六日目 波紋
霧の朝だった。山から流れてきた霧が、バンガロー村を包んだ。塔子が野菊を外に連れ出す。
「ほら、幻想的な白い世界、バンガロー村じゃないみたいだよ」
そこにいつもの瀬川麗香も出てきて、霧の湖畔散策ツァーに急きょ行くことが決定する。
キャンプ場の南側を抜けて湖畔に出て、そこからバンガロー村の方に戻るように湖畔を歩き、ぐるっと回って帰ってくるコースだ。
「途中に『ねがいの丘の三本桜』っていうのがあってね、そこから神波島に向かって願い事を言うと叶うって場所なのよ」
「エー、絶対行く!」
瀬川の提案に女子は盛り上がり、さっそく出発。霧の中を、ワクワクしながら歩いて行った。
同じ時刻、霧の中を一人で歩いている者がいた。ランニング帰りの鉄馬だ。
昨日も野菊を誘うことができなかった。試合を見に来てくれと、一言いいだす勇気が出ないのだ。自分でも、なさけなく、あのボート小屋の出来事を思い出すたびに切なくなってしまう。地味でおとなしい…でも素直でかわいい…。そんな野菊のことで胸がいっぱいになってしまう。湖畔の岩に座り、今日こそは誘うと心に決める。そんな鉄馬のまわりを霧がゆっくり流れていく。その頃三人の女子たちは願いの丘の三本桜に到着し、そこから神波島に向かい、お願いをしようと言うことになっていた。
山側に向かって少し歩くと、こんもりと盛り上がった小さな丘があり、その上になるほど枝ぶりのいい三本の桜が佇んでいる。
「でも、霧が凄くてどこが島だかわからないね」
「勘だよ、勘!」
塔子は湖に向かって、歩き出した。野菊も霧の中湖に向かって歩き出し、さて願い事を言おうかなと思ってふと佇んだ。なにかさっと浮かんでこない。野菊はそんな煮え切らないと言うか、優柔不断と言うか…はっきりしない自分が嫌いだった。そして迷っているうちにいつも周りに流されていく。今回ここに来たのは、そんな自分と、はっきり分かれるためじゃなかったのか。
鉄馬くんとのこともけじめがつけられなかったし、このままじゃ本当にダメな気がする。
「今までの自分から抜け出して、先に進みたいよ…」
そう思った時、ある願い事が心に浮かんだ。そうだ、これにしよう…。
「七橋さんと連絡がとれますように…」
…でもダメだ、こんな半端な気持ちじゃ、願い事は叶いそうもない。もっと強く願わなきゃ…!
「自分の人生を歩くために…七橋さんと連絡が取れますように…」
そう、心でつぶやいた時、何か強い力がみなぎって来た。そうだ…これだ。
「…七橋さんと連絡が取れますように…そこから私は、もっと前に進める!」
強い願いが空間に広がった時、何かが起ころうとしていた。野菊の持っている黒い携帯と、七橋の黒い携帯のシグナルボタンが同時に光った…二人はまだ気付かなかったが…断線していたシステムがつながったのだった。
だがその時、二人の後ろにいた瀬川麗香は、また不思議なものを見た。
「…また、野菊さんが二重に見える…。あっ!」
麗香は言葉を失った。二重に見えていた野菊が、完全に二人の人間に別れたのだ。
「どういうこと…」
でも、一人は今までの野菊だったが、もう一人はそっくりだったがセーラー服を着た高校生のようであった。でも、次の濃い霧が通り過ぎた時、セーラー服の野菊はいなくなっていた。
「どうしたの、麗香さん。へへ、私ちゃんと願い事したよ」
「なんでもないわ。私も願い事しなくちゃ!」
同じその時、流れる霧の中、鉄馬は驚いて、岩から立ちあがった。
「え、沢渡? 野菊さん…なんでここに」
霧の中に野菊がほほ笑んで立っていた。セーラー服を着た、あの日の野菊だった。
「北条君、昨日、私に何か言おうとしてたよね、それが気になって…」
それで来てくれたというのか? 鉄馬は思いきって野菊に言った。
「野菊さん、今日の午後、総合スポーツセンターで試合やるんだけど、ぜひ、見に来てください」
セーラー服の野菊はおとなしく、黙ってそれを聞き終わるとこう言った。
「はい。じゃあ、鉄馬君を応援しにいくね!」
鉄馬は小さくガッツポーズした。
「やったあ!」
そしてセーラー服の野菊はいつの間にか、霧の中に消えていたのだった。
やがて霧もだんだん晴れてきて、みんなでバンガロー村に戻る。
「あれ、瑠璃さんだよね、お、おはようございます」
瑠璃は、チタンフレームのチェーンのついた眼鏡をくいっと上げて、みんなに挨拶した。
「おはようございます」
みんな今日の瑠璃をじっと見て、最初はただ黙っていた。するとミステリー作家八千草瑠璃の大ファンである風間がさっとやって来た。
「こ、これは、テレビや雑誌で良くお見かけするバージョンの瑠璃先生じゃありませんか。ついに、執筆を始められたんですか?」
「その通り、昨晩閃きまして、一部書き始めました」
髪をあげて大きな簪でひとまとめにし、今日はブラウン系だが、落ち着いた色の地味なコーディネートで知的に決める。ただ執筆が始まると超極上のラピスラズリのペンダントと毎日変わる、凝ったフレームのメガネは欠かさない。
「今日は午後から特別に男爵邸の日本画のコレクションを見に行くことになりまして…」
「へえ、凄いんだ。がんばってくださいね」
励ます瀬川麗香。そこに湖から帰ってきて、いつも通りシャワーを浴びた鉄馬が入ってくる。今朝は、麗香が手を振って、一緒に食べようと誘う。ちょっと照れながら鉄馬がやってくる。鉄馬は、最近背が少し伸びた話をする。学生時代はあと1センチ伸ばして百八十センチ越えを目指して、牛乳を飲みまくっていた話などをして盛り上がる。すると麗香は、最近では、きちんと質の良い睡眠をとって成長ホルモンの分泌を促したり、カルシウムだけでなく良質のアミノ酸も必要だと言われていると分かりやすく解説を始めた。
「へえ、麗香さんってすごい物知りなんですねえ」
「これでも私、アスリートの栄養管理の資格も持ってるのよ。うふふ」
鉄馬の目がかがやいた。
「へえ、素晴らしい。パーフェクトじゃないですか、尊敬するなあ」
すると麗香はバッグの中から小さな包みを開けて、鉄馬に渡した。開けてみるとそれは、あの神波島でやっと手に入れた、昇り竜の彫り物のある、金属のお守りだった。
「…命を助けていただいたお礼です。ほら、目が緑色に光るでしょ? 小さいけど翡翠なのよ。すっごい霊験あらたかなお守りだから、それを身に着けていれば、いざという時、昇り竜のように昇っていけるかもね。ほら、鉄馬君って毎日、人の見ていないところでもしっかりトレーニングしてるし、きっといいことあると思うの」
麗香は鉄馬が毎日努力していることもちゃんとみていてくれた。本当にいい人だ。
「ようし、今日の試合頑張るぞ!」
「へえ、鉄馬君、試合するの?」
頑張り屋の鉄馬に好感を持っていた瀬川麗香は自分も応援に行くと鉄馬に約束した。
「…では、午後一時過ぎに総合スポーツセンターで会いましょう」
走って出て行く鉄馬。だがそれを近くで見ていた瑠璃が、ニコニコしながら、麗香に近づいて行く。
「ねえねえ、麗香さんて仕事はできそうだし、モデルさんみたいにきれいだし、つきあっている人いるの?」
すると麗香は遠くをみるような目でため息をついた。
「大学時代は、けっこううまくいってた彼がいたんだけど…。彼、うまく就職できなくて一時フリーターみたいな状態になってね。ところがこっちは第一希望の家電開発のほうに就職が決定、社会人一年生で、研修、資格試験、ビジネス英会話の学校まで通ってて、一番落ち込んでた時期にかまってあげられなくてね。もともと自信家で、才能のある人だったんだけど、まあ、なんと言うか疎遠になっちゃって…それっきり…」
瑠璃は、背も高い美貌の麗香が、仕事もバリバリなので、男の方が気後れしたのかなあと直感した。
「そうなの? 一人身なんだね」
瑠璃は意味ありげにほほ笑んだ。麗香は、瑠璃にも彼がいるのかどうか聞こうと思ったが、その前に、瑠璃が何かを急に思いついた。
「ちょっと待って! 瑠璃さんは家電の開発をしてるの?」
「そうよ。いろいろ苦難はあるけど、もうひと頑張りで私のチームの製品が発売されるのよ」
すると瑠璃の瞳が輝きだした。
「実は私、ある日掃除機を買い変えようと思って量販店であれでもないこれでもないと悩んでいた時、変な店員みたいなのが現れてね…。予算は?使う場所は? 必要な性能は? デザインの好みは…なんて聞いてきて、あっという間に私に最適の掃除機を見つけ出してくれたの。…それが、家電おたくの…今の彼なの」
突然妄想ミステリー作家の恋物語が始まってしまった。
彼は特に掃除機が好きで、書斎用、リビング用、階段用、車用など7種類の掃除機を使い分けているのだと言う。
「だから、家電開発の友達ができたなんて言ったら、あの人もう歓喜の嵐に包まれて、昇天しちゃうかも」
彼の家電おたくぶりは本物らしい。
「去年もね、彼の部屋にエイリアンのタマゴそっくりなのが三つも置いてあるから、何これって聞いたら…」
このカプセルの中は窒素で充填されていて、こっちが、コーヒー豆の冷蔵保存用、こっちが焙煎用、そしてこれが粉砕抽出用のコーヒーメーカーで、豆の保存から、焙煎、粉砕、抽出まで、全く酸素に触れないでコーヒーを作れて、しかも長時間、淹れたてのコーヒーの味が続く新製品のだと自慢していたそうだ。
「でも、卵から卵に豆を移す時はタマゴの上がカポッと開いて豆の入った密閉カセットが、飛び出てくるのが、本当のエイリアンみたいで、彼はご満悦なんだけど、私はちょっとね…」
かなり手ごわい彼氏のようだが、瑠璃の話しは止まらない。
「じつはね…彼は家中掃除機で掃除して歩くのが趣味で、キッチン家電で料理作るのも大好き、そしてもちろん洗濯乾燥機での選択にも情熱を燃やすっていう、私向きの彼なんだけど…」
「へえ、それじゃあ、家事はお任せじゃない? そりゃ凄いわ! そんな人がいるんだ?!」
「それが、仕事に出ると、もう、すごい発掘馬鹿でね」
家電おたくは、発掘馬鹿、凄いつながり方の話しだ。
「発掘馬鹿って?」
「三年前までマヤの遺跡に行ってたんだけど、返ってきたと思ったら今度はイギリスのストーンヘンジだってさ。もう発掘が始まると、日本に帰ってこないだけじゃなく、メールもたまにしか来ないし…」
「へえ、考古学者ってわけ?」
「今だ大学の研究員で、安月給みたい。去年の秋に、私のミステリーの取材でヨーロッパに行く機会があったんで、編集の人に無理言って一日だけ日程を空けてロンドンの下宿に行ったんだけど。まだ大学の研究室から帰ってこないって言われて、夕方まで下宿で待っていたんだけど、熱中しちゃうと回りが見えなくなる人だから、メールすら、なしのつぶてよ。しょうがないから夕方に大学まで歩いて行ったんだけど、秋だったからすとんと日が落ちて、さらに見事に道に迷い、傘もないのに途中で名物の雨が降ってきて、もう涙だか雨だかわからないぐしょぐしょ状態で大学に着いたってわけ。でも、彼、タオルをさっと出して、パッと熱いココアと本格的ピザトーストを作ってくれて…優しかった…と思ったらもう空港にいく時間ジャン?!、ほんとに大変だったわ」
でもそんな話を楽しそうに話す瑠璃をみて、麗香はちょっとうらやましかった。
「でも、いいわねえラブラブみたいで…」
「…そうなんだけど…今、実はストーンヘンジの決戦を覚悟してるのよ!」
「は?」
なんでも彼の発掘班は、学生も含めると全部で二十人ほどいるのだが、発掘がひと段落したり、場所を変えたりするたびに遺跡の前で並んで記念写真を撮るらしい。
「その記念写真をそのたびに送ってよこすんだけれど、ルーシーが危険すぎるの?」
なんでも、いつも写真の右はじが定位置で、照れくさそうに写っている彼なのだが。ルーシー・ブライアントと言う金髪ダイナマイトボディの学生が、最初は記念写真の中央に移っていたのに、だんだん右の方に場所を変えてきているのだと言う。
「ええ、気のせいじゃないの?」
「この女、私の彼を狙っているなとピンと来てね、移動するたびにチェックしてたら、ついに最近、彼の隣まであと一人と言うところまで移動して写っているじゃない? あぶない、危なすぎる、偶然ではあり得ない」
「ええ? そうなの? 単なる気のせいじゃ…」
「もし今度、彼の隣にルーシーが写っていたら、もうイギリスまで行ってやる、ストーンヘンジに柔道着着て、黒帯締めて乗り込むわ。ストーンヘンジの決戦よ!」
「えっすごい、瑠璃さん柔道やるの」
「できるはずないけど、向こうはね、イギリスに上陸してノルマンディ王朝をぶちあげたバイキングの末裔みたいな女よ、大和ナデシコじゃ、勝てないわ、日本と言えば、相撲と柔道でしょ…。でも、チョンマゲとまわしはさすがに無理だから、柔道着ってところで!」
そう言って、瑠璃は明るく笑った。さすが妄想コスプレイヤー、本当にやりかねない。
その時、野菊の黒い携帯に、着信音が…
「…えっ? ま、まさか…?!」
野菊の様子がおかしいと、あの黒い携帯を覗き込んだ塔子が驚いた。
「な、七橋君じゃない?! 早く、早く出なさいよ」
「う、うん…もしもし、沢渡です…」
ボタンを押すと、液晶画面に、七橋がちゃんと写っている。後ろには荷物を乗せた軽トラックが映っている。
「ご無沙汰です。七橋です。おお、野菊ちゃんも元気そうだね」
「塔子もいるよ!」
塔子が横から覗き込むのが画面に映る。
願いの丘の三本桜での願い事が、さっそくかなってしまった?!
