最終話
背中があたたかくて。
耳に心地よい音が入ってきて。
手を差し伸べられたような気がした。中指の第一関節のあたりにペンだこがある、見覚えのある手。
すぐにでもその手を取りたかった。ぎゅっと握りたかった。
だけど、思うままにそうすることができず、その手は霧のように透明に薄まってしまった。
先輩。
行かないで。
消えちゃわないで。
先輩が美術室にいられなくなるくらいなら、あたしが代わりに消えるから……。
「ん……んぅ……はっ!?」
跳ね起きると、そこは夕暮れの美術室だった。手つかずの問題集、枕にしていて痺れた腕。
背中に重みを感じ、肩に触れてみると、ブレザーがかけてあった。自分のは着ている。それじゃあ、これは……。
「あ……起きた?」
声が聞こえた。
先輩の声。
顔を上げると、作業着代わりの黄色いパーカーを羽織った先輩が、キャンパスから顔をのぞかせていた。ほんのりほほえんでいるように見えるのは、西日が眩しすぎるからだろうか。
「ごめんね。物音うるさくて起こしちゃったかな」
「いや、むしろ、もっと早く起こしてほしかったんですけど!」
急いで身体を起こして、前髪を手櫛で整える。頬にあとがついていないか気になったけど、触っただけじゃ分からないので、諦めて髪で隠すようにした。
先輩が美術室に来てくれた。
部活が嫌になったわけじゃないんだ。
あたしは内心では、飛び上がるほど喜んでいたけど、それを悟られないように口を曲げて先輩に訊ねた。
「先輩、何で遅れたんですか?」
「画材買いに行ってたから。画材屋さんがすぐ近くにあるから、部活中に行ってこられるんだ」
先輩はあたしの不安や心配など露知らず、あっけらかんとそう言った。あたしはへなへなと、また机に倒れこんでしまう。
「それならそうと、先に言っといてください。心配しちゃうじゃないですか」
え、と聞こえたような気がした。本当に、心底意味が分からない、と言うような響きがあった。
「風邪でもひいて休んでるのかなとか、具合が悪くなって早退したのかなとか……。もう美術室に来たくなくなっちゃったのかな……とか」
筆が紙を色づけていく音が止んだ。ちゃぷん、と水音。筆がバケツの縁に当たる、軽い音がした。
「美術部は、もう先輩ひとりの部活じゃないんですから」
「ご、ごめん」
先輩は、思いのほか素直に謝った。あたしが話しかけてもめったに手を止めないのに、絵筆は今、バケツに放り込まれ放置されている。
ていうか、別に謝ってほしかった訳じゃなくて!
「す、すみません! 先輩に向かって……」
あたしは慌てて頭を下げた。「いいよ」と柔らかな空気を含んだような声に顔を上げると、先輩はいつになく表情を和らげていた。
先輩、こんなふうに笑うんだ。
「これからはわたしと茜谷さん、ふたりで美術部、ね?」
先輩は、あたしが言いたかったことをそのまま言った。
心の扉まではまだ遠そうだけど、門の鍵は開いた気がした。
あたしはその門を自分から押し開けるように身を乗り出した。
「じゃあじゃあ、先輩の連絡先教えてください」
「えっ」
先輩の表情が固まる。もはや見慣れた、距離感に戸惑っている顔だ。
「いや……ですか?」
「そうじゃないけど……なんか、部活っぽいなぁと思って」
「そりゃ、部活ですもん」
先輩はにぶい動作で鞄からスマホを出すと、操作しはじめた。トークアプリを開いているようだけど、絵を描いているときはあんなに自由自在に動く右手がぎこちなく震えている。
「先輩、あたしが読み取るんでQRコード出してもらえます?」
「えっ、QR……? わたしが……出す?」
先輩の頭の周りにたくさんの?マークが浮かんで見えて、あたしは思わず吹き出してしまった。
友だちがいないあたしですら、友だち登録の仕方くらい知っている。先輩の心はどれだけセキュリティ高かったんだろう。そして、それを少しだけ破れたことを誇らしく感じてしまう。
先輩は口をとがらせ、ちょっと頬をふくらませた。睨みつけてくる瞳が子どもっぽくて、あたしはまた口もとがゆるんでしまう。
「茜谷さんって、なんか、友だち多そうだよね」
「そんなことないですよ。中学のころもそんなに友だちいなかったし……高校になってからまだ友だちできてないし」
先輩はうつむき、黙り込んでしまう。バケツの水には、絵筆から染み出したオレンジ色が広がっていた。
「先輩、あたしのことまほろって呼んでください」
「えっ、いきなり? わたし、人のこと呼び捨てで呼んだことないんだけど」
「せんぱい」
ゆっくりと呼びかけると、先輩は視線を泳がせた。そのへんに反撃のネタが転がっていた訳でもないだろうけど、急に強い眼差しになった。
「じゃあさ、茜谷さんはわたしのこと『先輩』ってしか呼ばないけど、何で?」
「だって、美術室にはあたしと先輩しかいないんですよ? 先輩、だけで誰だか分かるじゃないですか。それとも、別な呼び方がいいですか?」
そう問い返すと、先輩は「うっ」と言葉につまった。また目がゆらゆら動いているけど、答えは見つからなかったらしい。
諦めきった顔であたしを見つめ、何度か口を開いたり閉じたりしたあとで、ようやく息を吸いこんだ。
「ま……まほろ」
「はい」
先輩は頬を真っ赤にして、乱暴に絵筆を掴んだ。パレットに穂先を押しつけて、ぐるぐる回しているけど、真剣に色を作っているとは思えない。
分かりやすい照れ隠しに、こぼれてくる笑みを止められない。
「よく寝たから、先輩の絵描くの見てよーっと」
「ま、まほろもそろそろ描いてみないの?」
「あたし、気づいたんです。自分で描くより、先輩が描いてるのを見る方が好きだって」
やっぱり適当に動かしていただけだったのか、先輩は筆をバケツで洗いはじめた。淡いオレンジの色水に黄色が混ざって、夕焼けのような色になる。
「それなら幽霊部員と変わらないじゃない」
「毎日先輩の絵を見に来ますもん」
そういえば、あたしは先輩が絵を描いている姿ばかり見ていて、絵そのものを見たことがなかった。
席を立ち、先輩のうしろ、キャンパスの正面に立ってみる。
先輩はくすぐったそうに肩をすくめている。
「ここから見る夕暮れが好きでさ、一枚くらい描いておこうかと思って」
窓から射し込む西日も相まって、街並みに沈んでいく夕日が描かれたキャンパスはハチミツ色に染まっていた。
キャンパスがハチミツ色に染まるまで 桃本もも @momomomo1001
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