蠢き

サイクス・ピコ

地獄

 スプラッタ映画のような狂気が渾々と渦巻く彼岸の地。深淵の底。俗世の大罪人は、死とともにここに落ちる。罪の深刻さを軽重の尺度で表現する人々は、この事情を直感的に理解しているのだ。


 罪とはつまり、のしかかるものだ。キリスト教が死という罰をいわゆる<原罪>に帰せしめたのは、この最初にして最大の罰たる死の荷重に、クリスチャンらが耐えられなかったからに他ならない。


 地獄とは水中だ。重ければ重いほど深く、深く沈んでいく。だからといって、軽いデブは得するなどという話をしている訳では断じてない。魂の大きさは均一であり、どこまで沈んでいくかは一切、罪の重さによって決まる。


 丁度今、大罪人がここまで沈んできた。地獄の極限において、彼/彼女は苦しめられるだろう。私にはそれが何者であったのかとか、どのような罪を犯したのかとか、それらを知る術はない。彼岸の地において、俗世の質は魂となり、量は罪となる。


 罪は水中で摩耗する。H2Oに溶け合う罪。それが地獄の狂気を醸成する。クレイジーでバーサークなこの海は、プランクトンの大行進よろしく、紅潮する。下品で恥ずかしがり屋な地獄。それは自らの恥部を包み隠す。アダムのパンティー。それは禁断の果実のように赤かったのだ。紅潮する果実。地獄産の果実。正しくそれは禁断だった......


 やがて魂は水面に浮き上がるだろう。下級天使の役割は、この魂を大きな桶で掬うこと。天使社会は階級社会。下級天使らは桶で救った魂をせっせと運ぶ。彼らの翼が役立てられているのは、下級天使の労働において他にないだろう。中級天使たちは地に足をつけて彼らを待ち受ける。彼らから桶を受け取ると、魂を取り出して木箱に入れる作業に取り掛かる。木箱に入れられた魂は、最後に上級天使によって篩にかけられる。彼らは魂の専門家だ。許容量を超える罪の付着は再び地獄に沈められる......


 さて、審査にクリアした魂はどこに向かうのか。ここで魂の儀式的役割が明らかとなる。天使たちはそれを神に捧げるのだ。可燃性の魂は、木枠を重ねて作られた燭台に放られ、神秘的な硫化水素の匂いを発する。彼らにとって、それは神のお告げなのだ。死後に約束される天国への誘い。卵の腐臭は神の口臭なのだ。これほどの毒物は、彼岸の世界においては他に存在しないだろう。それを好んで摂取する彼らの感覚は、人間がアルコールを好んで消費する感覚と全く同じものだ。


 悪魔は存在しない。閻魔大王なんてもってのほかだ。俗世の魂はあくまで地獄に生成し、地獄によって罰を受ける。地獄は制度ではなく、ただの現象だ。そう、それは現象なのだ。それにしても、俗世とその彼岸。このような対立の有効性には依然疑念が残る。天使の死。彼岸の現象。それは此岸との循環系を為してはいない、不可逆の系。であれば、天使はその死に際し、どこへ向かうというのか。彼岸の世界の果てはどこで、その向こう側には何があるのか。あるいは、何もないとは何か。


 さらなる彼岸がある。では、いつまで彼岸が続くのか。彼岸の果ての地獄では、魂が打ち捨てられているとでも言うのだろうか。それとも、ある一者、永遠がそこに座して彼岸の連鎖を停止させるとでも言うのだろうか。魂を掬う自己創生のAI。或いは、脳死状態の神。結局、神とはある思考停止なのだ。


 外側なき無。生命体は死を通過して物質になる。此岸における霊的なものは、彼岸において物的なものに変じる。彼岸と此岸にある、この徹底的な断絶。人間が彼岸を認識できないように、天使たちも此岸を認識できない。それは、この世界が彼岸と此岸で完結してることに説得力を与える。


 しかし、運動の停止が徹底した断絶を孕むことは、それが無であることを断定することも不可能にしてしまった。人間が彼岸を認識できないように、誰もその後について断定することはできない。死後の世界を思考すること。その思考に終わりはない。


 つまりそれは、あるだ。最も罪深く、役立たずな深淵だ。それを思考する者は、ほとんど死んでいる。思考しつつ、思考していない者。彼らは沈んでいく。ブサイクな海の底へ底へと沈潜していく。この役立たずどもは、この上なく醜悪な罪で、魂を鈍らせていく。浮力に抗する闘い。それは生命体が最も忌むべき種類の罪であろう。

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