「今、高塚さんと連絡取ろうとしていたら、野菊さんのチャンネルのシグナルランプがついているから…あ、やっと通じたなと思って、かけてみたんだ」
七橋も、いっこうにつながらない電話が、野菊のことが、気になっていたらしい。そして、湖畔パトロールを引き受け、毎日忙しく走っていることを話し、野菊と塔子は例のスパイス栞が評判だとお礼を言った。
「…七橋君、今日もパトロールなの?」
「ああ、そうだよ。これから探偵の高塚さんに呼ばれて、武藤さんていう翼館の人と、男爵邸に行くところなんだ」
「ふうん、男爵邸に行くんだ」
自分たちが、観光している間にも七橋君はみんなの役に立っている…本当は自分たちはボランティアスクールで人の役に立つはずだったのに…。
だがその時、塔子でもないもう一人が、話を聞きつけて、画面を覗き込んだ。ジャーナリストの風間だ。さすがに耳がいい。
「ちょっといいかい? 七橋君、実はちょっと力をかりたいことがあってね、会えないかな…少しの時間でいいんだけど。バンガロー村のあたりは通りかからないのかい?」
「…そうだねえ、はっきりしないけど、昼ごろには帰れそうだから、その頃にバンガロー村のあたりに顔出そうか…。到着したら、電話入れるから…」
そして、二人の間で話がついたようだった。野菊や塔子も顔を出すことに相談がまとまった。だが、この約束が、異世界との決定的な出来事になるのだった…。
鶏の声で目を覚ますなんて何十年ぶりだ。その朝、二宮は、あの揚子江沿いの農家で目を覚ました。そう人力車夫のハンの家だ。
「あれ…ヤンファ…」
ヤンファが、足元で寝息を立ててそばにいた。その温かな小さな手は、まだ二宮の足の傷に当てられていた。一晩中、傷口を押さえていてくれたのだ。
本当に激痛は和らぎ、調子がいい気がする。起きてお礼を言うと自分のことのように喜ぶヤンファ。兄のハンも起きてきて二宮の傷の具合をみる。
「思ったよりいいねえ。でもチャンの手下の出方をみてくるから、今日はもう一日ここにいるといい」
ハンはそう言って早々に人力車夫の仕事に出かけた。
「ほらほら、二宮さん、今日はいいのよ、なにもしなくても。けが人だから…なんでもヤンファに任せてね」
そしてヤンファは楽しそうにくるくると働きまわり、いい調子で、即席の歌まで歌い出す。
「ヤンファにおまかせ、水もくめるし、野菜もとれる。料理もうまいし、掃除も早い。病人だってけが人だって、すぐによくなる、ほんとだよ。ヤンファがなんでもやるからね」
…なんでもない思いつきの歌だが、一生懸命世話をしてくれる明るいヤンファをみていると、歌が胸にしみて、なぜか涙が止まらない…。
「ありがとう、そうだ、今度の日曜日、上海の港祭りがあって、ほら沢山の屋台が出たりフランス租界のデパート通りでパレードも出るぞ、どうだ、お礼に全部おごるから、一緒に出かけないか…」
「ええ? でも、兄さんと違って、私はあんまり行ったこともないの…」
「そうだな、まずあのアメリカの大きなデパートできれいな洋服を買って、それから映画館はどうだ? 今、ハリウッドのいいのがかかってるんだ。それが見終わった後、ちょうどパレードの時間だよ。ああ、それから、港のステージにはアメリカから来ている本場のジャズバンドが出るぞ。知り合いがいっぱいいるから…ヤンファも行かないか? 最高だぞ」
「え、お洋服も買ってもらえるの? うん、うん行くわ、絶対行く…一度、行ってみたかったの!」
だがその時、早朝に租界に出かけたはずのハンがなにかあわてて戻ってきたではないか?
「あれハン、どうした? 忘れものか?」
だが、ハンの顔はいつになくまじめだった。
「…二宮さん、今、租界で聞いてきた、間違いない。国民党軍の爆撃がついに始まる。もしかすると日本人の多い、協同租界にも爆弾が落ちる。日本軍も反撃するために動き出し、反日派のやつらも武器を持って集まりだした。租界も、この村も危ない、逃げてください…」
「な、なんだって?」
今まで楽しそうに歌を歌っていたヤンファも、不安そうに二宮を見つめるだけだった。やがて、空の向こうから爆撃機の重苦しい音が響いてきた…。
その頃高塚は、管理人の立石、美人秘書の芦原と一緒に、男爵邸の入れない空間を回っていた。なにか見逃すと困るので、最初に高塚がカギを開け、中を撮影してから入るという手順でこれから三か所を回る。
「高塚さん、これがワインセラーの鍵です」
高塚は扉を開けて、真っ暗な空間をデジカメにおさめる。
「あれ、ワインが一本だけ入っていますよ。もうこりゃだめになっちゃってるかなあ」
高塚が厨房の横にある半地下のワインセラーの奥に手を突っ込む。ひんやりした石の壁に手が触れる。取り出したワインのラベルを美人秘書の芦原がさっと読む。
「これはハンガリーのトカイワインの上物ですね。貴腐ぶどう酒は糖度が高くて長持ちするから、多分、この環境なら平気ですよ」
このワインは後でみんなで飲もうということになり、次は、二つ目の入れなかった空間、エレベーターの機械室に三人は向かった。
「ええっと、こちらの鍵は芦原さんの管理になっているはずですが…」
芦原は久しぶりなのでなかなか見つからなくてと言い訳を言っていたが、じゃあみんなで探しに行こうということになったら、あっさり、部屋から見つかったと鍵を持ってきた。
「では、鍵を貸してください。開けます」
高塚がまた扉を開けてデジカメで撮影する。今度は大人が五、六人は入れる広さがある。
「電気をつけます。ええっとスイッチはどこだっけ…」
芦原が先に入ってスイッチを探す、ほこり臭いが、特になんでもない。見たところは故障はなさそうだが、エレベーターはやはり動かないようだ。
「ここも隠し部屋ではなさそうですね、やはり二階ですかねえ」
高塚が扉の鍵を閉めて、三人は二階への階段へとまた歩いて行く。三人が去ると、あらかじめの打ち合わせ通りに、玄関で待機していた七橋と武藤がこっそり入ってくる。
「さすが高塚さんだ、鍵をかけるふりして、ちゃんと鍵があいている…」
そしてエレベーターの機械室に入った二人はものの三分もしないうちにさっと扉から出てきた。
「武藤さん、どうだったんですか?」
「高塚さんは凄いよ。すべてあの人の推理通りだ…」
そして高塚と立石、芦原はしばらくするとすごすごと階段を下りてきた。二階の隠し部屋だけはやはり鍵穴もドアも見つからず、入ることができなかったのだ。そこに七橋と武藤がそっと近づき、高塚だけに調査結果をそっと教えた。
さらにその直後、病院から八岐が黒い携帯で連絡してくる。
分析の結果、社長の体内からは強力な意識障害を起こす成分が検出されたという。
高塚はついに決意を固め、立石に言った。
「真犯人が確定しました。みんなを集めてください」
男爵邸の別荘がざわめきだった。七橋はそのすきに、武藤と一緒に、翼館へと帰って行くことにしたのだった。だがその時、病院の緊急放送のチャイムが鳴ったのだ。一体何が起きたのか、みんな顔を見合わせた。今度はいったい何が…?!
瑠璃はその頃、男爵邸のバラ園を抜け、古い格式のある玄関に入って行った。
「八千草瑠璃様、お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
あの省吾と言う若い秘書が出てきて瑠璃を案内する。まずは一階の応接間で待っていると、厨房の者が焼きたてのアップルパイとバラの香りのするハーブティーでもてなしてくれた。なんと微笑ましいおいしさだろう。
そして少しすると、あの大階段を下りて、富子がやって来た。
「受賞作、早速読ませていただきました。凄いですねえ、カリブ海の美しい風景が手に取るように分かって…でも、ただの怖い怨霊ものだと思っていたら、最後は心温まる終わり方をするのがよかった。じーんときました。瑠璃さんのお人柄がしのばれます…。ありがとうございました」
「ええ、もう読んでいただいたんですか? 感激、こちらこそ有難うございました」
それから富子としばらく作品について楽しい会話を楽しんだ瑠璃であった。
「へえ…どの作品もきちんと取材旅行をなされているんですね」
「…はい、そういいうやり方なんです私の場合…」
「こだわりがあるからいいものが出来上がるんですよ。じゃあ、私のこだわりもちょっとだけみてもらおうかな…」
瑠璃は富子に案内され、二階へと上って行った。
「あれ?!」
それは不思議な光景であった。富子が右手をのばすと、光とともにその手の中に金色の鍵が現れるのだ。
「…瑠璃さん、この場所を良く憶えてください…」
そう言って富子は大階段の上の壁に手をやった。そしてきれいな壁飾りの花のタイルをそっと触った。するとピンクのバラのタイルがそっと横にずれて、鍵穴が出てきたではないか。
「この鍵をここに入れて、回すとほら…」
なんと壁ごと、横にスライドして、狭い空間の中に現れたのはまた立派な階段であった。
「途中が暗いから、気をつけてね。こちらへどうぞ」
瑠璃はワクワクが押さえきれない状態でその階段を富子について上って行ったのだった。
「わあ、なんて素敵なお部屋なの!」
そこはフランス映画に出てくるような、でも結構広くてきちんと絵画の保管用に整備された屋根裏部屋であった。
「保管用の家具も、調度品も、カーテンもすべて私が選んだのよ。いかがかしら」
「かわいくて、どれもおしゃれだわ。なにより居心地がよさそうね」
部屋の壁には油絵がいくつか飾られ、大きな西洋家具の引き出しを引くと、中には男爵家の色々な日本画のコレクションが数え切れないくらいはいっている…。
「この油絵は…不思議ね、日本の浮世絵とかこっちは水墨画にも似ている…まさか…」
富子がにっこり笑った。
「私の作品よ」
富子は日本画、特に琳派の作品に憧れていて、将来は西洋のデザイン性も加え、自分なりの新しい作品を描きたいのだそうだ。
「ほら、うちのバラ園のバラをデザインして…なんか作品が作れればいいなって…。いくつか試作品は描いているんだけど…」
「そうなんだ…え、じゃあ、もしかしてこの肖像画も…」
「…またあとでくわしく話すけど…そうなの…私の作品なの…」
そう言われてみれば、油絵だけど…線がはっきりしていて、色の組み合わせや構図がどこか日本画のようでもある。リアルと言うより、文様的で色彩豊かでもある…。
「さて、じゃあ、そろそろ私のまとめた日本画のコレクションをお見せするわ」
富子はすっと立ち上がると、瑠璃を部屋の奥へと導いたのであった。
「えっ?! なんでこんな作品が?」
瑠璃は驚きを隠せなかった。写楽の初期の大首絵の肉筆画や、伊藤若沖の未発表作品などがあるのだ。
「あと、一つだけ頼みたいことがあるのですが…」
富子は大事な秘密を瑠璃に打ち明けようとしていた。
その時、牧原さんが翼館に駆け込んできた。
「さっき、病院のチャイムが緊急で鳴ったでしょう。ついに交通インフラだけですが、一部開通したそうです! 携帯は今日の夜までにはアンテナ車が来てつながる予定、電気の開通もここに三日で開通するそうです。ああ、男爵邸方面には、高橋巡査が知らせに行っています」
すると御剣さんが、武藤さんと坂本さんを呼び出した。
「すまない…もしも携帯が復活する前に道路が開通したらぜひお願いしたいことがあると、探偵の高塚さんに頼まれていたことがあってね。例の事件に関係したことなんだけれどね…たのまれてくれるかなあ」
「へえなんか面白そうっすね、いったいなんですか?」
男爵邸の別荘では、みんなが高塚の要請で別荘のリビングに集まっているさなか、駆け込んできた高橋巡査によって、交通の開通ニュースがもたらされた。
するとどうしたことだろう、途端に別荘がどたばたし始めたのだ。いや、気がつくとなぜか東郷と葦原がいない。
赤坂がそのことを説明した。
「東郷は、道路の開通を早速見に行ってくると偵察に出かけました。芦原さんは仕事で遅れると言っていました」
「そうですか、それは残念だ」
そう言って高塚は立石に芦原をどうしても呼んでくるように頼んだ。少しして立石が走って戻ってきた。
「すいません、芦原さんが、突然行方不明で…」
「やはりね…みなさんが西園寺社長の事件にかかわったことは、カメラにある通りで間違いはありません。でもその黒幕は…芦原さんだった」
「ええっ?!」
その頃七橋は、武藤さんだけでなく、なんとあの芦原を軽トラックに乗せて、ボート村へと走っていた。二人で帰ろうと軽トラックに乗り込んだ時、突然私も乗せてくださいと走って来たのだ。野菊との約束の時間は迫っていたが、芦原が急ぐと言うので、こちらを優先した。そしてあのボート村の商店街で芦原を下ろすと七橋たちはやっと帰って行った。
芦原は何のためにここに来たのか?
