第9節 -星空と海と-
太陽が水平線へ深く潜り込み、夜の帳が空を完全に覆う。
目の前に広がるのは水天一碧。空を彩る星々の光が海面に反射し、まるでそれがひとつの世界であるかのように境界のない幻想的な光景を作り出す。
澄んだ大気が抱く無数の星をイベリスはバルコニーから見上げていた。
時折凪ぐ風に白銀の髪が揺れる。周囲に響くのは波の打ち返す音だけ。
気温は30度を少し下回るほどだが、海風が通り抜けると気持ち良く、さほど暑さは感じられない。
遠い昔、彼と二人であの島の丘から星空を眺めた日のことを思い出す。
「この美しさはどこに行っても変わらないのね。」懐かしさが言葉に出る。
ふと後ろを振り返る。部屋のベッドの上ではその彼の魂を宿す愛すべき人が既に眠りに就いている。
移動に次ぐ移動。到着してからの会議。明日からの仕事。慌ただしく忙しい時間の中でよほど疲れたのだろう。
その忙しさの中で、現代の外に出ることに不慣れな自分をずっと見守っていてくれたことも分かっている。
「お疲れ様。玲那斗。」
深く眠っている様子の彼の姿を眺めながらそう言ったイベリスは穏やかに微笑む。もちろん、彼の耳には届いていない。
視線を星空へ戻して言葉を付け加える。
「でも、少しくらいこの星空を一緒に眺めてくれてもよかったのに。」
彼の耳には届いていない不満は空へと消えていく。
星を眺めながらイベリスは夕方まで行われた会議の内容を思い返す。
人が生み出した薬という名の毒によって命を絶たれた男性の映像。
多くの人々が同じように苦しんでいる現実。
意図的に悪意をばらまく人間達の存在。
それらを神の名の許に裁くという奇跡の少女。
そして…これらの解決の為に活動を開始しようとしている自分達。
ふと、ハワードが言った言葉を思い出す。
『奇跡の少女と数年前の自分は似ている』と。
映像に記録された彼女の力は間違いなく自然とは程遠い怪異に違いない。あのようなものはどうあっても本来人が持ち得る力ではない。
彼女が映像の中で言った言葉を聞いた時、既に人間とは違う存在となっている自分ですら畏怖の念を抱いた。今を生きる人々が直にそれを目撃したならば、どういう心境になるかなど想像に難くない。
もしかすると、人々の目に映る自分と言う存在は今でも彼女と同じように見えているのだろうか。
違うとは言い切れない。人ならざる力を持つ同類であることは明白だ。
だとしたら、今自分の後ろで眠りに就いている彼の目にも…?
そのことについて考えを巡らせていた時、後ろから自身の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「イベリス。まだ起きていたのかい?」
驚き慌てて振り返ると寝起きの表情で笑顔を作る玲那斗の姿があった。
「あら、起きていたの?私の独り言が聞こえたのかしら?」努めて冷静に返事をする。
静かに歩み寄ってイベリスの隣に立ち、星空を見上げながら玲那斗が言う。
「何か言ったのかい?」
「えぇ、少しだけわがままな不満を。でも良いの。今叶ったから。」
「そっか。」
彼女が何を言ったのか悟った玲那斗は一言だけ返事をした。
少しの空白。潮騒だけが響く静寂。二人の間に流れる沈黙を破るように玲那斗は言う。
「星が綺麗だね。」
「月も綺麗よ。」玲那斗の言葉を聞いたイベリスはすぐに答える。
「え?」彼女の返事に玲那斗は目を丸くしながらイベリスを見た。今夜は月は出ていない。
「まぁ、貴方ったら。知らないのね。私以外の女性にその言葉は言ったらダメよ?」笑いを堪えながらイベリスは言った。どうやら、玲那斗は素直に目の前に広がる星空を見て感想を言っただけらしい。
ひとしきり笑った後、イベリスが言う。
「ねぇ、玲那斗?今さらこんなことを聞くのも変かもしれないのだけれど、貴方には私がどう見えているのかしら?」
イベリスは不安そうな面持ちで透き通る白銀に近い灰色の瞳を玲那斗に向ける。
「世界に不安をもたらした怪異。それとも異能を扱う化物?又は人智を越えた奇跡?」
先程までの無邪気な笑顔はそこには無い。
