23、お姉さんが良いものをあげよう

 少年は、しばらく壁にもたれたまま動かなかった。

 男性教師の姿が完全に消えた後、ふらふらと覚束無い足取りで、壁に半ば縋るようにして歩き出す。

 そして少年は、一切迷うことなく真っ直ぐに

(あー、勘違いしてた)

 その背中について行きながら、美夜子は思わず天を仰いだ。

 耳の下あたりで切りそろえられた短い髪。痩せて丸みの少ない身体。身につけているのは、灰色のシャツと黒いズボン。

 外見からすっかり少年だと思い込んでいたが··········美夜子の目の前を歩いている子供は、少年のような外見をした少女だった。

 トイレから出た少女は、そのままふらふらと食堂へ歩いて行った。

 大勢の子供達が一斉に食事をする食堂には、一つで十人が座れる長テーブルが十台並べられている。椅子は錆び付いたパイプ椅子だ。

 壁際に大きな食器棚が二つあり、食器棚の向こうに、食器を洗うための水道や鍋を温めるためのコンロ、冷蔵庫があった。

 少女は無人の食堂の中を進み、慣れた様子で食器棚の中からコップを取り出した。水道で水を汲む。

 冷蔵庫には鎖が巻かれ、厳重に施錠されていた。鍵を持つ教師でなければ、開けられないようになっている。

 少女が水を飲み、一息つけただろう頃を見計らって、美夜子は声を掛けた。

「こんにちは」

 少女の肩が大きく跳ねる。美夜子はにっこりと笑いかけた。

「とりあえず座ろっか。立ってるの辛いでしょ」

 目を丸くした少女に構わずに、勝手に一番近くにあったパイプ椅子に腰掛ける。

 少女はコップを両手で握りしめたまま立ち尽くしていた。美夜子が笑顔を崩さないまま待っていると、おずおずと向かい側の椅子に座る。

 美夜子の正面ではない。斜め前方だった。

「まだ顔青いね。今飴しかないんだけど、食べる?」

「··········あんた、誰」

 バッグの中には、咳止め用のフルーツのど飴しか入っていなかった。適当にいくつか掴んで、テーブルの上に出す。

 のっぺりとしたテーブルの上で、赤や紫の包装紙がやけにはっきりと映った。

「ああ、ごめん。まだ自己紹介してなかったね。私は珠野美夜子。守護兵ガードマンだよ」

守護兵ガードマンがなんでこんなところに」

「名前、聞いても良いかな」

 少女は美夜子を睨みつけた。小さな声で呟く。

「そんなの聞いてどうするのさ。どうせ覚える気なんてないくせに」

 ああ、そこも〈笑顔の里〉と同じなのかと、美夜子は思わず苦笑した。

 先ほど少女を罵倒していた男性教師は、一度も彼女の名前を呼ばなかった。

 子供を個人として認識していないからだ。だから名前などどうでも良くて、罵倒する時は「お前」と言えば良い。

「私は覚えるよ」

 少女にとっては、美夜子もそんな大人の一人にしか見えないだろう。

 だから、警戒されて当然だ。

「名前、教えてくれる?」

「··········芽衣めい下沢しもさわ芽衣めい

「芽衣ちゃん。ありがとう。綺麗な名前だね」

「で、守護兵ガードマンのお姉さんはなんでこんなところに来たわけ? あたしの名前聞きに来たわけじゃないんでしょ」

 名前は教えてくれたが、まだ芽衣は険しい表情を崩さない。

 美夜子はのんびりとした口調で言った。

「そうだねえ··········私、ここの卒業生だったから。今はどうなってるのかなあって見に来たんだ」

「はあ!? 卒業生!?」

 芽衣が突然怒鳴り声を上げた。血の気が失せた頬に僅かに赤みがさす。コップを握る手がぶるぶると震えていた。

「嘘だ! 嘘ばっかり! 卒業生!? そんなのいるわけないじゃん!」

「め、芽衣ちゃん芽衣ちゃん、落ち着いて」

「あたしは落ち着いてるよ!」

 芽衣は、両手をテーブルに叩きつけた。

「あんた知らないみたいだから教えてあげるけどさ、ここに入れられたらもうおしまいなんだよ! 終わり! バッドエンド! 何があったってぜーったい幸せになんかなれない!」