芦原は、黙ってフィッシングセンターの店の中に入って行った。加藤が芦原を見つけて…さっと中に入り、黒仁田を呼ぶ。黒仁田はまじめな顔をして芦原にペコペコお辞儀をしながら近付いた。二人はどうやら昔からの知り合いのようであった。
「芦原のお嬢さんじゃありませんか。もう今月の調査スケジュールはいただいたし…今日はどんな御用で」
「すまないね、黒仁田。これ、わかるかい?」
とりだしたあの木札をみて黒仁田は頭を下げた。
「…本当に西園寺社長は亡くなったんですね。もちろんその木札はよく存じております。こちらへどうぞ。すぐ神波島へ、ボートを出しますから」
地上げ屋や、裏稼業の仲間だった黒仁田と西園寺社長は裏でつながっていて、実は芦原がその窓口になっていた。社長は黒仁田の不透明な願いも聞き入れ、その代わりに神波島への人の出入りを制限していたのだ。
「だから、きっと、私の探していたものはそこにあるはず…」
芦原と黒仁田は、モーターボートで湖を静かに進んで言った。
その頃、別荘では、高塚が芦原の犯罪計画をみんなに説明していた。
「まず、この事件がおかしいのは、赤坂、東郷、緑川、息子の涼と、事件にかかわる人物が複数いて、その複数犯の犯行が少しずつ状況を危ういものにして、最後、社長を死に追いやった。薬品で意識が朦朧とする頃に大階段の上に行くように仕組まれ、電動車いすのコントロール部品を抜き取るように命令され、そして本当に抜き取られた。それは間違いありません」
すると息子の涼が立ち上がった。
「私が部屋に入ったのをカメラが写していたようだが、私は父を殺そうとなどしていない。首を絞めようとしたのではなく、薬で朦朧としていた父を起こそうとしていただけなんだ。私は本当は父と仲直りしたかった。父の真意を確かめたかっただけなんだ」
そして、息子の涼は昔の話を始めたのだった。
「あの巨額脱税事件が起きた時、地上げに当たっていた暴力団関係者も内部争いを起こし、査察は動き出すし、父に恨みを持つもののいやがらせもそりゃあひどいものでした」
それを全部やりくりしていた母は、ある日突然過労で倒れ、緊急入院したのだという。
「しばらく逃げ回って姿を消していた父が、その日の夜遅く、まだ中学生だった僕と母のいる病室にやってきました。ところがその母親の枕元に立った社長は、これ以上お前と息子に迷惑はかけられないとその場で離婚を提案したのでした。母は最初はまったく同意せず、すぐに体を治して頑張るからと父に懇願していたのですが…」
すると社長は遊園地へ行った時の親子写真を見せて。
「…お父さんはね、とんでもないことを、やってはいけないことをしてしまった、そして、それがばれそうになって大変なことになってしまったんだ。だからこれ以上お前たちには迷惑をかけられないんだ。ほら、パパはいつもこの写真を持ち歩いている。ママも涼ちゃんも笑ってるだろう。離婚しても、パパの心の中はこの写真と一緒だ。大好きだから別れるんだ。わかっておくれ」
「そして、最後には母もいやいや同意したのですが、離婚の書類を書きこんだ後、容態が急変し、父のいないまま、数日後に本当に亡くなってしまったんです」
それから何年間も涼は父親とは会っていなかった。だが噂で、湖の再開発で出会った西園寺静江という大地主の娘と再婚し、再開発を成功させ、関連企業を大きくしたとのことだった。
「完全に縁を切った私のところには、あの地上げ屋の仲間も、借金取りもいやがらせも一切来なくなった。大学を出て自分なりにベンチャー企業を始め、小さいながらも成功させた私は…あの夜の父のことを思い出すと、自分からはとても会いに行くことはできなかった。そして、一週間前、突然この男爵邸のパーティーに呼ばれたわけです」
「それじゃあ、あの土砂崩れの日に、社長と何年かぶりで会ったんだね?」
「はい、この別荘について、父に二人きりで一度だけ会いました。その時父は、ちょっとさみしそうに笑って…私はまだおまえに会う資格がない。きれいな体になっていないんだと言ってすぐ部屋に引きあげて行きました。それだけです」
すると、義理の妹の洋子が言った。
「ちょっと待ってください! 探偵さん、涼の言うことをうのみにするのですか?」
「いずれ、近いうちにすべては分かるでしょう…」
そして、高塚は、土砂崩れがあってから、まるで魔法でもかけたように状況が変わったことを説明し始めた。
「いいですか、こんな偶然は起こそうと思っても起きるものではありません。
社長に恨みを持つものばかりが集まり、しかも災害時に無理やりパーティーを開いた。さらに当日になてエレベーターが休止、いつもは厳重に守られているはずの薬箱がリビングに、社長は電動車いすで一人で危険な階段の上まで走って行かなければならない状況まで生まれた。つまり、殺してやりたいほど憎い社長を殺す条件が突然いくつもできたのです。でも社長を恨む人の思い通り、願いどおりに事が進むはずはない。その偶然は偶然ではなかった。黒幕がいたのです」
高塚は立石に頼んで小さな鍵を持ってこさせた。
「エレベーターの機械室の鍵です。普段はメンテナンスの業者しか持っていません。わざわざ芦原が合い鍵を作ったのです。そして立石さんにうまく言い訳して、自分で隠し持っていた。そして土砂崩れが起きたのをいいことに、エレベーターの主電源を黙って切ったのです。武藤と言う専門家に頼んでここの配線を見てもらったのですが、ここの電源に不備はなく、よってエレベーターも一人で止まることなどありえなかった。そこで私はさっきまた武藤さんにこっそりエレベーター室を調べてもらった。そしたら、エレベーターの主電源が、オフにされていたのが分かったんです。芦原がわざと止めて、この状況を作ったのです。それでもまだ安心できない芦原は、大事な薬箱を、さあどうぞとリビングに運んだ。さらに階段から下に降りるような無理な段取りを勝手に決めて、そのリハーサルまでやってのけた。誰かが、社長を殺してくれるようにありとあらゆるサービスをしてくれたんです…。そして芦原の思い通り、緑川は薬を入れ替え、洋子さんはそれを知って証拠をごみ箱に捨て、赤坂は指示して、東郷が電動車椅子に仕掛けした。そして皆さんの思い通りにいくつもの条件が重なって、西園寺社長は事故死した。それも即死だった。今回の晩餐会の人選から決定、あらゆる殺人の状況をプロデュースしたのは芦原です。いったいあなたたち一人一人の罪がどうなるかはわかりませんが、殺人には代わりありません。あとは、警察に任せます。以上です」
洋子が言った。
「真犯人の、芦原さんはどこなの、どこにいるの?」
それを聞くと、高塚は横の棚に置いてあったフクロウの箱を出して見せた。木の札も、銀の鍵もいつの間にかなく、金の鍵だけが残されていた。
「彼女は今頃、あの地図の神波島に行っているはずです」
「そういえば、東郷も遅いじゃないか? 逃げたんじゃないだろうな?」
「彼らはご苦労なことに、今頃あの塚森山にお宝をとりに行ってますよ。いよいよ道路が開通しましたからね。そうですよね、赤坂さん?」
赤坂はうなずくでもなく黙り込んだ。
「そんな? あんな塚森山に近づけるはずはないですよね?」
「たぶん私の推理ですが、前に五億とも十億とも呼ばれている巨額脱税事件の金や金の延べ棒が誰かに隠された時、その実際隠しに行った実行部隊の中に東郷がいたんじゃないですか、だから彼らは場所を知っていて黙っていた。そして道路が開通した途端、すぐに動き出した」
だが、いったい東郷たちはどこへ行っていると言うのか?
