13、もう子供じゃないんですよ
その日、
夜間待機の日は、午後三時までに本部に出勤すれば良い。そのため、少し時間に余裕があった。
いつものように目覚まし時計を止めて、時間を確認する。
朝の十時。二度寝しても問題無い日だが、美夜子はのそのそとベッドから這い出した。
顔を洗って髪をまとめ、コーヒーを入れる。厚切りパンとコーンスープが今日の朝食だ。
服は、白いブラウスの上に灰色のジャケットを羽織り、紺色の膝丈スカートを履く。足元は踵が低めの紺色のパンプスだ。
バッグを片手に部屋を出る。回覧板を持った大野が、階段を登ってくるところに出くわした。
「おはようございます、大野さん」
「おはよう、みゃあこちゃん。お出掛けかい?」
「ええ。ちょっとお見舞いに」
「あら、大変」
大野の顔が曇る。美夜子は慌てて片手を振った。
「ああ、大丈夫です。もう手術も終わって、今はリハビリ中なんですよ」
「
大野の顔は晴れない。美夜子は苦笑いを浮かべた。
「はい、気をつけます」
公立市民総合病院は、
面会の申し込みをしようと受付に向かう。
美夜子の前にやって来たらしい初老の女性が、受付の看護師に向かって何やら
「あなた、耳が聞こえないんですか!? 何回言えばわかるんです! 早瀬ユイの見舞いに来たんですよ!」
白髪が混ざり始めた耳の下あたりまでのショートヘア。化粧は必要最低限。身につけているのは喪服のようなパンツスーツだ。背は美夜子と同じか、やや低いぐらいだが、横幅があるので迫力がある。
「ですから~、何度も申しあげてるんですけど~、ユイちゃんの面会は禁止されてるんですよ~」
対する看護師の方は、見るからに華奢で小柄だった。
ふわふわと柔らかそうな茶髪、大きな瞳。化粧をして白衣を羽織っているので何とか成人しているように見えるが、場合によっては未成年と言っても通用するかも知れない。
「あなた、わたくしが誰だかわかってるの? 〈やすらぎの園〉の中里よ!」
「あら~、保護施設の方でしたか~、じゃあ尚更駄目ですね~」
穏やかな笑顔、間延びした口調で、看護師は中里の要求をきっぱりと拒絶した。中里が受付のカウンターを叩く。
そこに、美夜子は割り込んだ。
「お久しぶりですね、中里先生」
軽く肩を叩いてやると、中里は弾かれたように振り返った。美夜子を見て、首を傾げる。
「誰ですか、あなたは」
「あら、お前じゃなくてあなたなんですね」
中里が顔をしかめる。美夜子の顔を正面から見ても、まだわからないらしい。
(まあ、あれから十二年経ってるしねえ)
だが、美夜子は忘れたことはなかった。声を聴けば、すぐにわかる。
────多忙なわたくしがお前達のためにわざわざ時間を割いてやっているというのに、何の挨拶もないのですか!
────まったく最近の若者はこれだから。わたくしが子供の頃は、お前達のような礼儀知らずの失敗作など、こんなにたくさんいませんでしたよ。
────お前達は感謝すべきなのです。今まで〈笑顔の里〉の先生方に育てて頂いたご恩を思えば、そんな無礼で図々しい質問など口が裂けても言えないでしょう!
