葬儀場にて
……そんなふうに彼女は話してくれました。
もちろん、冗談ぽく、照れくさそうにです。その考え自体が子供じみてるんだけどね、と言って。
話のきっかけは、一枚のポストカードでした。
ミレーの「オフィーリア」です。
引っ越しの準備をしているとき、彼女の大学時代のファイルから落ちてきたんです。裏にはなにか書いてありましたが、すぐに彼女にひったくられてしまい、読んでいません。
でも、切手は貼っていなかったし、書いてあるのも彼女自身の字のように見えました。
「なにそれ、見せてよ」と言ってみたのですが、彼女は「ダメ」と笑って、その代わりにさっきの話をしてくれたのです。
彼女の名誉のために言っておきたいのですが、成人後に自殺を選んだ人のことを愚弄するような意図は、当然彼女にはありませんでした。
僕にこの話をしてくれたときに、彼女自身がそう口にしたのです。
「大人になったら、子供のときには想像できないほど大変なことも山程あって、それに耐えきれずに、死を選んでしまうのもしょうがないと思ったことも何度もある。死を美しいとか醜いとか、そんな価値観ではかろうとした事自体が恥ずかしい」と。
それでも。
「それでも」と、彼女は言いました。
「それでも、世間に対しては馬鹿げていて恥ずかしくても、私自身に対してだけは、まだこうやって思っていたいんだ」と。
「喪った死を胸に刻んで、意識的に生を選び取りたい」と。
僕の存在は生を選び取る理由にはならないのか、と思わないことはなかったですが、おそらく彼女の中でそれとこれとは別の問題なのでしょう。長い付き合いですから、それくらいわかります。
そして僕は、彼女のそういうところを尊重したいと思っていました。それが彼女という存在のユニークさであり、魅力だから。
死に損なった、と彼女は言いましたが、僕からは、大事なのは死ではないように見えました。彼女が想っていたのは喪った美しい死ではなく、訪れなかった死の美しさだと感じたんです。
そういう美しさの幻影を胸に抱いて生きるということは、それ自体がとても美しいと、僕は思いました。
それは全部、僕の勘違いだったのかもしれません。
今となってはもう、彼女の胸の内を知る術はありません。
「意識的に生を選び取りたい」という言葉は、嘘偽りない真実の言葉だと思いました。彼女は実際にそうやって生きてきた。
それでも、それを続けられなくなったのかもしれません。生きていればつらいことは山とあります。それに耐えられなくなってしまうことを、誰も責められません。
彼女の死を、「美しい」と言うのは抵抗があります。
けれど、幼い彼女が想像していたような、人々から嘲笑されるようなものではないということだけは確かです。
やはり、死は美醜などで語るべきではないのでしょう。
彼女の喪失は、僕にとって、残された僕らにとって、ただただ、悲しみとして存在しています。
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