「あと数時間のうちに、高橋巡査が警察の応援を大勢連れて来てくれます。みなさんは罪を重くしたくなければ静かにここで待っていてください」
会場は静まり返った。
だが、会合が終わった時、看護師の緑川が小さなバッグを持ってこっそり外に飛び出して言った。立石が気付いて声をかけたが、振り返りもせずそのまま自家用車に飛び込んで、どこかへ走って行った。立石に報告を受けた高塚は表情を硬くした。
「ちゃんと警告したのに…緑川さんが飛び出した? なぜ…。今行ったら危ない!」
その頃、野菊は、バンガロー村で、七橋からの電話を待っていた。
道路は開通したが、バスやタクシーの運行はまだ未定で、状況が落ち着くまでもう少しだけ待機していてくださいというのが八岐からの連絡だった。
よく理由は分からないが、どうやら七橋からの黒い携帯がつながるのは野菊だけらしかった。ドキドキしながら電話を待つ。
ついに電話が鳴る
「七橋君、今、どのあたりにいるの?」
「今やっと男爵邸での仕事が終わってね。これから翼館に帰るところなんだ。ごめんね、ボート村による用事ができちゃって電話するのが遅くなって」
私たちが、観光をしている間にも、彼は人々のために走り回っていたんだわ…私だってボランティアのためにここに来たっていうのに…七橋君と一緒に、みんなの役に立ちたい…。
思いを強くする野菊。
七橋の軽トラックはあと数分でバンガロー村の前を通りかかる。
「じゃあ、今、湖畔にでるから…」
塔子を誘って湖畔に向かう野菊。病院に行っている風間にも連絡をとる。風間はすぐに駆けつけると言う。しかし、バンガロー村から湖畔に出ると、人影はまったくなかった。分かりやすい場所にいた方がいいかと、野菊はあの願いの丘の三本桜へと歩いた。ここからは自動車の道路もすぐだ。
「おかしいなあ…まだこない…たぶんあの軽トラックだよねえ」
塔子が道路に出て偵察する。そのうち連絡をとった風間も駆け付ける。野菊も、だんだん不安になってくる。
その時、七橋から電話がかかってくる。
「おまたせ、今着いたよ。軽トラックを降りて湖畔を歩いてるよ。どのあたりにいるのかな?」
「あの、バンガロー村のそばの丘に三本桜の木が立っているところがあるんだけど…」
「ああ、願いの丘の三本桜だね、知ってる、知ってる。すぐ目の前だよ。じゃあ電話を切らないでそのまま待っててね」
なんだすぐそばにいるんだ。野菊は三本桜の真ん中に立って七橋を待っていた。
「はい、到着。あれ? 野菊さんはどこにいるの?」
「三本桜の真ん中よ」
「ああ、隣の木だね。え、いないね」
野菊は、その時、たとえようもない不安に襲われた。
「ほら、私、真ん中の木の湖側にある、大きな枝にさわってる」
「大きな枝? これのこと?」
七橋は野菊にも分かりやすいように、枝を携帯に写してくれた。
「えっ?!」
自分が触っているのと寸分違いがない大きな枝を、画面の中で七橋が触っていた。七橋の手のひらのあるあたりを触ってみたが、もちろん何もない…。
「そんな…?!」
野菊はそれ以上言葉も出ず、自分も触っている枝を黒い携帯で写して見せた。
「声は確かに聞こえているのに…すぐ耳元で聞こえているのに…。いったい?」
七橋も、異変を確かに理解した。
「…ぼくたちは同じ場所で、同じものを触っているけど、会えない…君だけいない…」
「私も同じ…同じ時間に同じ場所に立っているけど、あなただけいないわ」
「七橋君!」「野菊さん!」
そして二人は同時にお互いの名まえを呼び合った。
七橋はしばらくたちつくした後こう言った。
「…風間さんの相談したいことって…まさか…こういうことだったのか…。野菊さんぼくからはどうも風間さんには連絡が通じないらしい。風間さんはそばにいるのかい?!。」
七橋の後ろでは、湖がキラキラ光っていた。まったく理解のできないことだったが、七橋はもう、前向きに動き出していた。野菊は、すぐに風間に携帯を渡した。
「そう、ぼくが相談したかったのは、まさしくこういうことなんだ」
風間の後ろでも、湖がさざ波を打ち寄せていた。
「あのアメリカの三人もそうだった。私も明らかに違う病院に二回行っている。ここはいったいどこなんだ。そしてそもそも何のために存在するのだ」
だが、このままでは、またすべては何もなかったことになって終わって行く。
今までと同じことをやっていてはだめだ。風間は心の中でずっと考えていた計画を七橋に告げた。
「七橋君、君に頼みたいんだ。すぐ病院に行って八岐と会うんだ。そして、バンガロー村に行ったはずのみんなと会いたい、声だけでなく直接会わせてほしい…と頼んでほしい。もし、教えてもらえなかったら、病院の中を探してくれ」
「病院の中?」
「たぶん場所は…」
「…わかりました…すぐ病院に行って、八岐さんにお願いしてきます」
黒い携帯には、自分がみている湖と同じ風景の中にいる風間が映っていた。なんて不思議な現実なのだろう。
「そう…? でも、私たち、待っているしかないの?」
「七橋君が、僕たちを探しに来てくれるそうだ…」
野菊は湖を吹く風に胸を膨らませた。
「さて、僕は僕でそろそろ院長先生との約束の時間だ…総合スポーツセンターに行かなきゃ…。僕は僕でこの事実を彼に突きつけてみる」
そして風間もスポーツセンターへと駆け出して言った。
鉄馬は軽く昼食を済ませると、総合スポーツセンターのゲートをくぐった。もう、今日の対戦相手も準備を終わり、軽いウォーミングアップをしていた。あの気さくな照井トレーナーも声をかけてくれる。
「ああ、北条君、今日も調子よさそうだね。いいデータがとれそうだ。よろしく頼むよ」
「ありがとうございます、今日も頑張りますよ」
だが見回すと、アリーナの隅に、この間鉄馬が計測したような、さまざまな運動能力の計測機器が用意されている。
「あれ、また誰か、計測するんですか?」
「いやあ、昨日緊急に申し入れがあってね。なんでもネクサピス財団病院の黒逸仁という人の計測を行うことになったんだ」
まあ、自分には関係ないと鉄馬は、自分も試合に備えてウォーミングアップから始めたのだった。やがて時間が迫ると、まずあの背の高い瀬川麗香が一番乗りでやって来た。
「こんなに早くから着てくれたんだ。さすがだなあ、うれしいなあ。でも野菊さんはくるのかなあ…」
そこに、風間が背の高い青年とともにやって来た。凄い、身長が二センチ伸びたと言って鉄馬はは喜んでいたが、この人は百九十センチをはるかに凌ぎ、体の筋肉の付き方も素晴らしい。なんと言うか、顔もハーフなのか男がみてもかっこよく、非の打ちどころのない完璧な人間に見えた。
「風間さん、こんにちは。その人は?」
「…お隣のネクサピス財団病院の、院長先生だ。医学博士で、物理学博士でもある」
「エ、院長先生…お若いのに…しかも、博士?」
すると黒逸院長は、さわやかな笑顔で挨拶した。
「院長の黒逸仁です。北条鉄馬君だよねえ、風間君から聞いてますよ。毎朝何キロもランニングしている素晴らしいアスリートだそうだね。どうぞ、よろしくお願いします」
何とも偉ぶらない純粋な人だなあと鉄馬は感心した。
風間は黒逸のそばに行き、さかんに小声で何かを頼んでいた。
「…そうか、七橋君と野菊ちゃんが決定的な行き違いをしたか…まさかそんなことになるとは…わかった、この計測が終わったら、病院に戻り、すべてを話そう。約束するよ、風間君」
すべてを話す…黒逸の輝く瞳に偽りはなさそうだった。風間は計測機器の隣に座って、ネクストサピエンスの運動能力の取材の用意を始めた。
「あ、野菊さんだ」
その時、セーラー服の野菊が仲間と連れだって入ってきた。それは同じ高校の水泳部、優柔不断でいつもみんなと同じ行動をしていた頃の野菊の仲間だった。
「あ、鉄馬君、みんなときたわよ。応援するから頑張ってね」
災害直後なのでまた携帯も開通していないこの地域に野菊の高校時代の仲間が来るはずもないし、そもそもみんなセーラー服で来るはずもない…でもそれがおかしいとも鉄馬は舞い上がって分からなくなっていた。鉄馬の中で憧れの野菊は、今でも同じ高校の制服を着たあの姿だったのだ。
「よっしゃ!」
今日はいつもの練習メンバーが二チームに分かれて本格的な試合を行う。鉄馬Aチーム、ホイッスルが鳴り、さっそく第一試合だ。今日はいつもと違って歓声が飛ぶ。自分への応援が聞こえてくる。鉄馬は開始早々にアシストをズバリ決め、得点に貢献だ。盛り上がるAチームさらに鉄馬はインターセプトが成功し、そのまま得点だ。
「鉄馬さん、かっこいい!」。
今のは野菊の声か? ようし、調子が出てきたぞ!
鉄馬は生き生きと動きまわり、その後も得点を重ね、熱狂的な声援の中で第一ゲームを勝利で終了した。休憩時間に、野菊たちをみると、みんなで手を振って声援を送ってくれた。
「よし、このままぶっちぎるぞ!」
だが、風間が鉄馬のところに黒逸院長を連れてきたことにより、思いもしない空間のゆがみが発生しようとしていた。
やがて第二ゲームのホイッスルが鳴る。ますます調子のいい鉄馬は順調に得点を重ねていく。だがおかしい…先ほどのような声援が聞こえてこないのだ。おかしいと思いながらも鉄馬はがんばり、見事なダンクシュートを決める。
「やったぜ!」
だがあまり大きな声援は聞こえてこない…おかしいと思いながら互角のうちに第二ゲームも終了した。
試合が終わって、野菊たちをみると…なんとバスケの試合ではなく、あの計測機械の方を見ているではないか? なぜだ。鉄馬もちょっとそちらをのぞいて見る。
「えっ? えええっ!」
最初はなんだか分からなかったが、分かってきたらもう、驚くしかなかった。
「に、人間じゃない?!」
高校生軍団は、いつの間にか全員計測機械のコーナーに行き、黒逸仁を見つめていた。
握力、背筋力、肺活量、垂直飛び、あらゆるデータが常人をはるかに超えていた。動体視力や平衡感覚、敏捷性などのデータは、完ぺきだった。ありえない、ありえない数値が計測のたびに出てくるのだ。
風間もさすがにネクストサピエンスの凄さに声も出なかった。昨日の知能検査も満点の連発、運動能力もこんなに高いとなると…人類との共存すら成立しなくなる…そう思わせた。というか、ネクストサピエンスの存在は、現生人類の脅威になるのでは?! …恐怖すら感じるほどであった。だが、そのネクストサピエンスに真っ向から立ち向かう男がいた。鉄馬だった。鉄馬はネクストサピエンスのなんたるかなど全く知るはずもなかった。それよりここで自分の成長をみんなに認めてもらうはずが、野菊に近づけるはずが…これまでの苦労が水の泡と化そうとしていることをなんとかしたかった。さっきまではあんなにうまくいっていたのに…いったい、どうしてしまったのだ。自分は毎日努力してきた、今日だってかなりいい調子だ。バスケなら負けない。もう一度注目を集めてやる!
鉄馬は突然黒逸院長の前に立ちふさがり…言った。
「黒逸さん、どうです、僕とバスケの一対一の対決をしませんか?」
黒逸は最初は不思議そうな顔をしていたが、にこっと笑って答えた。
「ぼくはバスケットボールは、あまりやったことがないんだ…おてやわらかに頼むよ」
黒逸の方がかなり身長が高いが、今日の鉄馬は負ける気はしなかった。いくら運動能力が優れていても、バスケは初心者らしい。簡単に勝てそうな気さえした。
「ピピー!」
ホイッスルがなり、鉄馬と黒逸が両サイドにわかれてボールをとり合い、ゴールを決めていく。
「鉄馬君、負けないでー!」
声援が返ってきた。思った通り、技のレベルは鉄馬がずっと上だった。だが黒逸は、高さがあるので、やはり手ごわい、甘いシュートは簡単にはたき落とされる。でもそれが意外に接戦となり、練習試合としてはかなり盛り上がる。
「北条くうん!」
試合はもつれ、得点を取ったり取られたりのすごいシーソーゲームとなって来た。同点のまま、もうすぐ時間切れだ。だが、最後に黒逸は、一か八かでとんでもないことを始めた。鉄馬にとられる前に、超ロングシュートを試みたのであった。
「あんな無理な体勢から、超ロングでボールを投げたって…入るはずが…入った?!」
呆然と立ちすくむ鉄馬…しかも、これはいけると思った黒逸は、ボールを手にした途端に無理な体勢から次もまた成功、次もまたゴールと、連続して決め、終われば大差で勝利をものにしていたのだった。終了のホイッスルがなる。
「やあ、楽しかった、いい汗を書いたよ。北条君有難う…」
さわやかにそう言って、握手を求めてくる黒逸。すると風間がすかさずやって来た。
「…黒逸さん、約束です、病院ですべてを話してもらいます、いいですね」
「ああ、約束だ。さっそく行こうか」
風間と黒逸は、急いでアリーナを後にした。
もう一度観客をみる鉄馬…もう自分をみている者はだれもいない…にがどうなってるんだ…バスケで自分が初心者に負けるなんて…あり得ない…しかし現実は冷酷だった、野菊も今は出口に向かう黒逸院長をみている。無理な体勢から3ポイントシュートを三連続で決められた…。初心者に負けた…もう野菊もこちらを見ていない…俺は俺は…。ものすごい敗北感が鉄馬を襲い、さっきまであれほどあった自信がこなごなになって砕け散っていった。
「俺は…俺は…負けちまったんだ!」
その時空間がゆがみ、鉄馬の足元に大きくひびが入り、崩れ始め、鉄馬の立っていたバスケのコートが隕石が落ちたように大きくへこんだ。
「うわ、うああああ!」
ガシャガシャドドドーン!
崩れ去るがれきとともに、鉄馬は大きな暗い穴の中へと墜落して行ったのだった!
