37、癒えない傷

 英雄ヒーローサラマンダーの活躍により、大型災厄獣は無事に討伐された。

 囮となって大型災厄獣を七番通りの外まで誘導した守護兵団ガーディアン第五部隊の闘士バトラー、珠野美夜子は、同じ第五部隊の仲間によって救出され、一命を取り留めた。

 現在、美夜子は公立市民総合病院に入院している。



「美夜子、来たよ」

 小さなノックの後に、病室の扉が開かれた。

 大きなボストンバックを肩に掛けた恵美が、部屋の中へ入ってきた。

 白いブラウスに、黒地に白い小花を散らしたスカート。足元は、ヒールのない布靴だ。

 どこにでもいる主婦のような格好のせいで、顔の右半分を覆っている大きな眼帯に、どうしても目がいってしまう。

 数年前、巡回中の怪我が原因で、恵美は右目の視力のほとんどを失った。それがきっかけで、彼女は守護兵ガードマンを引退している。

 ベッドの上で横になったまま、ぼんやりとそれを眺めていると、恵美は小さく首を傾げた。

「ごめん。もしかして起こしちゃった?」

「いえ。ついさっき、目が覚めたところです」

 守護兵ガードマンのために用意された個室である。

 広々とした病室の窓際に大きなベッドが置かれていた。

 着替えを置くためのタンスや、書き物をするためのテーブル、大型のモニタ、トイレや洗面台まで備え付けられている。

 見舞い客用のための椅子も、一般病室にある丸椅子ではなく、背もたれがついた立派なものだった。

 タンスの近くにボストンバックを下ろし、恵美は手早く中の物をしまい始めた。

「タオルと、パジャマ。それから、下着はここに入れとくからね。歯ブラシとコップは洗面台に置いとくから」

「すみません。お手数をお掛けして」

「そう思うなら、もうちょっと怪我する回数減らさないとね。闘士バトラーやってたらある程度は仕方ないんだけどさ」

 恵美にそう言われて、美夜子は思わず苦笑した。

 こうして入院するたびに、恵美にタオルや着替えなどの身の回りの物を持って来てもらっている。

「携帯端末はテーブルの上で良い? 充電器は引き出しで」

「はい。お願いします」

「今は、どんな感じなの? その··········ここが痛いとか、そういうの」

 バックの中身をそれぞれの場所にしまった後に、恵美が枕元までやって来た。

 見舞い客用の椅子に腰掛けて、心配そうに覗き込んでいる。

「見ての通り、全身包帯まみれですけど、痛み止めのおかげで割と元気です。熱も下がってきました」

「そう」

「右手の神経は元に戻らないかもってお医者さんに脅されたんですけど、今日、何とか繋がるかもって言われました」

「そっか。良かった。繋がって欲しいね」

「今回はちょっと長めに入院しなきゃみたいなので、リハビリ頑張らないとですねえ」

 病室の中が、しんと静まり返った。

 見舞い客の椅子に座った恵美が、包帯でぐるぐる巻きになった美夜子の右手を眺めている。

 やがて、恵美はぽつりと呟いた。

「··········うちの人が、謝ってたわ」

「うちの人って、まさか」

「高崎よ。美夜子に酷いことを言ったって」

 横になったまま、美夜子は恵美の言葉を聞いていた。

 痛み止めのおかげで、身体はずいぶん楽になった。だが、まだ上半身を起こせるほど回復はしていない。

「私もね、美夜子に謝らないといけないことがあるの」

「恵美さん?」

「あなたを、引き取ってあげられなかったから」

 美夜子は、小さく息を呑んだ。

 十二年前。当時十五歳だった美夜子の保護者になれる大人はいなかった。

 親身になってくれた恵美は、当時二十八歳。十五歳の子供の親になるには、あまりにも若過ぎた。

「それは··········だって、あの時は、恵美さんまだ二十代で、独身だったし、だから無理って··········」

 孤児の里親になるには、いくつか条件がある。

 既婚者であること。

 妻、あるいは夫のどちらかが常に在宅していること。

 ある一定以上の収入があること。

 親として相応しい年齢になっていること。

 当時二十八歳で、独身の恵美は美夜子の親にはなれなかった。

 だから、美夜子が────当時十五歳だった美夜子が、児童保護施設〈笑顔の里〉に戻らないで済むためには、守護兵ガードマンになるしかなかった。

「美夜子を引き取るために、私、高崎に結婚して欲しいって言ったの」

「··········」

「高崎はその時もう三十代半ばだったし、私が守護兵ガードマンを辞めて家庭に入れば、条件をクリアできると思った。だけど、両親を説得しきれなくて」

 素性のわからない少女の親になることを、恵美の両親は良しとしなかったらしい。

 何より、結婚相手になる高崎が、それを良しとしなかった。

「あいつの親になるために俺と結婚するのか。結婚はそういうものじゃないだろうって怒鳴られてね。大喧嘩になったの。結局、しばらくして結婚することになったんだけど」

「··········」

 高崎と恵美が結婚した時のことは、よく覚えている。

 その時、既に美夜子は守護兵ガードマンになっていた。

 美夜子は、正直なところ、高崎のことが苦手だった。

 出会いがしらに怒鳴りつけられたこと。

 パニックを起こした美夜子を落ち着かせるためとはいえ────そう、高崎は主張している────、いきなり頬を平手で張り飛ばしたこと。

 隙を見せたらすぐに「甘ったれるな」と説教をしてくること。

 高崎は高崎なりに、美夜子のことを気に掛けてはいたのだろう。

 だが、彼の行動は、〈笑顔の里〉の教師たちとほぼ同じだった。

 だから、恵美が高崎と結婚すると聞いた時、もうこの人を頼りにしてはいけないのだと思ったことを覚えている。

「美夜子は立派な守護兵ガードマンになった··········でも、そのせいで、たくさん怪我をするようになった」

「··········」

「高崎から、聞いたよ。美夜子は、自分から囮になったって。助けに来なくて良いって言ったって」

「··········」

「たまに、思うの。あの時、私が美夜子を引き取ることができたら··········美夜子の親に、なれていたら、あんたは守護兵ガードマンにならなくても済んだんじゃないかって」

