32、約束を破るわけにはいかないから
〈こちら伊山。六番通りで大型災厄獣と遭遇。珠野が囮になって七番通りへ誘導した。
腕につけた通信機から、伊山の声が流れていた。
背後からは、大型災厄獣の足音が響いている。
腹の底に響く、ずしりと重い音が、美夜子の後を追いかけていた。
〈七番通り、六番通り担当者は全員五番通りまで退避! 大型との交戦は禁止します。美夜子が囮になってる。位置情報に気をつけて!〉
今度はケイトの声だ。大型という言葉を聞いて、流石に緊張しているのか、いつもより硬い。
───キィィエェアアァァァッ!
災厄獣の咆哮。肌がびりびりと震えた。内臓を大きな手で掴まれたような、寒気を伴う痛みが走る。
「────っ」
ぐらり、と視界が揺れた。膝から力が抜けそうになる。
崩れ落ちそうになる身体を、加速機の補助で得た勢いに乗せて前進させる。
今、足を止めるわけにはいかない。
立ち止まったら、倒れ込んだら、次の瞬間には八つ裂きにされる。
〈すぐに
ケイトの声は、ほとんど悲鳴だった。
(そんなに気にすることないのに)
背中に伝う汗が冷たい。自分の呼吸音が、やけに耳についた。
小さな瓦礫の山を跳び越える。着地して、すぐに転がるように走り出す。
(私には、家族がいない。だから囮には、私が一番向いてる)
梨乃には、母親がいる。確か母子家庭だったはずだ。
伊山には、結婚秒読みの彼女がいたはずだ。
桜田は実家で暮らしている。両親と、確か、二つ年下の妹がいると言っていた。
〈六番通りで大型災厄獣出現! 七番通り、六番通りの担当者は全員五番通りまで退避! 美夜子が囮になって七番通りに誘導中、位置情報に気をつけて!〉
災厄獣は瓦礫の山などものともしない。
長い鉤爪を振り回して、目の前の障害物を粉砕した。
粉々になったコンクリートの欠片が、ぱらぱらと降ってきた。小さな小石が、肩や背中を掠めるように叩いていく。
左側の空気が大きく動いた。胃の底が持ち上がってくるような、嫌な予感がする。
大きく右へ跳んだ。先程まで美夜子が居た場所に、災厄獣の尾が叩きつけられる。すぐ近くにあった崩れかけた廃墟が、瓦礫の山の仲間入りをした。
ごろごろと転がり、すぐ立ち上がって走り出す。
災厄獣は癇癪を起こしたように、その場で地団駄を踏んだ。地面が揺れる。
(今は、どこまで来た?)
保護用ゴーグル内の視界で、右下に表示されているのは〈A地区七番通り〉だ。
できればもう少し先まで進みたい。七番通りより先の、災厄獣の世界まで。
(ああ、でも)
「────ケイトさん」
〈なに!?〉
乱れた呼吸の隙間から、何とか声を絞り出した。
これだけは、何としてでも伝えないといけない。
「私の部屋、から…………端末、持って行って、下さい」
走りながらでは、どうしても声が途切れてしまう。
よく聞き取れなかったのだろう。ケイトは戸惑ったように言った。
〈端末? それ、どういう────〉
「見守りペン」
通信機の向こう側で、ケイトが息を呑んだのがわかった。
────キィィエェアアァァァッ!
災厄獣の咆哮。内臓を絞りあげられるような痛みに耐えながら、出来るだけ穏やかに言う。
「約束したんです。助けてあげるって。破るわけにはいかないから」
〈ちょっと────ちょっと待って! 美夜子!〉
「お願いします」
保護用ゴーグルの表示が変わる。〈A地区七番通り〉の文字が薄れて、〈ERROR〉という赤い文字が点滅するようになった。
(抜けた。やった。頑張ったよ、私)
思わず歓声を上げそうになる。
(もう、良いよね)
ほんの少しだけ、足を緩める。腰のウエストポーチに手をやった。
硬く、冷たい感触。加速器のための
上半身だけを捻って、災厄獣の方を振り返った。
目を血走らせた災厄獣が、口を開こうとしているところだ。
美夜子はにんまりと笑った。
(よっし、ついてる!)
「
気合いと共に、手の中に握りこんだ
目標は、半開きになった大型災厄獣の口の中だ。
狙い通りに、
突然口の中に異物を放り込まれた災厄獣の目が丸くなる。
ぱきり、と枯れ枝を踏み折るような音がした。
災厄獣の口の端から、いくつもの白い光が零れ落ちた。
光の筋はあっと言う間に数を増やし、勢いを増していく。
─────!!
災厄獣は、音にならない鳴き声を上げた。
白い光が、大型災厄獣の視界を焼き尽くした。
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