2、追い詰められた時のとっておき
少年は、かなり痩せ細っていた。
身につけているのは、あちこちに穴が空いたぼろぼろの灰色の服。
腕や顔には擦り傷があり、血が滲んでいるところや青黒い痣が浮かんでいるところがある。
足元は擦り切れたスニーカーだ。左足の爪先が、大きく破れている。
この状態で災厄獣から逃げ続けていたのだ。助かったのは奇跡に近い。
「君、名前は? 何歳? あっちこっち怪我してるけど、歩けそう? 特にここが痛いとか、気持ち悪いとかはある?」
「あ、あの…………お、俺…………俺は…………」
少年がぱくぱくと口を開閉する。
掠れてはいたが、声変わりが終わった低い男の声だった。
体格や身長から勝手に十代前半あたりだろうと思っていたのだが、実際にはもう少し上なのかも知れない。
「ああ、ごめんね。こんなに一気に言われたら困っちゃうよね」
にこやかにそう言いながら、美夜子の意識は視界の端に映る災厄獣の群れに向けられていた。
災厄獣はのんびりと散歩を楽しんでいる。まだ遠い。だが、数が多過ぎる。あれに囲まれたらひとたまりもないだろう。
あの数と戦いながら、少年を守りきる自信はない。
一刻も早く、ここから離れて梨乃と合流しなければ。
美夜子は少年に背を向けて、しゃがみこんだ。
「すぐ近くに私の仲間がいるから、早く合流しよう。さあ、おぶさって」
「で、でも…………俺…………」
「恥ずかしがらなくていいから。その足で歩くの大変でしょ」
「俺…………俺は…………」
「大丈夫だよ。ご覧の通りのチビだけど、これでもちゃんと鍛えてるんだから。このまえ第五部隊の飲み会で、何故か突然力自慢大会が始まったんだけどさ、その時、私は八十キロオーバーの大男をお姫様抱っこしたんだよ。君、八十キロもないでしょ?」
「あ…………あ…………」
「あれに比べたら君は羽みたいなものだよ。だから気にしないで、ほら────」
「あ、あああああっ、みゃあこさん! 前!」
少年が悲鳴のような声で叫ぶ。
反射的に、美夜子は片膝立ちの姿勢のまま、
右手に衝撃。災厄獣の鋭い爪が、赤光刃の柄に食いこんでいる。
(仕留め損ねた!?)
美夜子が喉奥を貫いてやった災厄獣は、倒れたままだ。
目を赤く血走らせ、口の端から青い血を流しながら襲いかかって来たのは────梨乃の狙撃で倒れたはずの、二匹目の災厄獣。
「先輩すみません、仕留め損ないました! 今すぐ援護しますから、それまでは!」
「みゃ、みゃあこさん」
通信機からは焦ったような梨乃の声が、背後からは今にも泣きそうになっている少年の声が聞こえる。
「オーケーオーケー。ナイスアシスト。大丈夫だよー」
通信機と背後の両方に聞かせるつもりでそう言った。
二人に気づかれないよう、美夜子はこっそり奥歯を噛み締めた。
今、災厄獣に一番接近している
少年の安全を確保した後、もう一匹の方の生死確認も美夜子がするべきだったのだ。
(だけど、手負いだ。これぐらいなら、まだ大丈夫!)
青白い光が、災厄獣の頭を掠める。梨乃の援護射撃だ。
災厄獣がよろめき、右腕の重みが少しだけ緩んだ。
災厄獣を跳ね飛ばしてやるつもりで右手を振り上げる。がら空きになった脇に、
大きく後ろに下がった災厄獣が、口を開いた。
今度こそとどめを刺してやろうと、その喉奥に赤光刃を押し込もうとして、
「…………っ!
────キィィエエエエアアァァァ!!