あの怒鳴り声。事ある毎に子供を怒鳴りつける大人たちの声は、忘れたくても忘れられない。
「〈笑顔の里〉から〈やすらぎの園〉に異動されたんですね。相変わらず、『成人の儀式』の担当をされてるんですか?」
「あなた··········あなたは」
〈笑顔の里〉と聞いて、中里の顔色が変わった。だが、まだ美夜子の名前を思い出せないらしい。
「野々宮鈴子、覚えていますか? 私と一緒に『成人の儀式』に参加した子ですよ」
「あら大変~」
看護師が穏やかな笑顔を維持したまま、間延びした口調で言う。
「確か、『成人の儀式』ってえ、十五歳になった子を無理やり
「な、何を、でたらめなっ!」
中里の顔が真っ赤に染まる。拳を握りしめ、早口に、
「適当なことを言わないでちょうだい! あの子達はね、わたくしたち教師の目を掻い潜って、勝手に
「へえ、そうなんですね」
そんな中里の様子を、美夜子は冷ややかに眺めていた。
十二年前は、何かを発言すればすぐに怒鳴り散らされた。
感謝が足りない、恩知らず、非常識、最近の若者はこれだからと馬鹿にされ、まともに聞こうともしなかった。
だが、今は違う。美夜子はもう大人になっていた。
「でも変ですねえ。保護施設の子供の家出は、十二年前にも問題になったはずなんですけど。〈笑顔の里〉はそれで解体されて、保護施設の在り方が見直されたんじゃありませんでしたっけ?」
「わたくしは精一杯··········!」
「ええ、先生方は精一杯頑張っていらっしゃるんでしょうね」
〈やすらぎの園〉の職員の主張は、こうだった。
子供が勝手に
好奇心旺盛な少年少女の無謀な冒険だった。
『成人の儀式』など知らない。叱られることを恐れた子供の嘘に決まっている。
施設に務める教師達は、子供たちのことを非常に心配している────
だが、
『成人の儀式』として、隣の街まで歩いて行けと言われた。これを乗り越えれば、自由になれると思っていた、と。
十二年前、〈やすらぎの園〉と同じような『成人の儀式』を行った〈笑顔の里〉は、教師たちの児童の扱いを問題視され、解体された。
「でも、もう少し何とかなったんじゃないですか? 十二年前に、〈笑顔の里〉で勤務されていた中里先生がいらしたんですから。生徒の家出がどれほど危険か、中里先生はよくご存知でしょう?」
だが、結局、子供の言葉は大人には届かない。
〈笑顔の里〉が解体された後も、『成人の儀式』の犠牲になる子供がいた。
問題視された保護施設は解体されても、中里のように何食わぬ顔で他の施設に務める教師がいる。
「不思議ですよねえ。十二年前の〈笑顔の里〉の『成人の儀式』の時も、今回の〈やすらぎの園〉の『成人の儀式』でも、施設側は子供たちが勝手に脱走したって主張してて、保護された子供たちは大人に街の外へ放り出されたって主張してるんです。どっちが本当なんでしょうね」
中里の顔から、赤みが消える。
逃げるように視線を逸らされたが、美夜子は半歩移動して、中里としっかり目を合わせた。
「長年教育に携わっている中里先生なら、何故かわかりますよね? 十二年前の『成人の儀式』騒ぎの時だって、〈笑顔の里〉で働いていらしたんですから」
「し、知りません。知りませんよ、そんなこと」
中里が逃げるように距離を取った。首をぶるぶると横に振り、美夜子を指さして叫ぶ。
「大体何なんですか、あなたは! さっきから好き勝手なことばかり言って!」
「まだ思い出して頂けないんですか? 中里先生」
美夜子はにっこりと中里に笑いかけた。
「そう言えば、〈笑顔の里〉の先生方は生徒の名前を覚えようとしませんでしたね。私のことも覚えていらっしゃらないんでしょう? 十二年前に、中里先生に直接『成人の儀式』についてご指導頂いたんですけど」
「知りません! 私は知りませんよ!」
中里が逃げ出した。ばたばたと小走りに距離を取った後、突然くるりと振り返って、
「まったく、これだから最近の若者は! 礼儀がなってません!」
捨て台詞を残して、ばたばたと走り去っていく。美夜子はその背中をにやにやしながら見送っていた。
「やっとらしくなってきたじゃないですか、中里先生」
美夜子の呟きは、中里には届かなかったようだ。〈笑顔の里〉の教師達の決め台詞、「感謝しなさい」を引き出せたら指をさして笑い飛ばしてやるつもりでいたのだが。
気を取り直して、受付に向かう。看護師は、相変わらず穏やかな笑顔のままだった。
「こんにちは、神崎さん。すみません、来てそうそう騒いじゃって」
「いいえ~、むしろ助かりました~。あの人、何回駄目って言っても聞いてくれなくて~」
看護師────神崎が頬に手を当てて、可愛らしくため息をついた。すぐに気を取り直したように笑顔に戻り、
「珠野さん、ユイちゃんのお見舞いですか? さっきリョウくんが来ましたよ。あ、ここにお名前ご記入お願いします~」
神崎が、カウンターの奥の引き出しから記名簿を取り出した。
それを見て、美夜子は首を傾げる。
「あれ、これ、いつもはカウンターに出しっ放しでしたよね」
「勝手に名前を書かれて突撃されたら困っちゃいますから~」
「なるほど。大変ですね」
「そうなんです、大変なんですよ~」
神崎が、にっこりと微笑んだ。
「十二年前と同じ失敗はしたくないですからね。これでも成長したんですよ」
「あれ? 神崎さんって、おいくつでしたっけ?」
場合によっては未成年にも見える神崎の年齢は、外見だけでは予想できない。
神崎は、笑顔を崩さないまま言った。
「ないしょです」
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