死に損ない
結論から言えば、この話の中で私は死にません。
当然ですよね、今こうやってお話ししてるんですから。
これは、死に損なった私が、「死に損なった」というその事実にしがみついて今日まで生きている、ただそれだけの話です。
アイロン掛けをしていて、ふと、
ああ、このアイロンで顔を焼いてしまいたい、
と思ったんです。そういうことってありませんか? 私はありました。
もっとも、その時なぜそう思ったのか、今となっては思い出せません。それは、二十歳を少し過ぎた頃でした。
当時の私は、とても不安定でした。もちろん、若さによるところが大きいでしょう。何もかもが不安で、うまくいかないような気がして。わけもなく泣いて過ごしていました。
死にたい、という、そういう言葉が、頭にあったかどうか。自発的にそういったことを考えてはいなかったように思います。
その頃の私は今よりずっと怠惰ではなかったので、よく本を読んでいました。
ある時、なにかでたまたま知った、夭折した女学生の手記を手にしました。
彼女は十五か十六で、剥き出しの未熟さで世界と正面を切って。そのさまに、やはり若い私は共感もしましたが、それと同じくらいの痛々しさと恥ずかしさを感じました。
怪我をすると、傷口がやがて薄い、新しい皮膚に覆われるじゃないですか。ああいう、出来たての皮膚の部分をわざとやすりにこすりつけるような。そういうひりついた感覚といえばいいのでしょうか。
この歳になれば、十五も二十もそんなに変わらない、どちらもまだ子供だと笑えますが、二十いくつの私にとって、十代とは二度と触れることのできない、失った輝きでもあったのでしょう。
手記の彼女は、薄張りの
やわらかく、血管が透き通るようなその、儚くみずみずしいままであることを選んだんだと思うんです。
だから自殺したんだ、と、少なくともその頃の私は思いました。
その行為に、美しさを感じました。
物語、と言い換えてもいいかもしれません。若く、前途あるものの死というのは、どうあがいても悲劇的で、美しい。
自ら死を選ぶのは、本来愚かなことです。きっとそうであろうと思います。選ぶべきではない、間違いだと。
でも、若さ、もしくは幼さかもしれませんが、そういう、匂い立つような青々しい必死さだけが、それを選び取ることを肯定します。
それに気づいたとき、私にはもう、その噎せ返るほどの青い匂いが、ありませんでした。
愚かささえも惜しまれる、芽吹きの時期を、私は終えてしまっていたのです。
つまり、死ぬには年を取りすぎた、と思いました。
私はすでに成人していて、私は判断力のある大人であり、そんな私が仮に死を選んだとしたら、その選択はただの愚蒙さを露呈するだけ。人々は、私の死を、ただ嘲笑するだけだと。
その時は、本気でそう思ったのです。
私は、死ぬには、もう醜く老いすぎている、と。
そうやって私は死に損ないました。
死んでも許される猶予期間を、みすみす逃してしまったのです。
だから、私は生きています。自分の美しい死の喪失を悼むことで、私は生き続けています。
私はもう、死ぬわけにはいかないのです。
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