19、岩渕滋子
食後のコーヒーとデザートが終わり、卵料理専門店を後にした。
店のすぐ前の道路に、流線型の自動車が停まっていた。
最近流行りのAIを搭載した、自動運転ができるものではなく、人間が運転をしなければならないものだ。くすんだ灰色のスーツを着た初老の男性が、車の前でかしこまっている。
「うちの運転手の松野よ」
「松野と申します。よろしくお願いいたします」
自分よりもずっと年上の男性に頭を下げられ、美夜子は慌てて一礼した。
「
「球野美夜子様」
美夜子の名前を口の中で呟き、松野はいかにも好々爺然とした笑みを浮かべた。
「ケイトお嬢様のご友人様でいらっしゃいますね。いつもお嬢様がお世話になっております」
「いえいえ、こちらこそケイトさ────隊長には、いつも大変お世話になって────」
「いつも通りで大丈夫でございますよ」
「え」
美夜子が目を丸くすると、松野は得意げに言った。
「みゃあこ様のお話は、何度もお聞きしました。訓練生時代、夜中にこっそりとお二人でお菓子を召し上がったとか」
思わずケイトの方を見ると、あからさまに目を逸らされた。
「ケイトさん?」
「…………しょうがないでしょ。松野は私専属の運転手なんだから」
「ええ、仰る通りです。私はケイトお嬢様がお小さい頃からお仕えしておりますから。雷が怖いとお泣きになり、ピーマンが嫌だと駄々を捏ねて、宿題が難しいから代わりにやってと仰っていたお嬢様が────」
「ああ、大変だわそろそろ行かないと遅刻するわね。ほら、早く出発しましょ」
「おや残念」
早口に遮られ、松野は本当に残念そうに眉を下げた。
ケイトがさっさと車に乗り込む。その後に続きながら、美夜子は松野に囁いた。
「ちっちゃい頃のケイトさんの話、あとで、もっと教えてください」
松野は一度目を丸くして、それからあの好々爺然とした笑みを浮かべて見せた。
「ええ。機会がありましたら、是非」
〈やすらぎの園〉は、東側の
A地区に近づくほど、道は荒れ、原始的になっていく。
アスファルトで舗装された道は、土で踏み固められたものに変わり、高層ビルが木造の平屋に、そのうち家そのものを見かけなくなる。
小さな車が二台、何とかすれ違えるかどうかといった幅の道の両脇には、鬱蒼とした森が広がっていた。
(………………あ)
耳元で、女性教師の声が蘇る。
────ここは
(ここって…………〈やすらぎの園〉って)
前方に、あちこちが錆び付いた大きな門があった。
この門に、辺りの風景に、見覚えがある。
「到着致しました」
「ありがとう、松野。みゃあこ、行くわよ」
「あっ、はい」
ケイトの声で我に返る。車から降りると、冷たい風が頬を撫でた。
(でも、今は寒くない)
松野の車のすぐ後ろに、二台の高級車が停まった。先頭の車から岩渕が、後ろから三人の男がぞろぞろと降りてくる。
「初めまして。
「
挨拶に向かったケイトに冷たい声でそう答えて、岩渕は重々しく頷いた。
眉をしかめ、口をへの字に曲げて、目の前にあるものを睨みつけている。ニュースで見た時と同じ表情だ。今日は喪服のような黒のスカートスーツである。
岩渕の背後にいる三人の男は、多少のばらつきはあるものの、全員長身で体格が良い。
身につけているのは黒のダークスーツだ。岩渕と同じく、険しい表情を浮かべている。
(なんであんな
そんなことを思っていたら、岩渕と目が合ってしまった。慌てて背筋を伸ばして、愛想笑いを浮かべる。
岩渕の左の頬が、僅かに引きつった。
「ケイトさん。あなたの護衛はこの子一人なの?」
「護衛?」
「駄目じゃない、一條家のお嬢さんがそんなんじゃ」
岩渕はゆっくりと腕を組んだ。唇の端が吊り上がっていく。
「このあたりの治安は最悪です。きちんと護衛をつけなければ────一條家のご令嬢に何か間違いがあったら、大問題でしょう?」
「ご心配ありがとうございます、岩渕さん」
ケイトはにっこりと笑ってみせた。
「私は
「あらそう」
美夜子の肩に、ケイトの手が触れた。軽く引き寄せられる。
「それから、この子は私の護衛ではありません。
「初めまして。珠野美夜子と申します。
岩渕の唇が、元の位置に戻った。美夜子をぎろりと睨みつけ、低い声で呟く。
「そう…………この子が。なるほどね」
(なるほどって何が?)
疑問に思ったが、口に出せるような空気ではない。
腕を組んだまま、岩渕はケイトの脇をすり抜けて行った。その後に、護衛の男達が続いていく。
「これ以上のお喋りは時間の無駄です。早く仕事を始めましょう」
「ええ、わかりました」
(なんで大人ってのは、自分で話振っておいてそんな言い方するかなあ)
岩渕の言葉に、ケイトはにっこりと頷く。その隣で、美夜子は引きつった愛想笑いを浮かべていた。
胸中の言葉は外には出さない。それくらいの空気の読み方は、さずがに身につけていた。
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