エピローグ カレーライス

 ボート村では、シャッターが少しずつ開き始め、人々が動き出していた。フィッシングセンターの加藤が携帯で何かを話していた。

「うん、そう、長かったよ、携帯が開通したのは十分ぐらい前かな…。心配していた電気だけど、思ったより早くて、明日の昼頃にはなんとかなりそうだってさ。それで、ボート村もやっと息を吹き返してきた感じだよ…」

 やがて、船着き場に黒仁田と芦原がボートに乗って帰ってきた。船着き場に上がると、芦原は深く黒仁田にお辞儀した。

「…社長は、やはり、神波島に一番大事なものを隠しておいたんですね。長い間、守っていただいてありがとうございました…」

 すると黒仁田は珍しくさみしそうに言った。

「…いろいろありすぎたが…芦原のお嬢さん、やめちまうってのは本当かい」

「今回の最後の晩餐が終了したら、西園寺グループとすべて関係を絶つと言うことであらかじめ話しが決まっていて…」

 するとそこに、社長の一人息子の涼が現れた。芦原に呼び出されたのだと言う。

「じゃあな、芦原のお嬢さん、達者でな」

 黒仁田が帰って行った。

 芦原と涼はしばらくなにも言わずに佇んでいた。

「困るわよね…こんな女に呼び出されても…あなたの父親を死に至らしめた真犯人に…」

 しばらく黙ってから、涼は答えた。

「…それで、ご用件は…」

「もうすぐ私も警察にお世話になるかもしれないから、ごめんね急がせて」

 そして芦原は、湖を見ながら話しを始めた。

「社長はね、あなたたち家族と別れて、あの大騒動の後、開発を手掛けていたこの湖で、実は…自殺を図ったの」

「自殺? そうだったのですか…父さんが、知らなかった」

「でも釣り人に発見され、湖畔の西園寺の家にかつぎ込まれ、一命を取り留めた。奇跡的に息を吹き返した社長は本当の意味で生まれ変わったと心を入れ替え、この湖周辺の開発に命をかけたわ。二人目の奥さんは、その時、死にかけた社長を看病していた西園寺家の女当主だった静江さん。そして開発はうまく行き、観光客で賑わうようになり、傾いていた西園寺の家も立て直し、グループ企業も躍進していった。でも社長にはそれからも三つの秘密があった。一つはあの巨額脱税事件の何億という大金。高塚さんの話では塚森山のトンネルに隠したようね。そして二つ目は男爵邸に伝わる日本画のコレクション。鑑定価値も相当なものらしいけど、それよりも静江さんが大切にしていたので、守り通したかったみたい」

 そして芦原は湖の中ほどを指差した。

「今、あの黒仁田竜二という男とあそこ、神波島に行ってきた。社長はね、観光船の航路を廃止にしてまで、人を遠ざけてまで秘密にしておきたかった一番大事なものをあの島に、神社の本殿の奥に隠しておいたの」

 そして芦原は大きな封筒を取り出し、中から、古いノート数冊と少し昔のフロッピーディスクを取り出した。涼が驚いた。

「こ、これは…?!」

「私が働く前の社長の裏帳簿ね。あれだけ大騒ぎをした大脱税事件の金の流れのすべてが分かる」

「…西園寺グループの屋台骨を揺るがしかねないことが…」

「そうね…たぶん…これを発表したら、大変なことになるわね…。涼さんにはなにも遺産がないから、巻き込まれることは何もないけど…ほかは大騒ぎでしょうね。でも、これではっきりするのよ。…さっき、見つけた時、ノートの一番重要な部分に目を通したんだけれど…私の父親の会社には1円だってあやしいお金は入ってない…だまされた、うまく使われたのよ。それがやっとはっきりした…。父はやっぱり、潔白だった…お父さん」

 芦原の頬には涙が伝った。でも芦原はすぐに涙をふくと、涼にもう一つの封筒を渡した。

「この裏帳簿より、もっと奥に…大事にしまってあったみたい。静江さんにも見せられなかったんでしょうね」

 芦原は、その封筒を涼に渡すと、お別れを言って、静かに去って行った。これから弁護士と警察に行くのだと言う…。

「これは?」

 涼は中身を見て、湖畔に立ち尽くした…。

 中に入っていたのは一枚の写真、それは、あの遊園地での、家族三人の笑顔の写真だった。死んだ母親と子どもの涼と社長の、在りし日の思い出だった…。

 西園寺社長は一番大事なものを島に隠していたのだ。

「…父さん…」


 同じ頃、七橋の軽トラックで、瑠璃と三崎老人が男爵邸にやって来た。

「そうなんだ…これが現実の男爵邸…」

 瑠璃が昨日まで来ていた在りし日の男爵邸とは違い、すぐ隣に鉄筋の別荘が立ち、連絡通路があり、エレベーターもついている。違うようで、同じようで…不思議な気持ちで瑠璃は建物をもう一度見回した。

