35、私なんて

 頬が濡れる感触で、目が覚めた。

 灰色の空が、随分と遠くに見える。

 かつての地下駐車場の跡地で、美夜子は手足を投げ出すようにして、仰向けに倒れていた。

(…………寒い)

 頬だけではなく、全身がぐっしょりと濡れている。

 水を吸った戦闘服が、肌にぴたりと貼り付いて気持ちが悪い。

 身体が酷く重かった。凍えているはずなのに、頭の芯と、右手、左の脇腹に不快な熱が溜まっていた。背中には、冷たい汗が滲んでいる。

 せめて雨が当たらない場所まで移動しようと、身動ぎした途端に、脇腹に激痛が走った。

 悲鳴をあげることすらできずに、腹を庇うように身を縮める。

 右肩を下に、少しでも楽な姿勢を取ろうともがいているうちに、うつ伏せに倒れた災厄獣と目が合った。

 これ以上ないほど大きく目を見開き、半開きになった口からは青い血の筋が流れている。頭の半分が、真っ青に染まっていた。

(ああ、一匹、倒したんだっけ)

 痛みに霞む頭で、ぼんやりと思う。

 赤光刃で災厄獣の喉奥を貫いた後、美夜子は崩れ落ちた災厄獣の身体に押し潰された。

 何とかその下から這い出したところで────咥えこまれた右手を引き抜くのが、一番大変だった────雨が降り始め、雨宿りができる場所まで移動しなければと思ったことを覚えている。

 だが、そこで限界だった。

 立ち上がるどころか上半身を起こすことさえできずに、そのまま力尽きて気絶した。

「まだ生きてるか··········食われてないのは奇跡だな」

 ぽつりとそう呟いて、美夜子はうっすらと苦笑を浮かべた。

 右手には、赤光刃の柄がしっかりと握られている。

 災厄獣を葬ることができる赤い光は、消えていた。燃料エネルギー切れだ。

 保護用ゴーグルの中には、何のアイコンも浮かんでいない。現在地を示す〈ERROR〉の表示も、加速器が起動していることを示す星型のアイコンも、消えている。

 予備燃料エネルギーパックはウエストポーチの中だ。せめて、赤光刃だけでも使えるようにしなければと思うのだが、今の美夜子では、ウエストポーチのジッパーを開くことすらままならなかった。

 痛みが治まらない。それどころか、徐々に強くなっているような気さえした。

 こんな有様なら、ずっと気絶したままでいたかった。

 どうせ身動きがとれないのなら、眠ったままの方がずっと楽だ。

 いっそのこと眠ってしまおうと、目を閉じる。

 災厄獣の姿が見えなくなっただけで、少し気が楽になった。

 雨は容赦なく美夜子の身体を叩いていた。

 右手の傷口に雨粒があたる度に、ひりつくような痛みが走る。

 負傷した手を庇うように、左手で右の手の甲を覆った。ほんの少しだけ、痛みが和らいだような気がする。

 あと少しで意識を手放せるというところで、腕につけた通信機がジリジリと羽音のような音を立てた。

 まだこれは使えるのか、とぼんやりと思う。

〈…………あこ、みゃあこ、聞こえるか!?〉

 高崎だ。余裕のない、焦った声だ。

「…………。こちら珠野。小型災厄獣一匹討伐完了」

〈ばっか、寝ぼけんな!〉

 いつものように報告すると、凄い剣幕で怒鳴られた。

 こちらは満身創痍なのだから、もう少し優しくしてくれたって良いのにと思う。

〈お前今どうなってる!? こっちはさっき七番通りを抜けたとこだ。あと少しで────〉

「来なくて良いです」

〈────は?〉

 高崎が、間の抜けた声をあげた。目を丸くして、ぽかんと口を開ける姿が見えたような気がする。

 腹の底に、力を入れた。声が震えないように、平然と聞こえるように、努力する。

「戻って下さい。大型がアレ一匹だけとは限らないでしょう。私一人のために、何人も道連れにすることないですよ」

〈…………っ、てめえ!〉

 高崎が大きく息を吸い込んだ。凄まじい怒声が響き渡る。

〈悲劇のヒロインにでもなったつもりか! この甘ったれが! ふざけんな!〉

(大人だなあ、高崎さん)

 もし目の前で怒鳴り声をあげられたら、少しは怖いと思ったかも知れない。

〈寝言抜かしてんじゃねえよ、ボケ! てめえ、自分がどれだけ他人に迷惑掛けたか、わかってんのか!〉

 あるいは、美夜子がまだ無力な子供だったとしたら。

 大人に怒鳴りつけられた時、口を閉ざしてやり過ごすことを選んだだろう。

〈もうとっくに、てめえのために何人も命賭けてんだよ! わかってんのか!? この甘ったれが!〉

「────高崎さん」

 大人は、子供の言葉に耳を傾けない。

 何を言っても、罵倒か嘲笑の道具にされる。

「悲劇のヒロインになったつもりはありません。私は、私のために誰かが命を賭ける必要なんて無いと言ってるんです」

 だが、美夜子はもう、子供ではない。

「高崎さん、前に言ってくれましたよね。私は守護兵ガードマンに向いてるって」

 くくく、と喉の奥が痙攣する。

 大人相手にまともに言い返せていることが、たまらなく愉快だった。

「親がいない。家族がいない。それなら、もし万が一のことがあったとしても、悲しむ人間は少ないって」

〈みゃあこ、お前〉

「覚えてますよ、高崎さん。仰る通りです」

 高崎が息を飲む。美夜子は、穏やかな調子で言った。

「私が死んだって、悲しむ人なんかいない。だから、囮になるなら私が一番ちょうど良いし、無理して回収する必要なんてないんです。…………だから、戻ってください。助けに来ないでください」

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