「今日の会議の中で、少佐は私とあの少女が同じように見えたと言った。映像に映し出された彼女を見て私は正直、恐ろしいと感じたわ。何の躊躇も無く、対象を見ることすら無く、自身が抱く殺意を実行に移してしまう彼女が恐ろしいと思った。でもそれは人ならざる力を持ち、不特定多数の人々に力を行使し続けた私にも言えること。それなら、人々の目に映る私と言う存在もまた、今も彼女と同じように見えているのかしら?隊長やルーカス、フロリアンの目にも、そして “貴方の目にも” 同じように映っているのかしら?」
自身の中で抱えていた思いが雪崩のように吐露される。
とても身勝手な感情だということも分かっている。リナリアでしてきたことと、アヤメという少女がこの地で行っていることにそれほどの差異は無い。
過去の行いを消すことは出来ず、同類だと思われ、言われたところで否定も出来ない。
ただ、今自身の身の回りにいる人々と、今自身の目の前にいる人にだけはそう思って欲しくない。その思いがどうしようもなく自らの心を不安にさせた。
自分はやはり、この世界に居てはならない存在ではないのだろうかと。
目の前で狼狽えるイベリスの瞳を見つめたまま玲那斗は言う。
「違うな。君は彼女とは違う。すぐに声を掛けてあげられなくてごめん。あの会議で少佐がその話に触れた時、すぐにでも違うと言うべきだったのかもしれない。」
玲那斗は一度頭の中で考えをまとめて話を続ける。
「少佐から “耐えろ” というそぶりがあったんだ。だから何も言わなかった。君とアヤメという少女が凄く強い力を持っていることは確かに事実だ。でも、君はその力を使って人を殺めたことは今までにないじゃないか。実に千年もの間ずっと。それは偶然ではなく、君が確固たる意志を持って人を不必要に傷つけないということを徹底してきたからだ。」
「結果論かもしれない。私も人が傷付く可能性のある手段はいくつも使ってきたもの。少佐の仲間達が乗る船同士をぶつけて沈めた事実だってある。一歩間違えば彼女がしたこと以上に犠牲者を出していた行いよ。」
「そう言われるとそうではあるんだけどな。」玲那斗は急激に言葉のトーンを弱め、やや困った表情を浮かべる。
「そこで口ごもられると余計に傷付くわ。」悲しそうにイベリスが言う。
イベリスの表情を見た玲那斗は慌てて言う。
「ただ一つ、君は今までただの一度も他人に対して殺意というものを抱いたことがきっと無いはずだ。この世界に肉体を持って生きていた当時の最後の瞬間ですら。そこは彼女と絶対的に違う部分だよ。少佐だって会議の中ではあぁ言いつつも、まず会議が始まる前に君の優しさに感謝したいって言っていただろう?」
「『強い意思に対して敬意を持っている』と言っていたことね。」会議の前にハワードと話したことをイベリスは思い出す。
「言い方が悪くなるけど許してほしい。君は少佐の艦隊が近付いた時も、それ以前の違う場面でも、島へ近付く人々をその力でもって “自らの意思で殺そうと思えば簡単に殺せたはず” なんだ。でも、歴史上そういった事実はただのひとつも確認されていない。少なくとも少佐はそのことに気付いていたからこそ、そこに秘められた意志を思って感謝の言葉を君に伝えたのだと思う。」
イベリスは何も言わなかった。体をバルコニーの手すりに向け、遠い海の向こう側を見つめる。同じように海の方へ向き、手すりに肘を乗せ体を預けながら玲那斗が言う。
「イベリス。もしかして、自分はここに居たらいけない存在なのかもしれないなんて考えてないか?」
「貴方には全部お見通しなのね。」自嘲気味にイベリスは答える。
「そんな考えは忘れよう。俺には君が必要だ。そして、隊長やルーカス、フロリアンにとってもそれは同じことで、セントラル1のみんなにとっても今や君は大事な仲間なんだ。モーガン中尉の言っていたように、この支部のみんなにとってもきっと同じこと。今日だけで何人の人が君に笑顔で手を振ってくれただろう?」
「えぇ。とてもたくさんの人が温かく接してくれたわ。」