 でも、バラ園は、敷石が新しくなったり、バラも品種が増えているような華やかさがあった。

 七橋に連れられて奥に入って行く。三崎省吾老人が瑠璃に話しかける。

「そうですか…では、もう一つの男爵邸で瑠璃さんにお会いしたのは夢ではなかったのですな」

「はい。でも今でも分からないのは、あの時お会いした富子さんが、三崎さんもご存知ないことを私に頼んだことでした」

「そのようなことは信じられませんが」

「だから、それを確かめに来たんです」

 迎えに出てきた管理人の立石が、二人を男爵邸へ案内した。

「…すいません、ご一緒してよろしいですか?」

 役場の車が着いて、中からは役場のなんでも屋の牧原さんと、やっとかけつけた高塚が降りてきた。

「おお、高塚さんまでお越しになられましたか、良かったです」

 山道に移動していた赤坂たちや緑川も警察に引き渡され、騒ぎはとりあえず落ち着いたところだという。

 男爵邸に入り、あの大階段を上り、瑠璃は立石に金の鍵を受け取った。そして、富子がやったように、壁のバラのタイルを横にずらすと、本当に鍵穴が出てきた。

「信じられない…本当に開いたわ…」

 やがて壁がずれて、あの階段が現れ、みんなで屋根裏部屋へと上って行く。

「こんなことになっていたのか?」

 さすがの高塚が、感心した。久しぶりの屋根裏部屋は、時間が止まったように、あの日のままだった。

「たぶん亡くなった静江様が管理をなさっていたのでしょう。よく手が入れてあります」

 やがて、高塚があちこちを調べ、牧原が市に寄贈される予定の日本画コレクションを確認して驚嘆の声を上げていた。

 三崎は富子の自画像をみては、涙を流していた。

「実は私は男爵のお伴で急に東京に行くことになり、最後に富子様ともう一度だけ紅茶を飲めないかと声をかけたことがありました。でも約束の時間になっても富子様は現れず。私はそのまま東京に立ち、それきり富子様とは会うことができませんでした。東京で空襲に会い、こちらと連絡も取れず…終戦後にこちらに来た時は、もう富子様はお亡くなりに…」

 瑠璃はあの鍵束を使って、一番下の引き出しを開けた。

「わあ、きれいな封筒。手紙がはいっているわ」

 それは病気で倒れ、ポストに入れることもなかった古い手紙だった。

「はい、三崎省吾様って書いてあるわ」

「そんな…まさか…」

 手紙を受け取った三崎だったが、小さな文字が読みにくそうだった。瑠璃が代読した。

「先日は約束の時間にバラ園に行けなくてごめんなさい。急に体調が悪くなって寝込んでしまったのです。お詫びにあなたのために作品を描いています。間に合えば渡しに行きます。間に合わなければ、私の机の大きな引き出しに入れておきますから」

 文字はだんだん最後の方になるとあきらかに弱々しくなっていった。

 最後にこう書いてあった。

「一番大事な人だから、一番大事な薔薇の絵を送ります」

 三崎老人は震えていた。大きな引き出しを引き出すと、日本画の優しさを持つ、鮮やかな富子のバラの絵が出てきた。

ひ裏には省吾さまにと富子の直筆があり、日付から、死ぬ数日前の作品だと分かった。

「瑠璃さん、富子お嬢様からの最後の贈り物…確かに受け取りました」

 三崎は涙を流しきると、さわやかにほほ笑んだ。

 やがて牧原さんが主な日本画の大まかなリストを作り終わり、興奮して喋り出した。ここは単なるカフェとしてだけでなく、もっと整備して、美術館カフェとしてオープンさせたら…などと言いだした。


 瑠璃と三崎、七橋、高塚、牧原はとりあえず、二台の車で翼館に帰ったのだが、到着して驚いた。なぜかバンガロー村のメンバーまで勢ぞろいだ。

彼らが仮想空間にいた間バンガロー村にはほとんど現実の宿泊客がいなかったので、突然帰って来た宿泊客の昼食は用意できていなかったのだ。

「…今、坂本さんと打ち合わせができました、全員分の湖畔カレー、おかわりありで用意できますとの答えでした。今日のメニューは今年の新作カレー第二弾、地元の高原和牛を使った、まさかのトロリ牛かつカレーだそうですよ」