「いったい何がおきたのおお?」
「事故よ、土砂崩れか何かの関係よ、みんな逃げて!」
あの高校生たちが、散り散りになって逃げ出した。
「野菊さん、野菊さん、待ってくれ、行かないでくれ!」
暗い穴の中を落下する鉄馬。闇の中で嘲笑う声が響く。
「なんだ、あいつ、やっぱり口ほどにもないぞ」
それは瀬川麗香の悪夢からやってきたやつらだった。
「ちょっと調子が良かったからって天狗になっていたのさ」
「やめときゃよかったのさ、身の程知らずが」
「だって憧れの彼女が見に来たんだ、かっこもつけたくなるってものさ」
「みっともない、最低だな。ギャハハハハハハ…」
セーラー服の野菊が穴の外から鉄馬を覗き込んでいたが、やがて背を向けるとどこかへ歩きだし…そのうち影が薄くなり、消えていったのだった。
「野菊ううううう!」
暗い穴の底で、鉄馬はそのうち、動かなくなっていた。
そしてその歪みは空間に広がる黒い波紋となり、湖畔の世界へと不気味に広がって行った。病院へ、熱帯植物園へ、別荘地へバンガロー村へ、男爵邸へ、神波島へ、そして幻の上海へと…。
波紋が打ち寄せた時、二宮の心に蘇ったのは深い悲しみだった。
「じゃあ、二宮の旦那は、一度租界に戻るんですか?」
「ああ、爆撃の危険性は高いが、逆にこうなったら、可能な限り日本軍の諜報部作戦室に行かなければならない…。お前たちは、揚子江沿いに、すぐ北の方に移動した方がいいだろう…」
「わかりました。じゃあ、まず旦那を租界まで送り届けます」
「そんな時間はない。お前たちはお前たちですぐ逃げろ、私は一人で行くから」
だが、ハンは首を縦に振らない。ヤンファも、反日の武装集団がいるから、日本人一人で出るのはやめてくれと懇願する。時間がない、やむを得ず、二宮は、人力車にヤンファと乗り込み、自分は伏せて布をかぶり、外から見えないようにした。遠くからみれば乗っているのはヤンファだけだ。
「では、行きます」
ハンが走り出す。いつも通りの逃げる鶏の声や、雑踏の音が聞こえる。だが租界の入り口に近づいた時、いつもと違う、男たちの怒号のような音が聞こえてきて、やがて人力車の回りをとり囲む。もちろん二宮は、頭を上げて外を見ることはできない。日本人を隠していることがわかったら、ハンやヤンファの命だって危ない。ヤンファがかけた布の上から片手で二宮の首をぐっと抑え、片手で、二宮の手を握り締める。さっきヤンファが言っていた反日の集団か? それとも軍隊のはぐれ者たちか? どちらにしてもかなりあぶない。どうも、行き先のことでハンと言い争いになっているようだ。日本人の多い協同租界に用事があると言うハン、租界に誰かを迎えに行くのか? お前は日本軍の仲間か? ならば通すわけにはいかない! みたいな会話をしている。
「妹と一緒に逃げるだけだ!」
「ならば、租界に行くことはないだろう!」
しばらくいい争いが続いた後やっとのことで武装集団の群れから抜け出し、協同租界に入り、さらに作戦本部に直接は行かずに裏通りを走って人気のないところでやっと人力車が止まる。ヤンファが、最後に二宮の手を強く、いとおしく握りしめる。
「二宮さん、また会いたい、うまく逃げてね」
「お前たちこそ、俺のせいであぶなかったな。迷惑掛けちまった…本当に、すまん」
「だめだよ、あや。まっちゃだって二宮さんは何も悪くない。どこも悪くない、来てくれるだけで、私も兄さんも嬉しかったんだから」
「ありがとう…でも、俺のことは忘れて、早く逃げろ…」
「忘れない、また、会いに来て…ずっと待っているから!」
二宮は転がるように人力車を降りると、そのまま裏通りを走り、急いでホテルの階段を上り、いつもの公園へと戻って行ったのだった。最後にもう一度だけ振り返ると、爆撃機の音と、爆弾の音、爆発音、人々の悲鳴が遠く響いてきた。…そうだ、すべては実際にあった出来事だ。
「私は…命からがら逃げ伸びて、爆撃の後にまた上海に戻ったが…もう、ハンやヤンファとは二度と会えなかった。噂でハンと妹は死んだと聞いたが…あの時自分を送ってくれて、そのために逃げ遅れたせいではないかとずうっとずうっと思っていた。命を助けて走ってくれたハン、一晩中、傷に手を当て、そのまま寝てしまっていたヤンファ…」
あの思いつきの歌声が今でも心に刺さるように聞こえてくる…。すべては広がる暗い波紋の中、爆撃機の音に飲み込まれ、闇の中にかすんでいく…。
ずーっとずーっと、すまなかった、悪かったと心の隅で繰り返していた。だが、その時二宮の心にヤンファの声が聞こえてきた…。
「だめだよ、あやまっちゃ。だって二宮さんは何も悪くない。どこも悪くない、来てくれるだけで、私も兄さんも嬉しかったんだから」
そうだ、ヤンファは、ちゃんと大事な言葉を残しておいてくれた。幻の上海は改めて、ヤンファのやさしさを思い起こさせてくれたのだった。
二宮は階段を上りきり、湖畔の道を歩きだしたのであった。
男爵邸の富子と瑠璃のところにも悲しみの波紋がさざ波のように打ち寄せる。
夕暮れが近づいた湖に斜めに日がさし、屋根裏部屋のガラス窓をほのかに金色に染める。
「…日本の敗色が確かなものになって来た頃、私はガンだと診断され、もう手遅れだとも言われました。そして、お父様の決断で、しばらくは湖の別荘で暮らすこととなり、ここに着いた日から、私は自画像を描き始めました。戦争がなければ、本格的な治療もできたかもしれなかったけど、どうすることもできませんでした。、私は、自殺したわけではないんです。戦時下のこの男爵邸で、誰にも知られず息を引き取ったのです」
「…そうだったんですか…」
今、自分の目の前にいる富子は、いったい誰なのだろう…瑠璃は改めて強く思った。でも富子はそれを知った上でか、さらに言葉を続けた。
「瑠璃さん、一つだけ頼んでいいですか?」
富子の言葉は一段と重かった。
「もちろんです」
「この男爵邸を市に寄贈する前に、なんとかこれだけは…」
富子は愛用の机の二段目の引き出しを開けて、中から鍵の束を取り出し、一番下の引き出しの鍵を開けて見せた。
「無理を言ってすみません。その時が来たら、…さんにこの引き出しの中のものを渡してほしいのです」
瑠璃は大きくうなずき、夕日のさす屋根裏部屋と、金色の湖を目に焼き付けて、富子にさよならをした。
一階まで降りて行くと、もうがらんとして、先ほどまで活気のあった厨房ももうひとけがなかった。ただあの省吾と言う秘書がたった一人で送りに来てくれた。
「お越しいただいて、お嬢さまも、本当にお喜びです…ありがとうございました」
秘書が顔を上げた時、瑠璃はある事実に気がついた。
「省吾さん、三崎省吾さんでしたのね。あなたの思い、確かに受け取りました」
そう、省吾とは三崎省吾、あの三崎老人の若返った姿だった。
この男爵邸は、三崎の心の奥底にあった本当の男爵邸に他ならなかった。
瑠璃は様々な思いを胸に、バラ園を抜けて、湖畔の道を返って行った。
その夕暮れ時、三職人の一人、木の声が分かる駒形さんは、山の方を見て、驚いていた。
「今日は山の声が聞こえないどころではない…木々たちの悲鳴が聞こえてくる! いったい何が起ころうとしているのだ!」
やがて、塚森山のあたりから、小鳥や虫の声が消え、死のような静けさが広がっていった…。
そしてその不安はさらに大きな怪物と姿をかえて、現れようとしていた。
「八岐さま、まったく予期しなかったマイナスの波動の共振が起こりマイナスの波が周囲に広がっていっております。ちょうど湖に大きな波紋がたち、岸辺に打ち寄せて行くように…!」
「なぜこんなマイナスの共振が起こるのだ?」
「土砂崩れの恐怖が予想以上に、湖畔の人々の心に重くのしかかっていたようです…。それとまったく予想していなかったことですが、現実の塚森山の中央部付近に、現実世界からの欲望や恨みの想念が集中しているポイントがあったようなのです。正体はまったくわかりません…」
「現実世界からの影響を受けるのはある程度は想定していたが、こんな大きなエネルギーをもつとは、あそこにいったいなにがあると言うのだ…あんな山の中に…。それで……今度はどんな現象が起きようとしているのだ?」
「いろいろの人間の持つ種々の恐怖や恐れが土砂崩れ地点の塚森山に集合化した…怪物としか言いようのないものです」
いったい、なにが起きようとしているのだ?
あの総合スポーツセンターのアリーナの床に開いた大きな穴、それが地の底に沈みこむことによって大きな歪みが生じ、空間に黒い波紋を投げかけ、広がり、それがまた多くの人々の心に打ち寄せては返し、さらに大きな黒い寄せ返しを生み、一か所に集まって、恐怖や恨み、憎しみが一つの形になろうとしていた…。
土砂崩れ・賽ノ介・もののけ・空襲・人々の恨みや欲望が、合体していく。八岐が大声で言った。
「分析コンピュータをフル稼働させろ、今こそがその瞬間だ」
その時、風間は、黒逸院長と病院の最上階に上って行ったところだった。嫌な予感を感じて、最上階の窓から外をみた。
塚森山の上空に黒雲が渦巻き、さらに不気味なうなりが聞こえてくるのを感じていた。
「何か予想外のことが起きたんだ?」
風間は、黒い携帯を取り出すと野菊に電話した。
「…今、病院に来ている。この世界の謎が全部解けるかもしれない。でもそれと同時に何か恐ろしいことが起きようとしている。野菊さん、君のいるところから、塚森山は見えるかい?」
野菊がみている間にも、塚森山の上空に黒い雲が湧きあがっていく。本当だ、いったい何が?
「私と塔子も、風間さんのいる病院に行くわ。何か少しでも力になれれば…」
「わかった。ありがとう、でも十分気をつけてくれよ。」
さらに野菊は移動しながら、すぐ七橋に連絡する。良かった今回はすぐつながった。
「七橋君、今あなたがいるところから塚森山が何かおかしいのが見える?」
七橋は言った。
「ちょっと待って、今良く見えるところに行くから…ううん、特に大きな変化は僕の目には写らない…さっき、駒形さんって人が、木々の悲鳴がするとか、そのあと何の音もしなくなったって言っていたけれど…。エ? 黒雲、そんなものは何もない…空はよく晴れているよ…」
やはり、七橋のいる世界とこっちは違う…違うのだ。
野菊も塔子と連れだって、病院へと歩き出したのだった…。
いったい何が起きたと言うのだ? やっと道路が開通し、これからすべてが正常に戻るのではなかったか?
野菊と塔子は、丘の上に通じるエレベーターに飛び込んだ、そして丘の上でエレベーターのドアが開いた時、二人は目を見張った。
「…何なの? あれは?!」
暗雲たちこめる塚森山の方から何かが近づいてくるのだった…。
遠くて良く見えないはずが、その不気味な存在感はすぐにわかった。
「…あれは…落ち武者…賽ノ介…。今は霧も出ていないのに…なぜ…」
塔子が震える声で言った。
「…でも、前に、見たときよりもずっと恐ろしい姿になっている…」
それは歩く土砂崩れ、白骨化した落ち武者が甲冑をまとい、日本刀を引きずりながら、病院の方へと近づいてくるのだった。頭上には黒雲が渦巻き、爆撃機の音か地響きかわからない唸りとともに、雷や火の玉が時折黒雲の下で瞬く。そして、落ち武者とともに土砂が崩れるように動き、爆撃を受けた焼け焦げたがれきが足元で崩れ続けるのだ。
そして道のないところでもがれきや土砂崩れが道を作る、土砂崩れの波に乗るように一直線に病院に進んでくる。このままではあと数分でこちらにやってくるだろうと思われた。みんな立ちすくんで、その怪物を見つめていた。
その時、野菊と塔子の目の前で光が瞬き、その光が病院の玄関に飛び込むと、やがて玄関から八岐が飛び出してきた?!
「みんな危ない、あの怪物の狙いは病院だ。建物から離れて、湖側に避難するんだ。こっちだ」
「何なんですか? あの怪物は…やっつける方法はあるんですか?」
「ああ、私もこうなるとはまったく考えていなかった。不覚だ。だが、取り返しのつかないことになる前に、先に切り札をきることにした。安心してくれたまえ…」
「切り札ですか?」
だが、その時、八岐の黒い携帯が鳴ったようであった。八岐は急いでその携帯を覗き込むと、すぐ戻ると言ってまた玄関に飛び込んで行った。塔子が覗き込むと、光とともに消えていた?