「それが答えだよ。だから断言する。君は彼女とは違う。」イベリスの方を見て玲那斗は言った。
「ありがとう。貴方と話して落ち着いたわ。ねぇ?玲那斗。」
「何だい?」
「これからもずっと、私の傍にいてね。」玲那斗を見つめながら囁くようにイベリスが言う。
「 “もう二度とさようならは言わない。” あの日誓った約束だ。」
玲那斗は自身がお守りとして持ち続けている月の紋章が彫り込まれた宝石のような石をイベリスに見せながら言う。イベリスも胸元に輝く太陽の紋章が彫り込まれた石を見せて微笑む。
それぞれリナリアの花に太陽と月が描かれた二つの石を合わせた時、かつて大西洋のリナリア島へ存在した国家であるリナリア公国の国章が完成する。
国の未来を継ぐはずだった二人しか持ち得ない絆の証であり、それぞれの石を繋ぎ合わせることで唯一無二の証が形作られる。
玲那斗はイベリスの方へ向き直り、真面目な表情で翌日からのことを話す。
「イベリス、俺達は例の奇跡を起こす少女、アヤメという存在についてまだ詳しいことを知らない。彼女が本来はどういう性格でどういう人物なのか。どういう考えを持ってあの奇跡を起こしているのかも。けれど、悪意に対して殺意を持って報復するというやり方は悲劇を生むだけだ。だから、これ以上あの子に間違いを起こさせない為にも明日からの調査がとても大事になる。今回はその為に君の助力が必要だ。」
「分かっているわ。1年貴方達と一緒に過ごしてきて、調査について関わるのは今回が初めてだけれど私に出来ることは全力で取り組むつもりよ。その為に今日貴方と一緒に制服を頂いてきたのだから。」最後は茶目っ気を含めてイベリスが答える。
「ありがとう。さぁ、中に入って休もう。休める内に休まないと肝心な時に辛くなるからね。」
そう言って部屋に戻る玲那斗の背中を見ながらイベリスは微笑む。
そして彼に続いてゆっくりと部屋へと戻った。
* * *
「あらあら、この地に来ても相変わらずの熱愛ぶりですわね?見ているこちらが熱くなってしまいそう。」
カトリック教会よりほど近い海辺で偶然バルコニーに立つイベリスと玲那斗の姿を目撃したロザリアが言う。
普段着用している修道服とは違い、今はオフショルダーブラウスと膝より下が幾重にもレースで重ねられたシースルーのスカートという普段は絶対にお目にかかることが出来ない大胆な私服に身を包み、いつもは修道服の下に隠された透明感のある素肌が顕わになっている。
「ロザリア様、覗き見などなりません。」楽しそうに語るロザリアを横目に嗜めるようにアシスタシアが言う。
「ふふふ、貴女に怒られるのも新鮮ですわ。まるで立場が逆のよう。」
「いえ、そんなつもりでは…」
「構いませんよ。アシスタシア、貴女はそのままで良いのです。それと、今宵もわたくしの気まぐれに振り回してしまってごめんなさいね?」相変わらずとても楽しそうに笑いながらロザリアが言う。
彼女が唐突に太平洋を眺めながら海風に当たりたいと言い出したことがきっかけで、2人は海が良く見える海岸沿いの広場に訪れている。
その気まぐれによって今まさに就寝しようとしていたアシスタシアは着替える間もなく引っ張り出された格好だ。
よって、思い切り肩を露出したワンピース風ネグリジェと言う神に仕える者が外を歩くにあたってあるまじき薄着という状況でもあり、それ故にロザリアの露出多めの服装に対して今は何も言うことが出来ない。
アシスタシアの個人的感覚では謀られたという印象だ。
ロザリアは “完全なる女性美” を体現したかのような容姿を持つアシスタシアの薄着姿を眺めて楽しんでいる気配すらある。
そんなロザリアは今のところ “偶然” 見えたイベリスと玲那斗の様子に興味津々といった具合で凝視している有様だ。
広場は遠方からではあるが、丁度機構の支部の住居区画を視界に収めることが出来る場所に位置している。
イベリスと玲那斗の部屋は建物の角部屋で、ロザリア達の位置から非常によく見えた。差し詰め、機構の中で気の利くものが星がよく見える位置ということでその部屋を二人に割り当てたのだろう。
