27、独りぼっち

 月明かりを頼りに、美夜子はひたすら前だけを見て歩き続けていた。

 女性教師の罵倒はもう聞こえない。辺りはしんと静まりかえっていた。

 空気が冷たい。

 もう冬眠しているのか、それともこの寒さで死に絶えてしまったのか、虫の声すら聞こえなかった。

(歩かないと。動かなきゃ駄目だ。ちょっとでも前に)

 目の前には、かつての街並みが広がっている。

 見上げるほど背が高いビル。

 掠れて何が書いてあるのかわからなくなった看板。

 壁のあちこちにひびが入り、右側に傾いた今にも崩れ落ちそうな民家。

 地面や建物のひびの間に生えた雑草が、風が吹くたびに揺れている。

 打ち捨てられ、人の手が入らなくなった廃墟の街に灯りはない。

 月と星が、やけに明るかった。

(夜が明ける前に、日が昇る前に、何とかしないと)

 災厄獣の活動時間は、昼だ。夜は動かない。

 その程度のことは、十五歳の美夜子でも知っていた。

『出来損ないのお前達のために、わざわざ夜を選んで連れて来てあげたのです。心優しい先生に感謝しなさい』

 耳元で、女性教師の声がした。

 ここには美夜子以外誰もいないはずなのに、汚い物を見るように睨みつける姿まで、見えたような気がする。

 不愉快な幻覚から逃げるように、足を進める。

(鈴ちゃん。鈴ちゃんは、どこにいるんだろう)

 自分よりも先に出た鈴子のことを思い出す。

 確か、美夜子より二時間ほど早く連れて行かれたはずだ。

(追いつけるかな)

 災厄獣の活動時間は、鈴子も知っているはずだ。おそらく、彼女も夜の間に可能な限り進もうとするだろう。

 二時間の差は大きかった。合流するのは難しい。

(三國みくにまで、どれくらい歩けば良いんだろう。こっちで本当に合ってる?)

『その程度のことがわからないのか。授業で教えてやっただろう。そもそもこの程度、知っていて当たり前の常識じゃないか。お前は本当に出来損ないだな』

 今度は男性教師の声だ。これみよがしにため息をつき、不機嫌そうに貧乏揺すりをする姿が見える。

『どうしてお前のような無能のために、先生方の貴重な時間を割かなければならないのだろうな。少しは頭を使うことを覚えたらどうだ。うん? 大人になったらそんな甘ったれた態度は許されないんだぞ』

 幻覚だ。幻聴だ。

 だが、確かに教師たちがよく口にする言葉だった。

 実際に居るのなら殴ってやるのに。幻ではそれすらできない。

 奥歯を噛み締めた時に、ビルとビルの間を冷たい風が吹き抜けていった。思わず身を竦める。

 空気が冷たい。吐く息が白かった。

 指先の感覚が無くなり、冷たさを通り越して痛みだけが残った。

(動かないと。止まっちゃ駄目だ。動かなきゃ)

 指先の痛みは、我慢できる限界をとうの昔に超えていた。歯をいくら食いしばっても身体の震えが止められない。

 目の前がじわりと滲んだ。片手で乱暴に拭う。濡れた目元と手のひらから、体温が奪われていく。

 身体が重い。もう動きたくない。

 だが、この状況で立ち止まったらどうなるか。

 十五歳の子供でもそれくらいの予想はできる。

(鈴ちゃんに追いつくんだ。鈴ちゃんと一緒なら大丈夫。大丈夫なんだから)

『まったく、これだから女は駄目なのよ。すぐに群れたがって、泣けば許してもらえると思ってるんだから。いいですか。あなたのいやらしい色仕掛けは、無能な駄目男なら騙せるでしょうけど、先生には通用しませんからね』

『この程度で弱音を吐くのか、お前は。最近の子供は本当に軟弱だな。先生が子供の頃は、お前のような甘ったれなんか居なかったぞ』

 幻覚がうるさい。そばに居ても居なくても、大人は子供を罵倒する。

(鈴ちゃんに追いつくんだ。絶対追いつくんだ!)

 子供は無力だ。

 嬉々として罵倒を続ける大人の言葉を、無視することしかできない。

 ぎりぎりと歯を食いしばりながら、美夜子はひたすら歩き続けた。

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