした時、彼のデバイスに通信が入る。
「失礼します。…なんだ?」
少し離れた場所に警官は歩いて話し始める。
「ねぇ、お兄ちゃん。貴方達の車で私を家まで乗せていってくれない?そうしたら私何でもお話するから。」
「本当に良いのかい?でも、彼ら警察が…」玲那斗が答えようとすると警官が戻ってきて言った。
「機構の皆様。申し訳ありませんが彼女の護衛をしつつ自宅までお送り願えますか?」
状況がうまく呑み込めない3人は互いの顔を見合わせたがとりあえず断るべきではないと判断し返ことをする。
「分かりました。責任を持って送り届けます。」
「よろしくお願いします。」そう言い残すと警官はそそくさとその場を立ち去って行った。
警官の後ろ姿を眺める3人の後ろでアヤメは嬉しそうな声を上げる。
「やった!今日は窮屈な思いをしなくていいのね!」
「アヤメちゃんはどうして俺達のところに?」はしゃぐアヤメの方を見て玲那斗が言う。
「私がお兄ちゃん達とお話したいと思ったからよ?昨日からずっと思っていたの。」
「俺達が君の自宅を訪れた時か。やっぱり見ていたのかい?」
「えぇ、最初から最後までずっと。お父さんとお母さんと話していたのも全部見ていた。」
見ていた?聞いていたではなくて見ていただって?
玲那斗もフロリアンも同じことを思う。しかし、今はそれを突き詰める時ではない。
話す場所を変える為に車へ連れて行くことを玲那斗が提案する。
「そうか。俺達の車に案内しよう。その方が安全だ。それに長話をしてご両親を心配させてもいけないからすぐ送り届けられるようにしないとね。」
「それなら心配無いわ。機構の方とお話をして送ってもらうってメッセージ入れたから。」
再び3人は顔を見合わせる。
つい先程まであるかないかと思っていた千載一遇の機会。この少女に聞きたいことは山ほどある。
それが自ら話がしたいと近付いてきてくれた上に長話をする為の時間まで取ってくれたという。
「分かった。その前に名前を…」
「貴方が玲那斗お兄ちゃん、そちらはフロリアンお兄ちゃん、そして貴女が…イベリスお姉ちゃんね。」アヤメは的確に3人の名前を言っていく。
「凄い。一度で全部覚えたのかい?」
ニコニコしながらアヤメは頷いた。
「さぁ、場所を変えましょう? “玲那斗”、車へ連れて行って!」
「え?あぁ。」アヤメは玲那斗の手を握って引っ張りながら車へと走り出す。走り出す瞬間、にやっとした表情をしながらイベリスの方へ視線を送ったようにも見えた。
その場に取り残されて呆気にとられるフロリアンとイベリスだったが、急いで二人の後に付いて行った。
「少し狭いけど我慢してくれ」玲那斗が車の後部ドアを開けてアヤメに乗るように促す。しかしアヤメは助手席のドアを開けて迷わずに乗り込んだ。
仕方なく玲那斗は運転席側に回って乗り込む。アヤメは先程の玲那斗の言葉に返事をする。
「警察の人に囲まれるよりずっとましよ。落ち着かないから少し離れてっていつも言うのだけれど、気付いたらすぐ近くにいるのよ?毎日毎日。まるでストーカーね。」
随分酷い言われようだ。命令に従っているだけの警官が少し不憫に思えてくる。
「あぁ、でも “まし” という言い方は失礼ね。ここはとっても快適だわ。」
「そうかい?なら良いんだけど。暑いからエアコンは入れよう。」苦笑気味に玲那斗は言った。
少し遅れたフロリアンとイベリスも後部座席へと乗り込む。
二人がドアを閉めると車内は完全に密閉された空間になる。これなら誰にも気兼ねすることなく本音で話が出来そうだ。
玲那斗は車のエンジンをかけるとすぐに車内の熱をエアコンで冷ます。
「冷えるまで少し辛抱だ。」
「暑いのは慣れてるから平気。それより玲那斗は私に聞きたいことがあるんでしょう?」
玲那斗はバックミラー越しにイベリスとフロリアンの様子を確認する。フロリアンはやや苦笑気味だが “話をしましょう” という具合に頷いている。
その横でイベリスも同じく頷いているが、なぜか猛烈に不満そうな表情を浮かべている。
よく分からないがイベリスには後で謝る必要がありそうだ。玲那斗はそう思いつつ話を始めた。
「そうだな。まず、聖母様の声が聞こえるっていうのは本当かい?」
「ふふふ、そうね。お姉ちゃんはどう思う?」アヤメは後ろを振り返ってイベリスへ問い掛けた。
「私?」不意を突かれたイベリスは思わず聞き返した。アヤメはニコニコしながら頷く。
「ご両親には聞こえると言ったのでしょう?」
「もちろん。 “お父さんとお母さんには” そう言ったわ。」
なんとも含みのある言い回しだ。次に “本当は違う” という言葉が発せられても不思議ではない。
イベリスが何と答えるのかしばらく吟味した様子のアヤメは “違う” とは言わずに両親から聞いたことと同じことを言い始めた。