リナリア島の者達は海や星といった自然を愛してやまないし、その証拠に自国の政治の中心である建物は【星の城】、代表者たちが集まる会議は【星の議会】と名前を付けたりもしていた。
海や星を眺めることが好きなことについてはロザリアも例外ではない。だからこそ今この場で広大な海と星空を眺めている。
「星が綺麗ですね、などという会話をお二人はなさったのかしら?きっとされたのでしょうね。そうに違いありませんわ!わたくしも素敵な殿方とそのようなロマンスを…」
自分で言っておきながら頬を赤らめてはしゃぐロザリアに対して極めて冷静且つ至極真っ当な正論をアシスタシアはぶつける。
「信仰の道から外れます。貴女の立場ではそのような情事を望むことは《永久に》不可能かと。」
言葉の直後、気温30度はあろうかという外気が凍り付いたかのような殺気にも似た気配が漂うのをアシスタシアは感じ取った。
「うふふ、冗談ですわよ?南の島に来たことで少し解放感が高まっただけのこと。神にこの身を捧げる者としての心得をないがしろにしているわけではありません。えぇ、決して。」
そう言ったロザリアだが、同時にアシスタシアに向けられた彼女の瞳には肉食獣か猛禽類が獲物に狙いを定めた時のような鋭い迫力があった。
半ば狂気が垣間見えるその瞳に射貫かれた今、彼女の言葉はとても冗談には聞こえない。
アシスタシアは軽く咳払いをしてロザリアに言う。
「ロザリア様?今日一日を通じ心に思い抱いていたことですが、いつにも増してお戯れのご様子。彼女がこの地に訪れたことが何か貴女様に影響を与えていらっしゃるのでしょうか?」
「とても楽しみにしていることは事実です。イベリスとは本当の意味で千年ぶりの再会となるのですから。国連の彼女とはまた違った反応を示してくださることと思いますが、それよりさて…果たして王妃様はわたくしのことを覚えていらっしゃるのでしょうか?」
ロザリアはそう言うと両手を広げて大きく深呼吸をした。星明りの下で海風に靡き広がる金色の髪は美しく、甘く華やか且つ情熱的な薔薇のような香りがふわりと周囲に広がる。
修道服に身を包んでいる時とはまるで違う艶やかさが今の彼女にはある。
薔薇の香りには強力な催淫作用などがあるとよく言われるが、彼女の香りに包まれた者には本当にその効果が発揮されるのではないかとアシスタシアは思っている。
現に今この瞬間、気を強く持っておかなければ自分とて理性を保てそうにない。
「機構との会合に彼女は現れるでしょうか?」アシスタシアは平静を装って言う。
機構にとって機密事項とも言えるイベリスが会合に出席するかどうかを問われたロザリアはアシスタシアの方へ体を向け返事をする。
「明日の午後1時からの会合予定でしたわね。わざわざ大統領府を通じてわたくし達が彼女の存在を知っているという情報を流したのです。きっといらっしゃいますわ。いえ、むしろ姿が見えなかったとしても、彼女は必ずかの青年の横に控えているはずですから、その気になれば…」
「不穏な動きはお控えください。機構との間に無用な揉め事の火種を作りたくはありません。」
「大丈夫ですわよ。それと、機構の面々の中で久しぶりの再会といえばもう1人。ハンガリーの地でお会いした彼とも再びまみえることになりますわね。」
「彼?」アシスタシアは素直な疑問を口にする。
「あぁ、そういえば貴女がまだ “生まれていない” 時のことでしたわね。知らなくて当然でしたわ。彼はとても素晴らしい素質を備えた人物です。国連の彼女が本気でご執心になるほどに…貴女も出会えば気に入るのではないかしら?」
「また、お戯れを…」とっさに言葉が浮かばず、困惑した表情でアシスタシアは答えた。
「うふふ、今はとても気分が良いの。許してくださいまし。」
普段は滅多に見せることのない少女らしいとびきりの笑顔をしたロザリアはそう言い、目の前に広がる夜の海と星空、そして海風をしばらく楽しんだ。
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