「切り札っていったい?」
いったい、賽ノ介を止める切り札とは何なのか…土砂崩れのような怪物は、爆撃機のような音を立てながら、また一歩一歩とこちらに近づいてくるのだった。
高塚はその頃、塚森山へと走って行った。
「やつら…もう金を手に入れるころだな…時間がない…」
高塚は立ち止ると、バッグの中からモバイルを取り出し、道のわきで画面をチェックした。
「ビンゴ! 三か所のうちの一か所にバッチリ当たったぞ」
そして高塚は急いで画面を見てメモ用紙に何かを書きこむと、それを封筒に入れたのだった。そして、自動車の通る道路に駆け出すと、そこに武藤と坂本をのせた翼館の軽トラックが止まっているではないか。
「さすが御剣さんだ。時間もぴったり、まだ間に合うぞ」
高塚は車の武藤さんに封筒を渡し、何かを頼んだ。
「オーライ、任しときな」
翼館の車は、土砂崩れの現場を目指して走り出したのだった。
車を見送った高塚は、そして山頂への道でなく、あの廃線になったローカル線の線路を歩いて行った。
「どうやら間に合った。うむ、しかし…これは…」
すぐ近くの木陰に、見慣れぬ自動車が止まっていた。東郷たちを追って、自分より先にやはり誰かが来ている…。
そして高塚は急いで現場へと駆けて行った。そう、それは塚森山の山頂ではなく、山頂の真下、廃線になったローカル線のトンネルの中央部だったのだ。
その頃東郷とその四人の手下は暗いトンネルの中で、大型の懐中電灯を照らしながら最後の作業にとりかかっていた。
「東郷さん、開きました。本当に銀の鍵で開きました!」
「よし、鉄の扉は重いぞ。みんなで力を合わせて開けるんだ」
ゴゴゴと音を立てて扉が動いて行く。そこはトンネルの中に設けられた、避難用の狭い空間だった。それが廃線になった時、西園寺社長が重い鉄の扉をとりつけ、整備して、秘密の保管庫に仕立てたのだった。
「ええ、脱税したお宝ってこんなに大きいんですか?」
「赤坂さんしか詳しい金額は分からねえが…特注の大型トランクで3つ分、十億円近くはあるだろう…」
黒服の軍団はばばばっと扉の中に走って行き、中から大きなトランクを三つ運び出した。
「急げ、今のうちなら、警察も来ない!」
そして黒服軍団は懐中電灯をぎらつかせながら、トンネルの出口へと歩き出した。
「やった、出口がもうすぐだ。山分けだ」
荒々しい男たちの息遣いがこだました。欲望と歓喜が渦巻いた。
だが出口に近づいた時、そこに女のシルエットが立ちふさがった。
「なんだ?」
するとその女は手に持っていたバッグから、拳銃を取り出して、ぶっ放した。
「トランク三つすべて、私の車に運んでもらうわ」
東郷が進み出た。
「てめえ、緑川。これは俺たちが隠した金だ。お前が一人占めする気か?!」
すると緑川は東郷を睨みつけた。
「一人占め? とんでもない。全部すぐに燃やしてやりたい、この金のおかげでどれだけの人が不幸になったことか」
「燃やす? ど、どういうつもりだ?」
「死んだ西園寺がうちの病院やその周囲を売り払って手に入れた金よ! もともとあんたらの金じゃない! あの時、地上げに苦しんだ何百人の住人、乗っ取り騒動で生活の基盤を失った人々、芦原さんのお父さんのようにこの金を隠すために犠牲になった人も数知れず、社長も死んだわ。この金がある限りどんどん人を巻き込んで犠牲者が増えていく。この金はねえ、数え切れない人の欲望や恨みが染みついているお金なのよ、この世にあってはならないお金なの! だから燃やすのよ」
そう、財団病院のもう一つの世界の実験をゆがませた原因不明の巨大な想念エネルギーも、ここにあったのだ。
「ちっ、あの病院の娘だったか?」
「わかった…とりあえず、拳銃をしまってくれ…」
「しまうわけないでしょう!」
東郷は手下たちに何か合図して、ゆっくりと緑川に近づいていったのだった。
七橋はエレベーターを使って丘の上の病院の前に出た。もちろん黒雲も迫りくる土砂崩れもこちらの世界には、怪物も何もない。だが、病院のロビーに入ると、緊急放送が流れ、みんな病室や待合室から立ち歩かないようにとの警告ともとれる内容が流れていたのだ。
「…土砂崩れの影響で、電気系統の小さなトラブルが発見され、今点検を行っております。もし停電することがあってもすぐに回復しますから御心配なさらないようにお願いします。今は安全優先のため、移動は極力差し控えください…」
何かが起こっているのは確かなようだ。そしてしばらく様子をうかがうと、そこにあの謎の美女ナターシャがやって来た。
「あのう、すいません。七橋と申します。風間さんに呼ばれてきたんですけれど…。八岐さんはいらっしゃいますか?」
「…あなたが七橋君? いいわ、こっちに来て…」
七橋とナターシャ前園は、八岐のいるという最上階の院長室へと向かった。大理石の噴水や彫刻のあるホールを越え、奥の部屋が見えてきた。
「院長室へようこそ」
ナターシャと入った院長室は、風間の時の部屋とはもちろん全く違っていた。そこは大理石の大きな柱のある立派な部屋で、重厚な家具が並んでいた。
そこにはさきに、八岐と三体の医療用ロボットがすでに来ていた。
八岐が立ち上がって迎えてくれた。
「いやあ、こんにちは、七橋君。良く来てくれた」
すると医療用ロボットも挨拶をした。
「始めまして、七橋さん。外科用ロボットのマリアと言います。よろしくお願いします」
「内科用ロボットのクレアと申します。よろしくお願いします」
二体のエレガントな女性型ロボットに続き、大型で腕が四本の男性型のロボットも進み出た。
「介護・運搬用のロボット、ルークですよろしくお願いします」
すべてのロボットの胸には大きくて鮮明なモニター画面が付いていて、自己紹介に合わせて名前の文字がきちんと浮かび出る。
「へえ、医療用ロボットが実際に動いている病院は初めてです。すごいなあここは」
その時七橋は、部屋の奥にある見慣れないものに気付いた。
「なんですか、これは…? パイプオルガンですか??」
人間の背丈ほどの金色のパイプのようなものが部屋の奥にずらりと並んでいた。
「ああ、その金色の筒は新しく開発された人工知能のコンピュータの冷却装置だ」
「へえ、美しい。ロボットの次は人工知能ですか? 驚くことばかりだなあ」
「ああ、世界を創造するために作られたマシン、ディーン・クロイツだよ」
「ディーン・クロイツ?…ところで突然おじゃましたのにはわけがあって…」
七橋はまず、野菊と同じ場所にいながら会えなかった事実を告げた。するとそれを聞いていた八岐は今までに見たことがないほど驚いていた…。
「ちょっと待ってくれ…まず、そもそも君と沢渡野菊の携帯がつながるはずはないのだが…」
あの八岐のうろたえように、七橋が逆に焦った。すぐにナターシャ前園が人工知能ディーン・クロイツのパネルを操作して内容を確かめた。
「願い事の強い思いが仮想世界のシステムを今朝書き換えたようです…」
「願い事が書き換えただと、想定外だが、それでは仕方がない」
そして七橋はさらに風間と打ち合わせした、あの事を八岐につきつけたのだった。
そう、野菊さんに、バンガロー村で別れたみんなに会いたい、声だけでなく、直接顔を合わせて話しがしたいと…。
「二つの世界が携帯でつながってしまった今となっては、弁解の余地はない」
八岐は開き直り、落ち着いて話し出した。
「こうなった以上、君がここに来るのは必然の結果だったのだ。現実ともう一つの世界の間は普段は私やナターシャのほかは行き来もできないし、もちろん連絡もとれない。でも。君は、強い願いにより、もう一つの世界と通話ができるようになった。二つの世界のまさに懸け橋となったわけだ。そして今、二つの世界で異常が起きようとしている。君にも協力してもらわねばならないかもしれない」
「みんなはどこにいるんですか? もう一つの世界にいるんですか?」
七橋の問いに八岐はシンプルに答えた。
「みんなは、この病院の地下でカプセルに入っている。彼らの意識は今この湖畔と地形も住んでいる人も寸分違わず作られた仮想空間の中にいる」
「じゃあ、今、僕がいる方が現実ですか?」
「ああ、こちらが現実だ」
それは驚くべき事実だった。
「仮想空間? それはいったいどこにあるんですか?」
「われわれの偉大なる院長ディーン・クロイツによって、コンピュータの中に構築された空間だ」
七橋が八岐からそんなありえない話しを聞いていた頃、もう一つの世界で、風間は核心に触れる質問をしていた。
もう一つの院長室の、あの向かい合った二つの椅子の一つに風間が…もう一つに院長の黒逸仁が座っていた。
「じゃあ、そもそも土砂崩れは、あなたたちが起こしたのですか…」
「その通りだ。バスの運行がストップしたのもすべて私たちの計画だった。爆弾を積んだドローンを二機飛ばして、人工の土砂崩れを起こした。だが誤解のないように言っておくが…あの地点は巨岩の落石が絶えず、近いうちに事故が起きるとみんなで心配していた斜面だ。けが人一人もなく、落石防止の工事が本格的に進められることになった。地域への貢献はしているわけだ」
さすがの風間もむっとして次の質問をした。
「では、そんな無理なことをしてまで、なぜ、そんな空間を作る必要があったのですか?」
「我々は高度な電子頭脳を作れるようになり…遺伝子をデザインしてあらゆる遺伝病を克服し、優秀な頭脳、優れた肉体をも手にした。…ネクストサピエンスの製造にも成功してきた。だが、ネクストサピエンスでも、まだどうにもならない領域があった」
「どうにもならない領域?」
「それは意識だ。もし、知力や体力に優れていてもドラッグや精神病、異常心理などを克服できなければリスクは逆に大きくなる。また自分ではコントロールできない不透明な深層意識をコントロールし、さらに第六感や超能力の領域までをこの手にしなければ進化とは言えない。できなければ、依存症や無意識の暴走により、かえって大きな破滅を齎すかもしれない」
財団病院の組織で作られたプロトタイプのネクストサピエンスは、大人になって人間の社会に参加した時、こう思ったそうだ。自分は、頭脳も肉体も生まれつき優れていて、他の人間とは争いにもならない。競う価値もない。勝っても喜びもなんにもない。当り前だが、通常の人間は、自分よりかなり下に思えたり、バカにしたりしたくなる。それも危険なことだし、逆にねたまれたり疎まれたりもする、そう思ったり思われたりすること自体が大きなストレスにもなる。相手のためを思っていても、自分は我慢していても、現実の中では報いられず、理不尽に踏みにじられることさえある。小さな願いや純粋な思いが、逆にストレスに代わってしまうのが現実なのだ。
「そこで我々は、意識の向上のため、次のような世界を考えた」
あたたかな思いから出た純粋な願いが高い確率で実現する世界。
正当な努力が報われる世界。
試練を乗り越えようとする気持ちを強くしてくれる世界。
心を元気づけてくれる世界。
依存症や心の病を治してくれる世界。
「そんな世界を仮想空間に作ることにより、意識そのものの進化を試みたのだ」
具体的には、純粋で穏やかな心の波動、やさしさや愛に満ちプラスの波動は世界を明るく楽しく変容させ、暗く悲しいマイナスの波動は、その原因を自覚させ、乗り越える手助けをするように世界を変容させていくのだという。
「それでアメリカでは自殺願望のあるうつ病患者や、狂暴なストーカー、再犯を繰り返すドラッグ患者を強制的に治療して実績を上げてきたわけですね」
「色々と問題がなかったわけではないが…結果として彼らはもう二度と同じ過ちを犯さなくなった。いいかね風間君、現実と寸分違わぬ仮想空間を作っても現実とまったく同じでは作る意味がない。我々は人間の意識をより高める、進化させるための変容する仮想空間を試みたのだ。つまり参加者の思いや願いによって、仮想空間自体が変容していくのだ。この空間の中では、プラスの波動、その人の心の奥で願っている願望や、それを元気づけてくれる現象が起こりやすくなる。依存症の原因や乗り越えなくてはいけない者を出現させるが、それを乗り越える力も与える。死ぬこともなく、会いたい人には会える。若くなりたければなれる。強い気持ちがあれば、願いも叶う、奇跡にも出会える。時間も空間も超越して、現実とそっくりだが、現実にはあり得ない体験をさせて、意識を豊かなプラスの波動で満たすのだ。みんなの心の中にある不安や悩みも試練として、時には怪物として現れるが、それを乗り越える強さも同時に与えてくれる。だが、事実上、アメリカで行った実験は最後には恐れや不安がゾンビやバンパイアという形で具現化し、世界としての長期的継続は無理だった。そこで我々はいくつもの改善を行い、外界との連絡を絶った空間で、ここ日本でまったく新しいプロジェクトを立ち上げた…真の意識の進化のために…。そのための試みなのだ」
だが、風間と黒逸院長の話している、病院のすぐ横では、だんだんと爆撃のような唸りが大きくなり、山津波とともに怪物が迫ってきていた。すると、黒逸院長は、立ちあがった。
「さっき、八岐に頼まれたんだ。院長、切り札の登場をお願いしますってね」
もう一つの世界では、とうとう押し寄せる山津波とともにあの不死身の怪物落ち武者の亡霊、賽ノ介が病院のすぐ横まで来ていた。
「あ、風間さんが出てきた。背の高い若い人と一緒だわ…」
そう、ネクストサピエンスの、黒逸院長だ。
「この世界でも細心の注意を払ったが、やはりマイナスの波紋が生まれ、土砂崩れの中心に、ゆがみのエネルギーが集中し、怪物となって具現化してしまった。今、私はこの世界の創造主として、怪物を除去し、その正体を見極めねばならない。消えされ、怪物よ」
すると黒逸院長の全身から、空間を歪める衝撃波のようなものが広がり、賽ノ介に直撃した。だが、なんということ怪物はその衝撃波を跳ね返したではないか?! 賽ノ介は歩みを止めない。
「わが名は賽ノ介…我は不死身なりいい」
そして賽ノ介の反撃が始まった。まずは黒雲の下に雷が光り、爆撃機の音とともに、火の玉が降り出し、それが院長へと降り注ぐ。
「吹けよ嵐、うなれよ竜巻! 風よ、光よ、黒雲を吹き飛ばせ!」
すると院長の周りで風が巻き起こり、黒雲を引き裂くと、雷は遠ざかり、火の玉は砕け、散り散りになって行く。そして、わずかな光が差し込んでくる。
「ふふ、黒逸とやら、言霊を使いよるか…やるな。望むところよ」
すると賽ノ介は大刀を大きく振り上げ、目の前の地面に突き刺した。
「おりゃあああ。」
すると大地が大きく揺れ、うねり、土砂崩れのように盛り上がりながら、押し寄せてくるではないか?!