「芽衣ちゃん」

 一度だけでは気が済まなかったのか、芽衣は何度も繰り返しテーブルを平手で叩き続けた。

 少女の白い手のひらが、振り上げるたびに赤くなっていく。

「テレビなんか見なくたって、それくらいわかるんだから! 毎日毎日変な奴が来てさあ! 教師共は馬鹿みたいに笑ってさあ! 『成人の儀式』なんか無いって言うんだ!」

 芽衣が再び手を振り上げたところで、美夜子は椅子から立ち上がり、身を乗り出してその細い手首を掴んだ。

「あたし達に向かってはあんな風に笑わないのにさあ、へらへらしやがって! 十五になったら『成人の儀式』があるって言ったの、あんたらじゃないか!」

 芽衣はじたばたと暴れるが、美夜子はそれを押さえ込んだ。

 痩せ細った幼い少女の腕力では、守護兵ガードマンである美夜子は振り払えない。

「離せよ! 離せ!」

「離さないよ。手、痛いでしょ」

「何なんだよ、あんたは!」

 芽衣の目に、じわりと涙が浮かんだ。美夜子が手を離すと、両手で乱暴に目元を拭う。

「どうせあたしの手なんかどうでも良いくせに! うるさいって思ったんだろ! 黙れって思ってんだろ!」

「芽衣ちゃん」

「なんだよ卒業生って。卒業なんかできるわけないだろ。どうせ『成人の儀式』で皆殺されちゃうんだから」

「芽衣ちゃん」

「自由だって、もう自由なんだって言ってたのに。嘘ばっかり。十五歳になったらA地区に放り出されて、災厄獣の餌にされちゃうんだ。みんな死んじゃうんだ。卒業なんかできない」

 テーブルを回り込み、芽衣の隣に腰掛ける。両手で顔を覆って呻き続ける少女の背中に手を押し当てると、芽衣は小さく息を飲んだ。

「ごめんね。言葉が足りなかった。芽衣ちゃん。私はね、『成人の儀式』を何とか生き延びて、守護兵ガードマンになったんだ」

 芽衣の背中を、ゆっくりとさする。少しでも安心できれば良いと思った。

「いき、のび··········?」

「うん。たまたま巡回中だった守護兵ガードマンに見つかってさ、そのまま保護された。施設には戻りたくなかったから、守護兵ガードマンの訓練生になった」

 芽衣の手が、顔から離れる。背中を撫でる方の手は止めず、美夜子は空いた片手をジャケットのポケットに突っ込んだ。

「芽衣ちゃん。良いものをあげるよ」

 ポケットの中から、一本のペンを取り出す。外見はただのボールペンだが、通常の物より一回り太かった。

「何、これ」

「見守りペン。小さい子に持たせる携帯端末みたいなやつ。対象年齢は三歳から」

「三歳からって··········あたしもう十三なんだけど」

 ペンの中側を指で抑えて、右側にスライドさせる。丸いボタンが六個ついていた。左から順に『あ』『さ』『な』『ま』『ら』『↑』と振られている。

「文字変換はできなくて、ひらがなだけだけ。それから、送れるのは五十文字までだけど、このペンに登録した端末にメールを送れるんだ。ソーラーパネルで勝手に充電してくれるから、いざと言う時に使えなくて困るってことはない」

 ボタンの上には、小さな液晶画面がある。入力された文字はここに表示され、『↑』ボタンで特定の端末に送信される。

「登録されてる端末からなら、メールを受信することもできるよ。例えば、ほら」

 美夜子は、自分の携帯端末の画面に『こんにちは。みやこです』と入力して、一度芽衣に見せた。

 送信先は『見守りペン①』。メールを送信すると、見守りペンの画面が青く光り、手紙のアイコンが表示される。

「矢印ボタン、押してみて」

 美夜子に促されて、芽衣はこくりと小さく頷いた。言われた通り、『↑』のボタンを押す。

 見守りペンの液晶に、『こんにちは。みやこです』と文字が表示された。

「芽衣ちゃん。このペン、あげるからさ。もし次に、いつ『成人の儀式』をやるのかわかったら、私に教えてよ。助けに行くからさ」

 携帯端末に登録した『見守りペン①』を『下沢芽衣』に変更しながらそう言うと、芽衣は目を見開いた。

「助けるって··········どうやって」

「芽衣ちゃん。みゃあこさんはね、こう見えて守護兵ガードマンなんですよ」

 一度得意げに胸を張ってから、美夜子は幼い少女の手に見守りペンを握らせた。

「先生に見つかったら、きっと取り上げられちゃうだろうから、それだけは気をつけて」

 少女の手を包むように自分の両手で覆う。

 芽衣の手は酷く冷たかった。

「災厄獣なんて、私がみんなやっつけてあげるよ。だから、芽衣ちゃん。大丈夫」

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