28、叫び
────酷い悪寒で、目が覚めた。
(寝て、た··········? 寝るつもり、なかったのに)
身体の表面は燃えるように熱いのに、骨の芯は凍りついたように冷たい。
吐く息が熱かった。身体中の関節を万力で締めあげられているような痛みがあった。
喉の奥から、勝手に呻き声が出た。身を丸めて、必死に不快感に耐える。
視界の端が白く染まり、夜が明けてしまったことを悟った時、まず安全な場所へ隠れなければならないと美夜子は思った。
災厄獣は昼に活動する。太陽があるうちに移動するのは危険だった。
近くにあった廃墟に転がり込む。二階建てのアパートだった。
階段を上る気力はもう残っていなかった。一階の廊下を、壁に縋るようにしながら歩いたのを覚えている。
ドアに鍵が掛かっていたり、中が崩壊していて入れる状態ではないような部屋が多い。
廊下の半ばあたりまで進んだところで、ようやく中に入ることができる部屋を発見した。
ドアを押し開けて、部屋の中に入る。かび臭い空気が漂っていた。窓から零れた朝日の中で、埃がきらきらと輝いている。
部屋の中に、家具はなかった。
あちこちにかびが生えたフローリングと、シミだらけの壁。入ってすぐ左手に、電気コンロが備え付けられた小さな台所があった。換気扇に蜘蛛の巣が掛かっている。
災厄獣がいないのなら、何でも良かった。
ドアを閉めて、できるだけかびが少ないところを選んで、腰を下ろす。
暖房や毛布、食べ物などは見つからなかったが、それでも風がないだけ、この部屋は随分暖かいなと思ったことを覚えている。
そこでほっと気を緩めてしまったのがまずかったのだろう。
眠るつもりなどまったく無かったのに、いつの間にか横倒しになって眠っていた。目が覚めたらこの有様だ。
(水··········水、欲しい)
悲鳴を上げる身体を無理やり引き起こして、這うようにして台所へ向かった。
コンロの隣にある流しに手を掛けて、水を出すために蛇口を捻る。
水は────出ない。
「う··········ううううう」
口から、勝手に呻き声が出た。膝が崩れた。目から涙がぼろぼろと零れて、止まらない。
頭が痛い。身体中が痛い。身体ががたがたと震えて、じっとしていられない。
口の中が粘ついて不愉快だった。寒いのに、額や背中に汗が滲んでいる。
『こんな廃墟の水道が、まだ使えるだなんて本気で思ってたんですか? これだから最近の若者は。自分の頭で考えることを放棄しているから、その程度のこともわからないんですね』
『この程度で熱を出すなど、緊張感が足りない証拠だ。ましてや他人の家に入り込むなど言語道断。俺がお前ぐらいの時はそんな軟弱な奴なんか居なかったのになあ。もっと緊張感を持て、緊張感を』
「うるさい、うるさい、うるさい!」
拳を流しに叩きつけた。幻覚がうるさい。
美夜子が体調を崩したところで、心配をしてくれる大人などいなかった。
〈笑顔の里〉の教師たちは、緊張感がない、軟弱だ、体調管理がなっていないと罵るだけだ。
「あんたたちなんか、大人なんか、最低だ! 悪口だけ言って気持ち良くなってるだけじゃないか!」
怒鳴り声を上げている時だけ、幻覚が聞こえなくなった。
幻の大人に向かって怒鳴り続ける。そうでもしなければ狂ってしまいそうだった。
「お前達に感謝することなんか何も無い! 大人は私に何にもしなかった! ただひたすら罵ってただけじゃないか! 何が感謝しろだ、何が育ててやってるだ、ふざけんな!」
少しだけ気分が良くなる。この怒鳴り声のせいで災厄獣に見つかっても、構わないと思った。
水がない。食べ物がない。体調は最悪だ。たとえ災厄獣に見つからなくとも、このままならそのうち死ぬ。
どうせ死ぬなら、今まで腹の底に留めていたものをぶちまけても良いだろうと思った。