 代表の御剣さんの声に、みんなから歓声が起きたのだった。全部の材料を、スパイスから、肉から野菜から、すべてをこの地域の特産で作った有名な湖畔カレーの新作が食べられるのだから、みんなわくわくしている。

 なんと低温でトロリとなるまで火を通した牛のステーキを、衣をつけてカラッと揚げた特製牛かつに仕立て上げ、さらにこの牛カツ用にブレンドしたコクうまスパイシーなカレーがかかっているのだと言う!

「よろしく、お願いします。」

 麗香、鉄馬、風間、二宮、ちょっと遅れて男爵艇から七橋、高塚、瑠璃、三崎も帰ってきた。三職人もスパイスオバチャンズもご老人達も、みんなで、カレーの用意だ。

「へえ、じゃあトンネルのそばに咲いていた山ユリのどれかにカメラが仕掛けてあったわけだ」

 カレーをほおばりながら、武藤さんが高塚に聞いた。

「あそこは一本道だから、通りかかる車のナンバープレートは監視カメラの映像で遠くからでも確かめられるという訳なんです。すばらしく咲き誇った山ユリでしたね。それにしてもこの牛カツの柔らかさと行ったら…!」

 ジャーナリストの風間が御剣さんに、人間の次の進化についての話しを聞いた。

「今の人類のさらに進化した次の人類がいるとしたら、どんな人類だと御剣さんは考えますか?」

 するとそばにいた七橋も、声を合わせた。

「あ、ぼくも、それを聞きたい、ぜひ、聞かせてください…」

 すると御剣さんは、カレーを食べながら、ニコニコして答えた。

「より優れた能力、より強い体だけを進化させても難しいかもしれない。人間の優劣は格差社会をさらに進め、国際紛争や戦争が激化するだけかもしれない。多様な価値観や人種の壁を乗り越え、地球のあらゆる生命との共存も可能になるような進化でなければいけない。簡単にいえば、認め合い、生かし合う能力、互いに生かし合う生活うスタイルを持つ人類、そこを進化させなければ…。それは豊かさや幸せに近づける力だ」

「なるほど…」

「宇宙の中に色々な偶然が重なって、恒星や惑星が生まれ、その中にまた奇跡のように水のある惑星が生まれた。さらにそこに生命が芽生え、生命は進化し、酸素を生み、微生物から植物、動物などの生態系を形作りながら、水中から陸上へ、世界中へ、さらに空へと広がって行った。宇宙は時とともに組織化し、多様に豊かに姿を変えて行く。我々がその宇宙の一部として存在するのであれば、より豊かに生きて行くことこそが目的なのだ。豊かさとは高度に組織化された多様性であり、あらゆるレベルの生命が生き生きと支え合ってできたものだ。我々は豊かに生きるために生きるのであり、さらに豊さとは何かを常に問いながら歩いていかなければならない」

 御剣の話しは難しい。

 七橋には、まだ言葉の本当の意味が分かっていなかったかもしれない。でもいろんな人が社会で苦労したりつらいことにあったりしても、この翼館はすべてを受け入れ、認め、支え合っている…力を生かしあって助けあっている…。今食べているカレーだってそうなんだ。一つ一つのスパイスは個性的で強烈でも、それが程良くブレンドされれば、得も言われぬ香りや味を醸し出す。なんとなくそんな事だろうと考えながら、七橋は極上の牛カツカレーをもうひと口頬張った。

「あ、そうだ、七橋くん、覚えてる? 野外料理のカレーの作り方、今度実際に教えてくれるって約束したよね」

 昨日までと違うのは目の前には野菊、そして新しい仲間がいるということ。

「もちろんさ。それでね、今度はここの坂本さんに教えてもらって、自分で収穫したスパイスを調合して地域の農産物でつくる手作りカレーに挑戦するんだ!」

「すっごーい! 一緒に作らせてね!」

 明日からは、ここ翼館にも、キャンプ場にも沢山の子どもたちが来る。湖も観光客でにぎわうのだろう。

 七橋は瞳を輝かせて、野菊を見つめたのだった。          (了)

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会いたくて、異世界の湖畔で セイン葉山 @seinsein

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