災厄獣が咆哮する。
追撃しかけた足を止めて、美夜子は腹に力を入れた。美夜子の声に反応して、赤い刃が赤い盾へと変化する。
拳で殴りつけられたかのような衝撃が襲ってきた。直接耳にするよりはある程度は緩和されているはずなのに、盾を持つ右手がびりびりと痺れている。
────キィエア! キア! キィエェアア!
短い咆哮を繰り返しながら、災厄獣は鋭い爪で何度も盾を殴りつけてきた。
これでは反撃どころではない。盾を取り落とさないようにするのが精一杯だ。
(このままじゃ
梨乃の援護射撃はまだ続いている。
青白い光は何度も災厄獣の頭や肩を掠めているが、興奮した化け物は止まらない。
(どうにかして、なんとか、この子だけでも)
目線だけで、背後の少年の様子を確認する。
さぞ怯えているだろうと思いきや、彼は何かを決意した表情で、しっかりと両足で立っていた。
その手には、小石が握られている。
(まさか··········!)
「それ投げたらぶん殴るからね」
優しくしなければと思ったばかりだったのに、つい声が尖ってしまった。
びくりと少年の肩が跳ねる。怯えたように顔を歪めていた。
美夜子は思わず苦笑する。
「え、でも、でも、俺」
「でもじゃない。今何とかしてあげるから、それまで大人しくしてなさい」
左手でウエストポーチを探る。何か───何か使えそうな物はないか。
双眼鏡、二十メートルのワイヤを収めたワイヤリール、加速器の
「もう少しだけ耐えてください、先輩。次で仕留めます!」
「梨乃ちゃん、ひとつお願いがあるんだけど」
「お願い? なんですか?」
「私が合図出したら、災厄獣と盾の間を撃ってくれる?」
「え、ああ、はい。わかりました。え、あいだ…………?」
「当てにしてるからね。
────キィィエェエエ!
災厄獣が吼える。
右手は痺れて、もうほとんど感覚がない。片膝をついて堪える。
「みゃあこさんっ」
「良いとこに来てくれたね、少年。そのまま私にしがみついて」
「え」
「拒否権なーし!」
心配そうに近づいてきた少年を左手で捕まえて、そのままがっちりと抱え込んだ。
少年が、おそるおそる両腕を美夜子の身体に巻きつける。
「良い子だ。そのまま、しっかり私につかまってるんだよ」
その腕を軽く叩いてから、左手をウエストポーチへと伸ばす。
目当ては────加速器の
「梨乃ちゃん、お願い!
三つあるうちの一つを、ウエストポーチから抜き取った。美夜子にしがみついている少年の腕に、力が入る。
「
災厄獣が爪を大きく振り上げた。
その隙に、美夜子は
「
青い光が、
美夜子は左腕で、しっかりと少年を抱え込んだ。
盾の向こう側で、白い光が膨らむ。災厄獣の姿が見えなくなり、代わりに凄まじい衝撃が襲いかかってきた。
「────っ!」
両足が完全に地面から浮いた。そのまま後ろに吹き飛ばされる。
抱え込んだ少年を手放さないよう、腕に力を込めた。
(守らないと。この子は、私が。守らないと)
左肩に衝撃。痛みを感じる間もなく、そのままごろごろと地面を転がる。
何かに背中を強く打ちつけたところで、ようやく止まった。一瞬目の前で白い星が散り、すぐに暗くなる。
「美夜子先輩!」
ばたばたと、こちらに向かって走ってくる足音が聞こえる。
────やあ、梨乃ちゃん。どうしたの、そんな泣きそうな顔しちゃって。それにしてもさすがだね。作戦大成功だよ。みんな梨乃ちゃんの狙撃のおかげだね。
すぐに立ち上がって、そう言ってやるつもりだった。
抱えていた少年の安否を確認しなければ。呑気に転がっている場合ではない。
なのに、動けない。意識はあるのに、目の前がどんどん暗くなっていく。
「先輩、大丈夫ですか!? 美夜子先輩!」
(でも、大丈夫だよね。梨乃ちゃん、居るし)
美夜子は、意識を手放した。
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