「大嫌いだ、大嫌いだ、大っ嫌いだ! 死ね! 死んじまえ! 大人なんか、みんな死んじまえ!」
「───お前、そこで何をしてる!」
野太い男の声で、我に返った。
部屋の入口に、大柄な男が立っている。紺色の服を着て、手には細い棒のような物を持っていた。
(────··········大人、だ)
幻ではない。本物の大人だった。
「なんでこんなところにいるんだ、お前、ここがどこなのかわかってるのか!?」
眉間にしわを寄せ、美夜子と目が合った途端に不愉快そうに睨みつけ、怒鳴り声を浴びせてくる大人。
「頭にちっとでも脳みそあるならわかるだろ。お前、馬鹿か。頭使えない奴なのか?」
────〈笑顔の里〉の大人と同じだ。
男は忌々しそうに舌打ちをして、大股に近づいて来た。太い腕が、美夜子に向かって伸ばされる。
「··········っ、ぅぅぅうううわあああああああッ!!」
両手をめちゃくちゃに振り回して、男の手を振り払った。
相手が怯んだ隙をついて、無我夢中で部屋を飛び出す。
(逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ────大人に捕まったら終わりだ!)
「おい、どこに行く!」
廊下に飛び出した直後に、膝が崩れかけた。崩れ落ちそうになるのを必死に堪えて、とにかく足を前に出す。
大して走ってもいないのに、心臓が早鐘のように打っていた。息が上がる。空気が冷たい。
アパートから出る直前に、大きな手に肩を掴まれた。悲鳴を上げて振り払おうとしたところを強制的に振り向かされた。大きく振りかぶった左手の影が目に入る。
「逃げるな! 馬鹿が!」
右の頬に衝撃。今度は堪えきれずに、美夜子はその場に崩れ落ちた。
口の中に血の味が広がる。平手打ちをされたのだと、そこでようやく気付いた。
「ったく、手間掛けさせやがって。仕事増やすなよ」
「高崎さん。どうしたんですか?」
忌々しげに吐き捨てる男────高崎の元へ、細身の女が歩み寄ってきた。高崎の足元でうずくまる美夜子を見て、目を丸くする。
「どうしたんですか、この子」
「ああ、
「発狂って」
打たれた頬を両手で抑えたまま、美夜子は大人たちのやり取りをぼんやりと聞いていた。もう逃げる気力はない。
「さっきの女の子の仲間でしょうか」
「さあな」
首を傾げる恵美になげやりに応えて、高崎は腕に取り付けた通信機に向かって報告を始めた。
「こちら高崎。A地区四番通りで少女一人発見。何とか落ち着かせたが、錯乱している。先ほど発見した少女の遺体との関連は不明」
────十二年前。
児童保護施設〈笑顔の里〉の女子生徒二人が、災厄獣の
発見したのは、
二人のうちの一人────野々宮鈴子は、既に災厄獣に襲われた後で、右半身を食い散らかされた遺体として発見された。
もう一人、珠野美夜子は無傷だったが、発見された当時は酷い錯乱状態だったという。
何故、
〈笑顔の里〉の教員に連れて来られた。『成人の儀式』として、A地区を超えて隣の
〈笑顔の里〉はこれを完全に否定した。野々宮鈴子と珠野美夜子が勝手に脱走しただけだと主張した。
事実関係を確認するため、一條家や評議員による視察が入り、〈笑顔の里〉の生徒の扱いが問題視されるようになった。
まるで囚人のようなペラペラの灰色の服。生徒の名前を一人も覚えていない教員。刑務所の方が数倍マシだろうと思える食事内容。大人の一挙一動に怯え、萎縮している子供達。
〈笑顔の里〉のやり方は、多くの人々から批判されるようになった。
同時に、こんな施設なら脱走したくなるのも無理はないと思われるようになった。
結局────美夜子の主張は、『怒られたくないために咄嗟にでっちあげた嘘』ということになった。
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