「…千年の森よ、山を守り、その恵みを我らに与えよ!」
黒逸がそう叫ぶと、押し寄せる土砂の中に急に緑が茂り始め、山津波の勢いはドンドン衰え…そして森が成長すると、止まったのだった。
「破壊の炎よ、こやつを焼き尽くせ!」
すると、今度は賽ノ介の足元にあったがれきが燃えながらこちらに押し寄せてきた!
「千年の森よ、湧き出す泉よ、豊かなせせらぎで怒りの炎を消し去りたまえ」
すると森のあちこちから湧き出した泉が、せせらぎが、怒りの炎を、破壊の業火を鎮め、消し去って行く。
「うぬう、これならどうじゃーあああ!」
賽ノ介は青白い炎とともに、千本槍の術と大刀の舞の怨霊技を駆使する。
「千本槍!」
そう叫ぶと数え切れない槍が土砂やがれきの中から突き出る。
「大刀の舞!」
賽ノ介の叫びに、青白い火の球とともに大刀が空中を飛び回る。
光の盾や大地の壁でそれを交わしていく黒逸院長。
そして、逆に光の槍の一撃で、賽ノ介をひと突きにしようとする。
「真実の光よ、闇を照らせ、聖なる槍よ、邪悪を貫け!」
「グワアグオオオオ!」
黒逸院長の腕から長い光の槍が伸び、賽ノ介の胸をひと突きにする。光とともに粉々に砕け散る賽ノ介!
「な、なに?!」
ところが、砕けた邪悪な破片の中から、さらに別な邪悪なオーラのようなものが立ち上った。多くの人々のうめき声や悲痛な叫びが聞こえ、札束が舞い、金貨が飛び交う…いったいこれは? やつの中にはさらなる邪悪が眠っていたのか?
「グファファファファ…」
立ち上る黒いオーラの中に賽ノ介はあっという間にさらにおぞましく復活していく。もともとの白骨落ち武者の周りに黒いオーラが取り巻き、肩のあたりには、五人の黒い顔が嘲笑い、投下された爆弾や軍服が体の一部となり、頭上で渦巻く黒雲には、苦しむ人々の姿が浮かび上がった。
「なぜだ…なぜおまえは消滅しない…」
すると地の底からしぼり出るような声が響き渡った。
「…われは不死身なりいいい、不死身の賽ノ介なりいいい」
怪物はさらに力を増して、黒逸をにらみ返したのだった。
「…そうか、この怪物は不死身と言う条件で具現化しているのか…ならば普通のやり方で消し去ることはできない…。残念だが、おまえのデータごとお前の存在を消し去る…」
「なんだと…そんなことはさせぬ…できるはずがない」
賽ノ介は体から青白い狐火を分離させ、怨霊に変身させて、空中を襲いかからせた。二人の着物姿の女人が空を舞い、やがて恐ろしい形相で黒逸を襲う。
「自分のデータの一部をコピーし、分身を作ったと言うのか?!」
戦いが長引けば、ますます手に負えなくなりそうだった。
「だが、私にはできる、私こそが、この仮想空間を創造した創造主、電子頭脳のディーン・クロイツだからだ」
黒逸仁という人間は、風間の追及を逃れるために、風間の知識から作り上げられた仮想の人間、幻のネクストサピエンスだったのだ。
「憎しみは憎しみを生み、争いは新たな火種を生む、もつれた糸をほどき、引き抜かれた剣を鞘に戻し、歌を音符に、ことばを文字に戻せ…時を巻き戻し、すべてを風とチリに、すべてをなにもなかったことに…!」
黒逸は、究極の言霊を唱えると、最後に一言言った。
「さらばだ」
そして黒逸院長が最後にそうつぶやいた瞬間、賽ノ介も怨霊もデータに分解し始めた。
「われは…不死身な…りイイウディリロルラワアア…」
一瞬物質が、風景がデータの数字にほどけ、分解し、散り散りに消えていく…。
そして、すべては消え去って行った。
黒雲はちぎれ行き、青空が見えてきた。野菊や塔子はほっと胸をなでおろした。
その頃もう一つの深い闇にも光が差してきた。すべての力を失い、消えてしまいそうな鉄馬、でも誰かの力強い心が彼を引き上げようとしていた。
「リリーーン…」
あの神波神社の聖なる鈴の音とともにやさしい声が聞こえた。
「…鉄馬君…」
深い闇の穴の底にも光が差してきた。
「何してるの? 立てるでしょ。自分の力で! あなたは強いんだから」
それは瀬川麗香の温かい声だった。
そして鉄馬の腰のポケットで光り始めた物があった。
「なんだ、これは? …すべてを引き上げてくれる昇り竜…?!」
翡翠の眼がきらめく。あのお札に書かれた昇り竜が、光を放ちながらぐんぐん大きくなり、輝く銀の流となり、力強い雄たけびをあげた。そしてしなやかにその体をくねらせながら、ぐんぐん鉄馬を引き上げ、昇り始めたではないか?!
そして鉄馬は鈴の音に心を開かれ、昇り竜の光とともに穴から脱出できたのだった
黒逸院長は、怪物との戦いを終え、歩きながら静かに言った。
「分析は終わった…人間の深層意識に眠る、漠然とした不安、闇への恐れ…、そして人間の思い通りにならない自然災害や異常気象。その中で、妖怪や怪物は災害のメカニズムを表し、神はそれを乗り越えるための願いを受け止め、指針を与えてくれる。それらとうまく付き合うことが精神のバランスをとるシステムである。だから、神だけでなく、怪物も必要なのだ。必要なのは怪物をコントロールするシステムそのものだ。それが、ヒーローであり、神なのだ」
だがその時、現実の病院にいる七橋の前でそれは起こった。あの医療用ロボットが、突然ふらりと動き出したのだ。どうしたのかとそれを追いかける七橋の目。
「…われは不死身なり…」
「? …なんだ? なんて言ったんだ」
そして女性型ロボットのクレアは動き出すと、突然八岐に向かって、ガスを噴き出した。不意打ちにどうすることもなく倒れ込む八岐。
「麻酔ガスだ…みんな逃げろ…何かが起きて…」
八岐はもう動かなくなった。
「一番難敵だと思われた、実在のネクストサピエンスを、不意打ちで倒すことに成功した。これで我々の勝利確率は五十五パーセントを越えた…」
八岐が実在のネクストサピエンス? いったいどういうことだ。
「クレア、いったい、何をしたの?」
ナターシャの言葉に、クレアもルークと同じセリフを口にした。
「我は不死身なりいいい。我は賽ノ介なりいいい!」
その時七橋は震え上がった、ルークの胸のモニターに恐ろしい白骨の落ち武者の大きな顔が映っていたのだ。しかも隣にいた二台の女性型ロボットの胸のモニターにも、狐美に包まれた着物姿の女の怨霊の姿が映っていた。
「仮想空間に発生した怪物が、消去されまいと、現実空間にデータを転送して、ロボットをのっとったんだわ。七橋君逃げて」
三台のロボットは、怨霊さながらに七橋とナターシャを追いかけ始めた。二人は近くの部屋に入ると、ドアをして作戦を練った。
「ここは万が一の時のシェルターにもなるセキュリティの高い部屋です。ドアも三つあります。ここからコンピュータ回線を使って、ロボットを停止させます。丈夫なドアが三つあるから、しばらくは平気です」
でも、中に入ると、特にコンピュータなどの機械はない。どこからロボットを停止させるのだろうか? すると部屋の中央で、ナターシャ前園は、突然目をつむって動かなくなった。
「八岐は受精卵時代にゲノム編集を行って生まれたネクストサピエンスのプロトタイプです。でもさらに私と八岐の脳には特殊なチップが埋め込まれているのです。私たちは、コンピュータや仮想空間と自在にアクセスができるトランスヒューマンでもあります」
ところが、数秒でナターシャは目を開けた。
「やつらはロボットをのっとっただけでなく、ロボットシステムまでのっとってしまった…これでは停止ができない…」
ドアの外ではレーザーメスや、四本腕の怪力で、一つ目のドアが破られてしまう。
「じゃあ、もう、止める方法はないのですか?」
「ありますが…。なんとかやつらをやり過ごして、この奥にあるメインコントロールルームに行って、やつらをシステムごと止めればいいのですが…。やつらは人間の欲望や恨み、怖れや恐怖が、仮想空間で実体化したものです。話しのわかる相手ではない…!」
その時、ドアの方でドンドンと大きな音がした。
「七橋君、私は少しの間仮想空間に、助けを求めに行ってきます」
ナターシャは目を開けたまま、動かなくなった。その間にもきしむドア、七橋はドアの前に机を動かし、何とか耐えていた。
仮想空間の黒逸院長の前に、突然ナターシャが現れて助けを求める。
「いったい、現実で何が起きていると言うのだ?」
「画像を転送します、ご覧ください。」
すると仮想空間の黒逸院長の目の前に大きなモニター画面が開いた。驚く黒逸院長。
「ロボットが、乗っ取られた?! まさか、仮想空間の存在が、現実空間を襲うだなんて!」
その画面の中ではついにドアが破壊され、七橋が追い詰められている映像が映った。
野菊も塔子もそれを見上げて叫んだ。
「七橋君じゃないの、いったいどうなってるの?」
やがてドアが吹き飛び、あのルークが姿を現す。
「あの胸を見て、白骨化した怨霊の顔が映っている。ここにいた怪物が、向こうに行ったんだわ。ねえ、どうにかできないの?」
「今、あらゆる手を使って現実世界へのアクセスを試みている」
「急いで! 急がないと七橋君が死んじゃう?!」
その頃、塚森山のトンネルでは、さらなる逆転劇が起ころうとしていた。
「緑川さんじゃないですか? こんなところでいったいどうしたんですか」
トンネルの入り口で、東郷たちを拳銃で従え、大きなトランクを運んでいた緑川のすぐ後ろで声がした。
「だ、だれ?」
ふりむいた緑川は一瞬息がとまった。東郷たちのボス、赤坂がいつの間にか忍び寄っていたからだ。
「物騒なものはしまってもらおう!」
拳銃を使おうとしたが遅かった、緑川は関節を逆に取られ、拳銃をぽとりと落とした。赤坂が目で合図すると、東郷がさっと近づき、拳銃を拾った。手下が緑川を抑え込んであっというまに縛り上げた。
「赤坂さん、この女どうしますか? おれたちのことをしゃべられても困るな。落ちたように見せかけて、下の谷川にでも投げ込んでおくか?」
「殺してもあとが面倒だし、こちらが逃げる前に警察にしゃべられても困る。まだ利用価値はある、声が出ないようにしっかりしばりあげて、わからないように車に放り込んでおけ!」
緑川は必死で抵抗したが、すぐに縛りあげられ地面に転がっていた。
「それより、トランクの中身を確認する。西園寺社長が小細工をしているかもしれない」
やはり、この巨額の札束と金塊を隠した黒幕は赤坂だったのだ。
「よし、この鍵で開けろ!」
入り口近くに並べられたトランクが大きくふたを開ける。みんなの顔がどす黒く輝く。
中にはいくつもの大きなビニール袋に分けられてしっかり包まれた札束が入っていた。トランクの機密性が良かったと見えて、中の札束は、入れた時と同じにきれいに並んでいる、
「スッゲー、これ全部でいくらあるんだ、本当に俺たちにも分け前出るんですよね!」
「ああ、お前たちはよくやってくれた。がっぽり出すぞ」
東郷たちは緑川の口をガムテープでふさぎ、縛ったまま、急いでトランクをミニバンに詰め込んで、とっとと出て行った。
その頃土砂崩れ現場に一足先に着いた武藤と坂本は、高塚から渡された封筒を、交通整理に当たっていた高橋巡査に渡した。
「た、たいへんだ!」
高橋巡査は急いで近くにいた警察官をかき集めた。
「急いで検問体制をとってください。大量の札束を持った犯人の一味が通りかかりますから! ええっと車種とナンバーはここに書いてあります」