「頭の中に “マリア様” の声が響くの。言う通りにすればみんなが幸せになれるんだって。」
「そう。でも言う通りにすればどんなことが起きるのか貴女は分かっているはず。それでも言われた通りに奇跡を続けるの?」
「もちろん。私の生まれた国、私の愛した国、そこで生きる人々。そういったかけがえのないものがそれで守られるなら良いことだと思うわ。」
「それが例え相手に死を強いるものであったとしても?」アヤメの返事に強い口調でイベリスは返した。
驚いた様子のアヤメはきょとんとした表情を浮かべている。
「イベリス。」玲那斗は彼女を制止する。言いたいことはよくわかるが今は耐えてくれという視線を送りながら話を引き取る。
「アヤメちゃん、初めて聖母様の声を聞いた時のことを教えて欲しい。」
「そんなことが聞きたいの?良いけど。あれは5月の初めだったかな。」アヤメは玲那斗に視線を戻して話し始めた。
「ある日、窓の外に見えた星空が綺麗だったから眺めていたの。その時に突然頭の中に聞こえたのよ。『13日の度に私の言う通りにしなさい』って。」
「言う通りにすればみんなが幸せになれると?」
「うん。その時は具体的に何をしたらいいのか分からなかったけど、マリア様は13日の朝に何をしたらいいのか教えてくれたわ。凄く簡単なことだったからやってみたの。大聖堂跡地の石段の上に立ってみんなに自分が言うことを伝えなさいっていう単純な内容だった。」アヤメは足をパタパタさせながら少しつまらなさそうに言った。
「僕も質問していいかい?」続けてフロリアンがアヤメに言う。
アヤメはフロリアンに視線を向けるとしばらくじっと眺めてから笑顔で頷いた。
「ありがとう。アヤメちゃんは聖母様の声に従って奇跡を起こしている間、周りの “世界” や景色はどんな風に見えてるんだい?」
「善と悪。」アヤメは即答した。
「え?」予想外の答えにフロリアンは驚いた。
アヤメはくるりと向きを変えると助手席にぽすっと座り少し下を向きつつ言った。
「良いものと悪いものがはっきり分かれて見える。病気や薬みたいな悪いものに憑りつかれて苦しそうにしている人、誰かの為に一生懸命生きている人、誰かの不幸を願ったり蹴落とそうとする行為に腐心している人。奇跡の最中に私の目に見えるのはそういった人の心の色。人の思う心が伝言のように、メッセージみたいにして私の中に流れ込んでくるイメージかな。」
先程までの答え方とは明らかに異なる。フロリアンはあえて “世界がどのように見えるのか” と尋ねたが、想像していた以上に具体的に返事をしてきたことに驚いた。
そして驚いた理由は彼女の答えた最初の一言が自身にとって非常に印象に残っている言葉だったこともある。
善と悪。
自分の立場によって簡単に入れ替わってしまう曖昧なもの。そこに明確な正義も、明確な悪もなく、ただ己の信じる価値観によってのみ定められる不定の観念。
自身が機構に入る直前、ハンガリーの地でそれを教えてくれた少女がいた。
奇しくも、先程からアヤメが何度も口に出す名と全く同じ名前を持つ少女。
そのことが頭の中に瞬間的に蘇ったのだ。
「人の心が見えるのかい?」フロリアンが言う。
「見えるものは曖昧だけれど、 “色” が見えるの。強く温かい色。弱々しい色。真っ黒で何も見えないものもあれば凄く冷えた色をしていることもあるわ。それと同時に私の心の中に人々が一番強く思っている言葉が流れ込んでくる。」
そんなものをこの歳の少女が受け止めるだなんて拷問に等しい。フロリアンはそう思った。
隣で難しい表情をしているイベリスも同じことを考えているのだろうか。人の心の在り方については自身より彼女の方が身をもって体験しているのだから。
「苦しくないのかい?」フロリアンは思わず本音が漏れた。
「え?」
「人の心が垣間見えるということは、良いことも悪いことも全部受け止めてるってことだと思う。それはとても…その…辛いことなんじゃないかって。」
「…大丈夫よ。もう慣れたから。」
アヤメの言葉はそれまでの無邪気な子供が発するようなものではなく、世界の全てを悟ったようなものだった。
この時3人は本当の彼女の姿を垣間見た気がした。
続いて玲那斗がアヤメに言う。
「次の質問で最後にしよう。アヤメちゃんは人とは違った特技と言うか、そういったのはあるかな?」
玲那斗の目を見つめながら質問を聞いていたアヤメがすぐに満面の笑顔になる。そして大きく笑いだした。
「あはは!」
何か変な質問をしただろうかと玲那斗は慌てる。いや、変な質問には違いないが笑う要素は無かったはずだ。
「もっと直接聞いても良いのよ?言ったでしょう?私は昨日みんなとお父さんとお母さんが話していることを “全部見ていた” って。」