「··········」

「だから··········ごめんね、美夜子」

 美夜子は、奥歯を強く噛み締めた。

 今は手を握りしめることができない。だから、歯を噛み締めるしかなかった。

 一度大きく深呼吸をして、力を抜く。

 できるだけ、明るい声になるように努力はした。

「謝ることないですよ。当時の恵美さんは、若かったし、独身だったし、いきなり十五歳の子供の親になれだなんて、無茶じゃないですか」

「美夜子··········」

「それに、私は守護兵ガードマンになれて、良かったと思ってます」

 恵美の表情が、僅かに明るくなったような気がした。

 だから、ここで止めるつもりだった。

 それなのに、美夜子の口からは、勝手にその続きが零れていた。

「────そう、言わないと駄目なんでしょうね」

「美夜子?」

守護兵ガードマンになったことは後悔してません。恵美さんが、当時、精一杯私に良くしてくださったことも理解しています。でも」

 痛み止めを飲んでいるはずなのに、肋骨の間に氷の針を差し込まれたような、冷たく鋭い痛みがあった。

 呼吸はできているはずなのに、息苦しい。

「でも··········ごめんなさい。許したくない、です」

 目の前が、じわりと滲む。

 堪えきれなかった。左手で目を覆って、呻くように言う。

「あの時、私はまだ十五歳でした。子供だったんです。災厄獣との戦い方なんて、赤光刃の使い方なんて知らなかった」

 左手が涙で濡れていく。

 一度決壊してしまうともう止められなかった。声が完全に泣き声になってしまう。

「十五歳だったんです。子供だったんです。大人はみんな、感謝しろ感謝しろって怒鳴ってて。甘ったれだ、軟弱者め、無能、役立たず、恩知らず、非常識な馬鹿者って」

 恵美は、黙って美夜子の言葉を聞いている。

「災厄獣の餌になる価値もない、お前なんか生まれて来なきゃ良かったって、言われたんです」

 涙が止まらない。胸の痛みは、どんどん強くなる。

 鎖骨のあたりが、じわりと暖かくなった。恵美の手が、そっと押し当てられている。

「鈴ちゃん、鈴ちゃんは、死んじゃいました」

 鈴子の名前を出した途端に、胸の痛みが急激に強くなった。

 ひく、と喉が鳴る。

 もうとっくに成人しているのに、小さな子供のように美夜子は泣きじゃくっていた。

「鈴ちゃんだって、子供だったのに。私は生きてるのに。鈴ちゃん、死んじゃった」

 こんな風に声を上げて泣くことができるのは、恵美の前だけだった。

 〈笑顔の里〉の教師たちは、泣き声がうるさい、周りの迷惑を考えろと罵声を浴びせる。

 高崎の場合は、甘えるな、泣いたところで何も解決しない、お前より辛い思いをしている奴は山ほどいると説教が始まってしまう。

 ケイトや梨乃の前では、泣き顔を見せたくないという気持ちが強い。

 だから、こんな風になるのは、恵美の前だけだった。

 何度もしゃくりあげながら、続ける。

「大人にも事情がある··········仕方がなかったこととか、どうしようもなかったことがあったんだって、それはわかってます。〈笑顔の里〉の先生たちみたいな人ばかりじゃなくて、恵美さんみたいな大人もいるってことも」

「うん」

「でも··········でも」

 確かに、恵美には甘えているのかも知れない。

 ことあるごとに罵声を浴びせ、災厄獣と戦う術を持たない無力な子供を、平気でA地区に放り出す〈笑顔の里〉の職員。

 こちらの事情や状況を全て無視して自論を押し付けてくる高崎。

 彼らには言えなかったことを、恵美には伝えられる。

「事情があるって言われても、そんな人ばかりじゃないって言われても··········子供の時の、辛かったこととか、悲しかったこととか、全然、消えないんですよ。むしろ、歳を取れば取るほど、なんであんなに小さな子供に、あんな真似できるんだろうって思っちゃって」

 吐き出す相手を、間違えているのかも知れない。

 だけど、どうしても言いたかった。

「ごめんなさい。恵美さん。私、どうしても··········大人を、許したくないんです」

 美夜子はもう二十七だ。とっくに成人した大人である。

 だが、自分が大人になっても、どうしても大人のことが許せなかった。

「私、ずっと辛かったんです。仕方がなかったんだで終わらせたくない。それなら、せめて、大人を許さないでいる権利を、恨み続ける権利をください」

「美夜子」

 ────大嫌いだ、大嫌いだ、大っ嫌いだ! 死ね! 死んじまえ! 大人なんか、みんな死んじまえ!

 十五歳の時、朽ちかけた廃墟の中で、そう叫んだことを覚えている。

 成人しても、その時の気持ちは残ったままだった。

 きっと、一生抱え続けることになると思う。

「美夜子、ごめんね」

 顔を覆っていた左手を、そっと握られた。

 暖かい。その温もりに、縋りつきたくなる。

「許さなくて良い。恨んでても良い。だけど、せめて、謝らせて」



 ────その日。

 泣き疲れた美夜子が眠りに落ちるまで。

 恵美は美夜子の傍から、離れないでいてくれた。

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