しばらくして、東郷たちの乗ったあのミニバンが近づいてきた。高塚の謎の作戦で、現金の乗っているこの車の種類もナンバーも警察にばれていた…。
だが、事故現場が近づいた時、慎重派の赤坂が変なことを言い出した。
「おい、東郷…そういえば、さっきのあのトンネルのあたりに、山ユリがたくさん咲いていなかったか?」。
「…そうですねえ、はっきりはおぼえていませんが…咲いていたかもしれませんねえ…それがなにか?」
「なんだか嫌な予感がする。あの探偵を思い出すんだ」
さらに前方をみて赤坂がつぶやいた。
「うむ? おかしい、遠くで良くわからんが、あそこに集まっているのは、警官じゃないのか?」
「ほ、本当だ?!」
東郷がさっとミニバンを止める。
「出直しだ、さっきのトンネルまで大急ぎで戻れ!」
「はい」
まだ警官には気付かれていないようだった。
「高塚だなこりゃ。あいつ何らかの方法で、警察に連絡をとったな、あいつならやりかねん…。ううむ…そうだ、緑川の車があったな…」
赤坂は縛られて転がっている緑川を意味ありげに見たのだった。
数分後、今まで乗っていたミニバンは東郷が運転し、先に進み、後ろに緑川の車がついて検問へと向かっていた。
「警部、あの先頭のミニバンです、間違いありません」
高橋巡査が叫んだ。
「その車、止まれ!」
土砂崩れの現場は一車線だけ開通していた。先ほど設けられた検問所に二台の車が滑り込んだ。
「警部、情報の通り、大きなトランクが三つ積まれています。間違いありません」
ミニバンの周りは、警官でとり囲まれ、運転していた東郷たちは、警官にしょっ引かれていた。トランクが全部外に出されると、その横をもう一台の車が「ご苦労様です」と言いながら走り抜けていた。
だが、その車には後部座席の足元に縛り上げられた緑川が布をかぶされて転がっていたのだ。
「警部、大変です! トランクが三つともカラです」
「な、なにいいいい!」
二台目の車、緑川の乗って来た車の助手席に座った赤坂は、後ろの座席の下を覗き込み静かにほくそ笑んだ。
「いやあ、あの探偵、やってくれたなあ。危なかった。もう少しでお縄だった。でも、緑川くん、君のおかげで助かった。君もやっぱり金がほしかったのか、ちゃんとワンボックスカーを用意していてくれたから、トランクの中身が、ちゃんと積みこめたよ。ふふふ…」
トランクの中身、ビニール袋に分けられた現金は、トランクから抜き取られ、ビニール袋ごとすべて後ろに積み込まれ、キャンプ用の大きなシートで覆われ、隠されていた。
「監視カメラのない山道はチェックしてある。計画通り、途中でもう一度車を乗り換えて、東京に帰るぞ。あとは香港経由でマネーロンダリングすれば、今度こそこちらのものだ」
「はい」
運転していた部下がアクセルを踏んだ。
だが少し走った時、部下が変な臭いがすると言い出す?
「なんだと?」
「赤坂さん、焦げ臭いような、へんな匂いがしませんか…?」
「そんなバカなことはないだろう…げげ、なんだ、煙が出ている…車を止めろ…!」
山道で急停車する車! 赤坂と部下は急いで車から降り、後ろを開ける。
「札束が、札束が燃えてる?!」
「あちちち! ダメだ、どんどん燃え広がっている。」
赤坂と部下が札束を少しでもなんとかしようと大慌てしている間に、横の扉から転がり出たのは緑川だった。バッグに拳銃を入れていただけでなく、ポケットや小物入れにメスやナイフも入れていたのだ、その刃物で縛っていた縄を切り、用意していた可燃性の液体の小瓶を後ろの札束にぶちまけ、ライターでシートごと火をつけたのだ!
「くそ、この女!」
「よせ、もう手遅れだ…」
いきり立つ部下。だが、激しく燃え上がった炎はもう止まらない。遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
何百人もの人々を巻き込み、恨みや苦しみを食らい続けた札束は、煙と火の粉を巻き上げ、今、すべてが灰になろうとしていた…。
緑川は、その炎上する車を見つめ拳をギュッと握りしめたのだった。
その時、ナターシャが突然シグナルを感じた…。
「塚森山付近で確認された巨大な欲望や恨みなどのエネルギーが、急激に減少を始めました」
なにかが起こっていた。
ついにドアが、バリケードでおいていた机が吹き飛ばされ、落ち武者の怨霊の浮かび上がったルークが、その後ろに狐火が浮かび上がったマリアとクレアが姿を現した。
だが、七橋はナターシャをかばって、何とか逃がそうとしている、七橋が危ない!
そして野菊は叫んだ!
「七橋くーん、どうすればいいの、あなたを助けたいの! 七橋くううん!」
その時目の前が光に包まれた。いったい何が起こったと言うのだろう? 野菊は一瞬気が遠くなったが、目を開けるとそこに、画像ではない、本物の七橋が立っていた。
「まさか、世界を突き抜けた?」
七橋が言った。
「…まさか野菊さん? いったいどういうこと?」
その時、女性型のロボット、マリアが、もう一台のクレアに強烈なパンチを繰り出して吹っ飛ばした。そしてせまる怪力ルークに体当たりを行い、ルークを倒すと、そのマリアが叫んだ。
「…七橋君、今のうちに、コンピュータルームへ、その人を連れて行って、ここは私が喰いとめるから!」
そのマリアのボディのモニターにはなんと野菊の顔が映っていた。そう、七橋を思う野菊の心が、空間を突き抜けて、ロボットを動かしたのだった!
コンピュータルームへと駆け出す、ナターシャと七橋、迫り狂うもう一台のクレアとルーク。それを食い止めようと駆け回るマリア。クレアが麻酔ガスや薬液を吹きかけるが、外科用医療ロボットのマリアにはもちろん通じない。今度はマリアが、近くにあったワゴンや椅子ををぶつけると、ルークの四本腕の怪力で真っ二つにされてしまう。、そして二体はすぐに七橋たちを追いかける。
男性型ロボットのルークが大きいだけでなく頑丈で、なかなか倒れない。また、二対一なので、じりじりとマリアが劣勢に回ってしまう。
「あ、野菊、危ない、後ろよ!」
画面を見ていた塔子が叫んだ。クレアと戦っているうちにルークが後ろから近づき、マリアを抑え込んだのだった。
「野菊、危ない!」
クレアがつかまったマリアにパンチを繰り出した。このままでは野菊はやられてしまう。
ジャブ、ストレートと決まり、最後、クレアの必殺アッパーが決まる…と瞬間クレアは停止して倒れ込んだ。なんだか分からないが危機一髪、助かった。さらにクレアが再び動き出した時、なんとクレアは、見たことのあるダンスのステップを踏み、ポーズを決めた。
「えっ?! うそでしょ?」
見るとクレアのボディに塔子の顔が浮かび上がったではないか。
「待たせたね、やっと来たぜ!」
塔子のクレアが、ルークにパンチを浴びせ、野菊のマリアがついに脱出だ!
今度は一人で七橋を追いかけようとするルーク!
「いかせるかあああ!」
マリアとクレアのダブルアタックが、ルークをついに吹っ飛ばす。
「昔の私じゃない。もっと先に進んでいく私を見て!」
野菊の超合金の指先がレーザーメスを最大出力にして打ち出される!そして、賽ノ介の顔が大写しになったルークの胸のモニターに突き刺さり、火花が散る。
「いったい…何が…わが胸を貫いた…不死身のわが胸を…!」
爆発が起こり、気が遠くなる野菊。
世界が、世界が粉々に砕け、桜の花びらのようにキラキラ光りながら当たりを飛び回っていた…。
「七橋君…どこにいるの…七橋君…」
桜吹雪の丘の三本桜で、野菊は七橋を探している夢を見ていた…。
すると桜の華吹雪の中、あのやさしい七橋がこちらに静かに歩いてくる…。
「…あれ…静かになった。七橋くんは、どうなったの? ここはどこだろう?」
気がつくと野菊は、大きなカプセルの中で目覚める。カプセルのふたがゆっくり開き、起き上がる野菊。
「…私はいったい…」
すると部屋のドアが開いて、入ってきたのは七橋だった。
「ありがとう、君の活躍で、暴走ロボットのシステムを停止させることができた。賽ノ介の怨霊のデータは今度こそ本当に消去することができたんだ…」
野菊は起き上がると、七橋の手をしっかり握りしめた。
「よかった…今度はちゃんとここにいる…。本物の七橋くんだわ…」
やがてあっちでもこっちでもカプセルのふたが開き、おなじみの顔がそこに現れた。
塔子が瑠璃が、麗香が、風間が…そしてなぜかすっかり元気になった二宮と三崎の老人コンビもそこにいた。
お互いを気遣いながら歩きだす、鉄馬と麗香を見て、付き合っちゃえば? とマジ顔で言う瑠璃…。
「あら、背格好と言い、雰囲気といい、お似合いの二人ね」
「ばかなこと言わないでよ。私みたいなでか女の鉄の女、無理よ。第一、ずっと年上だし」
「あら、そうかしら? 背は彼の方が高いし、ほら、シャイな一流アスリートには、できる姉さん女房って理想じゃない? 付き合っちゃいなさいよ」
「え…でも…」
「鉄馬君はどうなの、これからも麗香と一緒にいてくれるの?!」
「は、はい。」
命を助けられたり、助けたりする中で二人の心はいつの間にか深く支え合っていたのだ。瑠璃がガッツポーズを決めた。
「よっしゃああ!」
ほほ笑んで手をつないで歩きだす鉄馬と麗香。
やがてみんなは、病院の玄関から外に出た。キラキラ光る湖が目の前に広がっていた。
意識を取り戻した実在のネクストサピエンスの八岐とあのトランスヒューマンのナターシャ前園も連れ添って出てきた。
「すまん。私がしっかりしていなくてみんなを窮地に追い込んでしまった」
「あなたは一番有能だった。だから一番先に狙われただけですよ」
ナターシャは優しかった。だが八岐はほかにもいろいろと責任を感じているようだった。
「…」
怪物の暴走のほかにも、マイナスの波紋と共振、現実世界からの予想外の影響など、想定外の事件がいろいろ重なった。
「あの男爵邸で発生した幻影のバグもまったく解明できなかった…」
「仮想世界の存在でも、現実の存在でもあり得ない富子さんのことですね…」
「…私たちの作った仮想世界は、都合よく願い事がかなう嘘っぱちの世界だったのだろうか…?」
珍しく反省モードになっている八岐にナターシャが言った。
「確かに仮想世界では色々な願いが叶いましたが、それは中で生きていた人の純粋な願いや優しさが実現しただけです。決して嘘ではないんです。私の感想を述べさせてもらえば、人々の心はもともと優しさや純粋な思いでいっぱいだということです。実際のデータでも、プラスの波動の方が実はずーっと多い。でもその多くが見過ごされ、すれちがい、踏みにじられ、現実の中でマイナスの波動に代わっていくということ…。心を閉ざさず、偏らず、ありのままにいつでも世界を視て心のぬくもりを、プラスの波動を感じられるようになれば、互いに支え合うことができて、人生はかわるのではと思います…」
すると八岐は気を取り直してこう言った。
「…閉ざさず、偏らず、ありのままに世界を視る…それを東洋では『さとり』というんじゃないかな?」
そして二人は、みんなと一緒に湖畔へと歩いて行った。
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