そうか。電気を操ることが出来るかもしれないという話の下りを知っているのだ。そう言われた玲那斗は納得して質問を変えた。
「質問を変えよう。アヤメちゃんは雷を狙った場所に落とすなんてことが出来るのかい?」
「どう答えて欲しい?」運転席側に身を乗り出し、うっとりした目で玲那斗に顔を近付けながらアヤメは言う。
車内に籠った熱で汗が滲む体を玲那斗にすり寄せながら顔を近付け、やはり一瞬だけ視線をイベリスへと送っていた。
後部座席で気が気ではないという様子をしたイベリスの両拳が硬く握られているのを隣のフロリアンは見逃さなかった。
「分かった。」
玲那斗の言葉に一同が呆気にとられる。身を乗り出していたアヤメも不思議そうな表情を浮かべている。
まったく何が “分かった” というのか。イベリスの厳しい視線が玲那斗へと送られた。
「アヤメちゃん、前。」
不思議に思いつつアヤメは玲那斗の言う通りに前を向く。すると車のフロントガラスの遥か先でこちらを監視するように観察する警官の姿が視界に入る。
まるで一挙手一投足の全てを監視するように警官はスコープを片手に車内を覗き込んでいる。
イベリスとフロリアンは不思議に思いながらもその後の様子を眺めていたが、玲那斗の言葉の直後からアヤメがみるみる不機嫌になっていく様が否が応でも分かった。
次の瞬間。バチっという音が鳴ると共に遠くに見えていた警官が何やら慌てふためく様子が見て取れた。
この時、後部座席の2人は玲那斗が何をしたのか理解した。
『アヤメが何かに対して怒っている時には家電が誤作動を起こす』
両親が言っていた言葉である。
玲那斗が行ったのは今この瞬間において彼女が一番嫌がるであろうことを見せて怒らせるということだった。
どうなるか誰にも結果の分からないギャンブルであったが、玲那斗は賭けに勝ったようだ。アヤメがわざとそうしたという可能性もあるが、結果は同じだ。
「ほら、よく分かっただろう?」玲那斗がフロリアンとイベリスに言う。
玲那斗らしいやり口だという表情でフロリアンは頷くのに対し、イベリスは目を丸くしたまま遠くを見つめている。
「アヤメちゃん、試すような真似をして不快な気分にさせてごめんよ。」
「うん、良いわ。私こそ調子に乗ってごめんなさい。」玲那斗の謝罪にアヤメも同じように答える。
「咎めたりなんてしないよ。色々話してくれてありがとう。さぁ、ご両親のところに君を送り届けよう。」
玲那斗はそう言って車を発進させた。
「少しだけ私からも質問して良い?」助手席からアヤメが言う。
「もちろん。良いよ。」玲那斗が爽やかに答える。
しかし、アヤメの口から出た質問はその場の全員が予想もしていないものだった。
「玲那斗とお姉ちゃんはお付き合いしてるの?」
ハンドルを握る手が強張る。視線を彼女の方へ向けたいが前から目を逸らすことは出来ない。
バックミラー越しにイベリスの表情を確認するが顔を赤らめたまま反応しない。
この質問をしてくる相手が幼い女の子でなければ、いつものイベリスであれば堂々と答えたのかもしれないが今はなぜか硬直したまま動かない。
そんな二人の様子を見たアヤメはニコニコしながら先程のお返しというばかりにただ一言だけ呟いた。
「分かった。」
何とも言えない空気の中、数分ほど車を走らせてアヤメの自宅の前に停車する。
助手席からアヤメが降りる。
「フロリアン、玄関まで頼む。」玲那斗はすぐにフロリアンへ護衛を頼んだ。
「了解しました。」
フロリアンは車外へと降り、アヤメに付き添って玄関まで歩く。
「アヤメちゃん、今日はありがとうね。」
「良いのよ。色々お話が出来て楽しかったわ。話したいことが出来たら今日と同じ時間に同じ場所に来て。お兄ちゃん達なら全部話してあげる。それに…」
「それに?」
「貴方からは “お姉様” の気配がするから。特別よ。」
言っている意味が呑み込めずフロリアンは返事に困った。
「それじゃ、またね。お兄ちゃん?」
アヤメはそう言い残すと自宅へと入っていった。
お姉様?不思議に思いながらもフロリアンは役目を果たし車へと引き返した。
フロリアンが車へと戻り後部座席のドアを開けて車内に入ると、玲那斗とイベリスの間には何とも言えない微妙な空気が流れたままであった。
先程まで晴れ渡っていた空も今は2人の間に流れる空気と重なり合うかのように分厚い雲が覆っている。
12歳の少女に言われたことでここまでになるとは。これは2人にしては珍しく、しばらく尾を引きそうな案件だ。
フロリアンは心の中でそう思いつつ車のドアを閉めた。
丁度その時、フロリアンの悪い予感を汲み取ったかのように大きな雨粒が上空から大地に向けて降り注ぎ始めた。
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